Epilog im Himmel : Aufheben von regenbogen / The pair staring each other (天空への終章:虹の止揚 / 見つめる二人)
私は、暗闇の中、光を求めて手を伸ばす。何度も空を切るばかりだ。
その手が何かに握られた。それは水よりも暖かかった。
ふと気がついて、目を開ける。キイツの声が聞こえた。
「やっと気づいた。大丈夫か?」
その声は、いつもと少し振動数が違っていた。
「一体、何が起こったんですか? 私には闇しか見えなくて」
「ああ、そうやった。ちょっと待ってな。今、包帯取るから」
キイツは、アクアの包帯を取った。アクアの目に再び光が入る。最初に目に入ったのは、キイツだったが、何故か前より二次元的に見えた。
「どうやら私は負傷して、気絶していたようですね」
「医師の診察では、命に別状はないらしい。今は左手を動かしづらいやろうけど、時間が経てば治るって。せやけど…」
キイツはそこで言葉を詰まらせた。アクアは、自分の手足を動かしてみた。キイツの言うとおり左手以外は、特に問題は無かった。だが、違和感は左手だけではなかった。何気なく、視界に入った鏡に自分の姿が映っていた。左手には包帯が巻かれていた。だが、左目にもまだ包帯がしてあった。
左目を触る。窪んでいた。気絶する前に見た、炎に包まれた家が脳裏によぎる。最後に見えたのは、視界を覆うガラス片だった。
「もう、左目は見えないんですね…」
キイツは、無言でうなずいた。ラプラスの魔は、”知識”の代償として左目を奪って消え去っていた。知識の為ならば、全てを捧げても構わないと思っていた。だから、たかが、片目ぐらい大した事はなかった。それでも、実際に失ってみると、思っていたよりは辛かった。
「せや、これを返さへんとな」
キイツは懐から何かを取り出して、アクアに差し出した。それは、ユキからもらった神戸ノートだった。
キイツはアクアの家を燃やす際に、例の神戸ノートを見つけて持ち帰っていた。
「昔、親友が同じノートを使ってたんや。せやから、どうしても燃やす事が出来へんかった」
緑色の表紙の中には、よくわからない数式や図が書かれていた。キイツはクリスのノートとは違うなと思い、笑ってしまった。
訝しげな顔をしたアクアにキイツは答えた。
「同じノートなのに、内容が全然違うて、つい笑いが…」
「親友は、ノートに何を書いていたんですか?」
「…詩や。世界で一番美しい…」
そして、キイツは自分とクリスの過去を語った。
キイツの話を聞き終えて、アクアはあることを思い出していた。
「そのクリスという子の苗字は、アオバではないですか?」
「…そうやけど。なんで、アクアが知っているんや?」
「やはり! アオバ・クリスは私の親戚です。日本に親戚がいたと聞いたことがあります。私は小さく会ったことは覚えていませんが…」
「まさか、あのアクマ…じゃなかったアクアちゃんか?」
「…なんだか聞き捨てならない言葉を聞いた気がしますが、クリスが話していた親戚の子とは私のことでしょう」
「あのアクアちゃんが、こんなに大きくなったとはなあ…。クリスの分までプレゼントを考えないといけへんな」
「恥ずかしいのでちゃん付けはやめて下さい。まさかこんな繋がりがあったとは驚きです」
「いや、繋がりはそれだけじゃないで。旅の初めから預かってたこれも返さへんとな」
キイツは、レシートを取り出した。そこには、森鴎外記念館と書かれていた。
「アクアも東京の森鴎外記念館に行って、この本を買ったんやな。『ファウスト』の翻訳本を入れる様におお願いしたのは、自分なんやで」
「そうです。あの翻訳本を取るきっかけがあなただとは思っていませんでした。感謝しなければならない事がまた増えましたね」
ふと、キイツは、ノートを再び開いてながめると、話題を変えた。
「そういえばこの式、ファウストの表紙にも書いてへんかった? 浪江・須藤方程式やったけ? この式可愛いやん」
キイツはノートに書かれたナビエ・ストークス方程式の非線型対流項(v・▽)vを示した。
「この部分が喜んでいる人みたいや」
アクアは予想外の発想に笑ってしまった。今度は、キイツがきょとんとしていた。
アクアは思った。
まるでコルプスの様だ。
いやある意味で、非線形を愛したという点では、コルプスと同じかもしれない。
「そんな発想は初めて聞きました。この式は、ナミエ・スドウ方程式ではなく、ナビエ・ストークス方程式です。この人は、須藤浪江さんに似てたんですか?」
「いや、知り合いに須藤浪江さんはいないで。でも良い名前やん」
キイツも笑った拍子に、ノートに挟んでいた何かが落ちた。
アクアが拾ったそれは、アクアとコルプスが写った白黒写真だった。
この白黒写真は、コルプスと二人で作ったピンホールカメラで写したものだ。背景に写る星々は、線上になっていた。日周運動が観測できるほど長い間、じっとしているのは大変だった。
コルプスは、『日本沈没』を読みながら、日本の流し台に座り、考える人のポーズを取っていた。
写真の裏には、こう記されていた。
I think
of thing
for Japan sinks
sitting
on Japanese sink.
(私は、日本の流し台に座りながら、『日本沈没』について考える)
そして、小松左京の墓に捧げた『日本沈没』の表紙に書いた式も書かれていた。
∇・Japan = -1973
この文章と式を書いたのはコルプスだった。文章の意味は分かったが式の意味が分からなかったので、アクアはかつてコルプスに尋ねていた。
「この式は、どういう意味ですか?」
「発散(Divergence)がマイナスの時はなんて言う?」
「Sinkですが。…なるほど、日本の発散がマイナスなので、Japan Sinks(日本沈没)と。1973という数字は?」
「『日本沈没』が発表された年。つまり、∇・Japan = -1973 (Japan Sinks 1973)となる」
それは、コルプスとアクアが日本に渡る直前に撮影したものだった。
そうだ。コルプスが言えなかった事を言わなければ。アクアはコルプスの事を話す事に決めた。
「キイツ、あなたは昔、ローマで迷子になりましたよね」
「え! 何でそんな事知ってるんや! 恥ずかしいから話した事なかったのに…。あの時は、コルプスっていう親切な人に案内してもらって本当に助かったわ…」
「あなたに出会う前から知っていましたよ。なぜなら、あなたの事を案内したコルプスは、私の親友ですから」
アクアは拾った写真を見せた。そこには、キイツも知っているコルプスが映っていた。
「あ、本当にコルプスさんや。何で今まで言ってくれなかったん?」
「楽しみは最後まで取っておく方なので。それから、コルプスからの伝言です。Japan Sinkは、日本の流し台ではなく、日本沈没という本の事です」
写真の裏側の文字を見せた。
「Japan Sinkって、日本沈没の事だったんか。いや、日本の流し台のカタログを送る時も変だとは思ってたんや。せやけど包装紙に使われてた浮世絵やウォシュレットみたいな日本では当たり前なものでも、外国の人にとっては珍しいものがあるから、その類だと思ってたんや」
それから、アクアはようやくコルプスとの過去をキイツに語った。
それは決して楽しいものではなかった。
「なんかこの旅に出る前から、色々つながりがあったんやな…まるで小説みたいや」
「それを言うなら、事実は小説より希なり(truth is stranger than fiction)…でしょう」
「バイロンの言葉やな。意外と詩が好きだったりするんか? 」
「コルプス先生のSatanic Schoolから得た知識がほとんどですが、多少は詩も知っていますよ」
過去を話し合った二人は、互いを見つめあい、視点を共有することができた。
アクアは、差し出されたキイツの手を握る。詩を愛する者と真実を愛する者が和解した瞬間だった。
「…なかなおりできたんやな」
小さな訪問者がいつの間にか二人の背後にいた。ユキだった。歩行の様子から判断すると、足の怪我は軽傷だったのだろう。キイツがユキに聞いた。
「どうしたんや?」
ユキは、キイツの方ではなく、アクアの方に向かった。そして、何かをアクアに差し出した。それは、家と共に燃やしたはずの『ロウソクの科学』だった。
「ごめんなさい。勝手に持ってきたんや。何か燃やしたくなかったんや。返します」
アクアは、驚いた。そして、ふと、今まできちんと聞いてこなかったことを尋ねることにした。
「そういえば、あなたのフルネームはなんというのですか?」
「雨矢 雪です」
「ユキ…。どういう字を書くのですか?」
キイツが代わりに答えた。
「雪...つまり、Snowやな。アクア(水)よりも冷たいけれど、美しい対称性を持ったもの。せやけどアクアは、ほんまに冷たい訳じゃないけどな」
「Snowですか。C.P.Snowの様に、文系のキイツと理系の私を繋ぎ止めたあなたはには、相応しい名ですね」
『ロウソクの科学』に書かれた通り、この子がロウソクの様に、いやロウソクよりも太陽よりも輝いて欲しいとアクアは願った。
「その本はあなたに、あげますよ」
雪は、うれしそうにページをめくって眺め始めた。そして、表紙の焦げた部分に気がついて尋ねた。
「なんで、ここは焦げてるの?」
「それは、私とコルプスで実験をしたときに火がついたからです」
「コルプスって?」
アクアは持っていた写真のコルプスを指差した。
「私の友人で、先生のような人です」
「じゃあ、もっと頭いいの?」
「ええ、最後に会った時も、私の裏を書いていました」
そして、永遠に勝ち越す事はできなかった。
「あの、その人に会える?」
「私がチェスが上手くなったので、自分が負けるのを恐れて遠くへ行ってしまいました」
雪は、その返答を理解できたような、できないような感じだった。その真の意味を理解できたのは、前に同じ質問をしたキイツだけだった。
少しして、雪は改まった様子で言った。
「お願いがあるんや。災害から守る”科学”を教えてください」
その眼は、純粋で真剣だった。アクアはその目を見つめうなずいた。
「雪さん。科学は発展しました。クラークの三法則でも、”発展しすぎた科学は魔法と区別できない”と言っています」
「せやな。だから、少年よ大志を抱け!」
キイツは、片手を腰に手をあて、指さした。
「…それは何のポーズですか?」
「え? クラーク博士の有名なポーズや。北海道にあるやん」
「博士…? 確かに彼はドクターの学位は持ってますが…日本で教鞭をとってはいないはずですが」
「え…、アクアが話してるのは、明治時代に日本に来たお雇い外国人のクラークの事やろ?」
「私が話しているのはSF作家のアーサー・C・クラークですが」
「すまん、違うクラークやった…」
二人の様子を見ていた雪が笑った。
「漫才みたいや。二人で吉本いったら?」
アクアはわざと咳払いをして話を続けた。
「まず、”自然”を従わせるには、”自然”を知らなくてはなりません。例え、それが残酷な真実であったとしても」
「がんばって勉強します」
「では、早速、質問です。重い鉄球と、軽い木でできた球。どちらも、大きさや形は同じです。同時に落とした場合、どちらが先に地面に落ちるでしょう?」
「うーん。重いほうが先に落ちる?」
「では、実際に実験してみましょう」
アクアは、ニュートンの第一法則・慣性を教えようとしていた。
ユキが球を実験のために出て行ってから、キイツは聞いた。
「いつもの調子に戻ったみたいやな。ユキにどこまで教えるつもりなんや?」
アクアは答えた。
「当面の目標は、ニュートンの運動方程式を使いこなせるようにする事ですね。更に流体力学の基礎である、”かわいい”ナビエ・ストークス方程式も教えようと思います。…あなたにも一緒に学んでもらいますよ」
「かんにんしたって」
キイツは、その返答を聞くと、ユキの後を追った。
実験の準備を終えて、キイツが橋の上から、二つの球を落とした。
アクアとユキは、その様子を下の浜辺から眺めていた。
二つの球は、同時に地面に着地した。
「え! いっしょに地面についた! なんでや?」
「それは、ニュートンの第一法則、慣性の法則があるからです」
そういって、わかりやすくアクアは慣性の法則の説明を始めた。その間に、キイツも下の浜辺に降りてきていた。
説明を聞き終えた後、ユキは興味津々で尋ねた。
「ボールを思いっきり上に投げたらどうなるん?」
「ボールは重力にひかれてまた下に落ちるでしょう。ニムロッドの返し矢の様に。しかし、もっともっと力強く、√2gR(第二宇宙速度)より早く投げたら、地球の重力を振り切って宇宙へと飛び立つでしょう」
それを聞いたキイツは、
「よし、自分が宇宙までボールを飛ばして見せるで!」
キイツがボールを真上に投げようと準備しているとき、アクアはふと考えていた。
梅田地下街で迷子になった時は思い出せなかったが、堀晃の書いた方程式ものの解は、別れた恋人がよりをもどして子供を作り、二人は自ら命を絶って子供だけを残すものだった。これは生命の営みそのものだ。
自然は、これからも生命に危害を加え続けるだろう。それに抗うのが、生命だ。数多の犠牲を払いながら、次の世代へと未来を紡いでいく。私も抗い、未来を紡ぎたい。
アクアはコルプスと自身が写った写真を握りながら、第四次元に向かって叫んだ。
「私が選ぶ道は、ポンペイの如く、永遠なる屍の記録でもなく、キーツの墓碑銘の様に、すべてを水に流す忘却でもない。記憶を受け継ぎ、未来を描く。
時よ刻め。
Zeit verrinnen
意志の力は屈しない
Nicht einer der besten Willenskraft.」
キイツが投げたボールは、雪が降る青い空よりもさらに上へと向かった。
虹の彼方へ。
ボールが見えなくなった頃、キイツは緑色の神戸ノートを取り出した。
そこには、虹の絵と、俳句が書かれていた。そして、須藤浪江さんもいる。
「もう、何年も経ってしまったけれど、自分とクリスからの誕生祝いや」
それは、あの時、クリスとともに渡す予定のプレゼントだった。
「では、私はこれをあげましょう」
パスタ素麺の切れ端でつくったブレスレットを取り外すと、何かの文字を書き込んだ。
「…MA.NS…この頭文字は何や?」
「Master of Arts in Nagahshi Somenの略です。あなたの流しそうめんの技量を称えて。
いつか、あなたの流しそうめんの技を科学の力で追い抜いて見ますから」
笑いあった二人の間に、ふと水しぶきがあがり虹がかかった。
「アクア」=「キイツ」
二人は同時に呼びかけた。
キイツは、かつてクリスと共に試した事を聞いて見た。
「虹ってくぐれると思う?」
「虹は光の集合体です。ですから虹の真下に来たら見えなくなってしまう。だから当然くぐれるわけないじゃないですか」
アクアは冷たい口調で言った。
「ほんま科学者らしい意見やな。せやけど…」
キイツは少し悲しそうな顔をして言い返そうとしたが、アクアに遮られた。
「…というと思いましたか? でも、それは一人の話です。私には、あなたが虹をくぐってる所が見えますよ」
予想外の発言に驚いたが笑顔になった。
「ああ、そうやな。そして、自分はアクアの瞳のなかで虹をくぐれるんや」
コルプスがかつて言った事。クリスがかつて言った事
「つまり、一人ではくぐれない虹でも、二人ではくぐる事が出来るという事ですね」
二人は互いの瞳を見つめ合った。
So bleibe denn die Sonne mir im Rücken!
好いから日は己の背後の方におれ。
Der Wassersturz, das Felsenriff durchbrausend,
己はあの岩の裂目から落ちて来る滝を
Ihn schau’ ich an mit wachsendem Entzücken.
次第に面白がって見ている。
Von Sturz zu Sturzen wälzt er jetzt in tausend
一段また一段と落ちて来て、千の流になり
Dann aber tausend Strömen sich ergießend,
万の流れになり、飛沫を
Hoch in die Lüfte Schaum an Schäume sausend.
高く空中に上げている。
Allein wie herrlich diesem Sturm ersprießend,
しかしこの荒々しい水のすさびに根ざして、七色の虹の
Wölbt sich des bunten Bogens Wechsel-Dauer,
常なき姿が、まあ、美しく空に横わっていること。
Bald rein gezeichnet, bald in Luft zerfließend,
はっきりとしているかと思えば、すぐまた空に散って
Umher verbreitend duftig kühle Schauer.
匀ある涼しい戦をあたりに漲らせている。
Der spiegelt ab das menschliche Bestreben.
この虹が人間の努力の影だ。
Ihm sinne nach und du begreifst genauer:
あれを見て考えたら、前よりは好く分かるだろう。
Am farbigen Abglanz haben wir das Leben
人生は彩られた影の上にある。
Faust: Der Tragödie zweiter Teil
ファウスト:悲壮戯曲の第二部
Erster Akt: Anmutige Gegend
第一幕 風致ある土地
Johann Wolfgang von Goethe
ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ
森鴎外訳




