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Vierter Akt: Sorge (第四幕:憂愁)

キイツは、アクアの元に駆け寄ると、脇腹に刺さった避雷針を抜いて止血した。

しかし、完全には血は止まらなかった。所詮は応急処置でしかなく、本格的な治療が必要だった。しかし、ここには、救急車やヘリが来れるスペースはなかった。


意識混濁状態でアクアはうめき声をあげていた。

このままでは、アクアが死ぬのは時間の問題だった。

アクアを助けるには、とにかくアルカディを抜け、橋の前まで行かなくてはならない。

そこまでいけば、おそらく、ポートアイランドの病院から救急隊が到着しているだろう。


だから、自分はアクアを背負い、もはやディストピアと化した理想郷(Arcady)に足を踏み入れた。


心の中では、自分の心を挫くかのように、何度も憂愁のオードが流れていた。

迷宮となってしまった館内を自分は、勘で進んでいった。


キーツの展示はさきほどの倒壊で崩れ、水に流されていた。

どうにか人一人分が通れるだけ、倒壊せずに残っていたのは、ワーズワースのフロアだった。

自分が通り終わると、それは虹の展示と共に崩れ落ちた。


トレヴィの泉は、真っ赤に染まっていた。その赤い水が、まるでアクアの血(aqua et sanguine)の様だった。そんな妄想を振り払い自分は急いだ。

心を支えてくれたのは、とある夭折した詩人の詩だった。



この道が続く限り

僕は歩き続けるだろう

たとえ道がなくなったとしても

僕は歩き続けるだろう

明るくても暗くても

僕は歩き続ける

たとえ道が見えなくなり僕自身、死んだとしても

僕は歩き続けるだろう

なぜなら歩き続けることが自分の証明であり

歩き続ける限り僕は生きているからだ


『歩く』

重松 克洋



真実の口を横目に見ながら、最後のギリシャフロアへと自分は足を踏み入れた。



***


アクアが目覚めると、何故か地下のLコンピューター内部にいた。コンピューター室から出ようとしていたのだが、何か忘れている様な気がする。


コンピューターの内部は、何度も足を踏み入れていたが、まるで迷路の様になっており、出口がわからなかった。

しばらく彷徨っていると、どこからか水が漏れだした。訳が分からずに、ただひたすらに出口を目指して歩き回った。


私が、どこまで行っても出口は見つからなかった。途方に暮れてると、何者かが語りかけてきた。それは小さな子供の様で、片方の道を指さしていた。何故か眼光だけは、石化でもさせそうなほど鋭かった。

私は、その子供に従って進み続けた。しばらく進むと、ようやく出口が見えてきた。

そのまま出口に一歩踏み出そうとしてとどまった。何かおかしな感じがした。

訝しく思った私は、背後の子供に尋ねた。

「…あなたは何者ですか?」

「ようやく気付いた様ですね。私は、ラプラスの鬼。あるいは憂愁とも呼ばれています」

”憂愁”が呼びかける。

「憂愁の行きつく先にあるのは絶望。…まさか、この出口の先にあるのは!」

「ええ、そうです。すべてを知り、計算しつくしたがゆえの絶望」

「そうだとしたら、私は他の出口を探しに行きます。私は、あの忌まわしい水と戦い続けなければならない!」

「あなたも、もう、諦めたらどうですか? あなたたちが、高い堤防を築いても、更に高い波が襲うだけ。私は、何度もそれを見てきました」

アクアは反論する。

「私はあきらめない。堤防のおかげで死ぬはずだった生命を救う事ができた!」

”憂愁”が嘲笑する。

「死んだ数と助かった数を比較してみなさい。死んだ数に比べれば、助かった数なんて微々たる物ですよ」

「それでも、多くの先駆者たちが希望をつないできた!」

「大プリニウスは、ヴェスヴィオう噴火に巻き込まれて死んだ。濱口梧陵が築いた堤防も結局、欠陥があって犠牲が出てますよね。

本格的な地震学を始めたミルンも火災でせっかく集めたデータを紛失してます。

大森なんて、さんざん関東に巨大地震は起きないと今村の意見を否定したのに、関東大震災が起きてショックで死んでしまったではないですか。

今村は地震観測所を作りましたが、その成果は行かせず、多くの犠牲が出ました。

阪神大震災だって、耐震構造の建物を作っていたそうですが、想定以上の地震がきて壊れたじゃないですか。小松左京も頑張って、阪神大震災のルポを書き終えたらと思ったら、私のとりこになっていましたよ。」

「だが、左京は、お前の魔の手から逃れた。復活した。途中になっていた『日本沈没』の第二部も出版した!」

「ええ。でも、東日本大震災から数か月後に息を引き取りましたよね。

更に、”憂愁”は、残酷な事実を延々と語り続けた。私は反論し続けたが、段々と気力を搾り取られていった。

「そして、今回だって、あなたが造ったプリニウス艦隊も、少し津波を抑えたくらいではないですか」

「けれど、貴重な実践だった。これから、まだ戦い続ける。たとえ、私が完成できなくても、次の世代が引き継いでいく」

「フフフ。あなたは理屈っぽく諦めが悪い。では、あなた自身の話にしましょう。あなたは、コルプスを救えなかった。」

「……」

反論の言葉が出てこなくなった。理性が、私の中のラプラスの魔が、事実だとささやいていた。

「もう”自然”や”運命”に挑むことを辞めればいいんです。全て必然だと考えればいいんですよ。いわゆる決定論ですね。そうすれば、あなたは、救われるのです。もう、苦しむ事も悲しむ事も怒る事もない。」

気が付くと、”憂愁”は、コルプスの顔をしていた。自然に私の目から涙が溢れていた。


コルプスの事を見た瞬間、私はコルプスと初めて会った幼い頃に戻っていた。

あなたは私の光で、いつも先にあって道を照らしてくれた。

だから、あなたが闇の底に沈んだ時、光を失った私は何もすることができなかった。

それでも、憎悪の炎を燃やして、進んできた。けれど、もうその炎も闇に消えかけていた。


コルプスの顔を見て思わず本音がこぼれてしまった。

「私は、あなたの意志を継いで、災害の研究者になったんですよ。そして、今回の実験も行いました。でも本当は、あなたと共にいるだけでよかった…」


理性は理解していた。その正しさを。

理解してしまった。私は、コルプスの跡を追いかけていただけだと…

あの時から、私は既に死んでいたのだ。あなたと共に、私の魂は海の底に冷徹なる重力の法則で潰されていた。

考える事を辞めれば、もう苦しむ事もない。

私は、コルプスの暖かさに身をゆだねた。



***


キイツは、立ち尽くしていた。ようやく辿り着いた最初のギリシャ・フロアは、行き止まりだった。

イカロスは羽を折られ、プロメテウスは首だけになりながらも天井を見つめていた。

パンドラの箱には、水が半分だけ、いや半分もたまっていた。


Et in Arcadia ego.


そう楽園アルカディにも死神がいた。


しかし、向かい側にあるエンディミオンは無傷で永遠の眠りにつき続け、アドネイスは汚れもなく、その傍らにはアネモネの花が変わらずに咲き乱れていた。

その神々しさに自分は無意識に少し見とれていた。

ここは、そのままであって欲しいと、踵を返そうとして、もう一度だけ目を凝らした。


アドネイスの後ろに光が見えた。それは、錯覚ではなく、本当の光だった。きっとここが出口につながっているのだろう。

だが、この先を行くには、アドネイスを、キーツを、いやクリスをどかさなければならなかった。


それが心苦しくて他の道を探そうとしたが、瀕死のアクアが苦しそうに身をよじった。

他のルートを探している時間はなさそうだった。


アクアは、大切な記録を燃やしてまで、人々を守ろうとしたのに自分は…

自分は…まだ、記憶に執着するのか?


地震が起きてからもうどれだけ時間が経ったのだろう。それを確認したくて、時計を見た。もう翌日2/23の朝になっていた。

それはキーツが死んだ日。

ただの遺体になった日。

今、新たな本当の遺体(Verum corpus)が生まれようとしていた。

もう、死は見たくない。

だから、自分は、今までの自分を殺す事を決めた。


エンディミオンの傍らに一度、アクアを寝かせた。アクアからあふれ出た血に染まって、エンディミオンは真なる永遠の眠り、死に着いた様だった。

そしてアドネイスの彫像を蹴り倒し、アネモネの花を踏みにじり、ただ前へと進んだ。

涙を流しながら、記録を壊しながら、詩を呟いた。



冬の虹

The Winter rainbow-

冷えし七色

Into cold seven colors.

分けれない

I cannot unweave-


それだけは決して忘れない。

そして、理想郷アルカディから抜けだし、光に包まれた。




***


私は身をゆだねた。

コルプスへ。遺体(Corpus)へ。闇の中へ。静寂の中へ。

私の視界は、ほとんど見えなくなった。水かさも深くなった。

レーテ川の様に、忘却が心地よい。

子守歌(Wiegenliede)が聞こえて来た。それは、Aquis submersus(水に沈む)、Aquis suvmersus (アクアに沈む)と詠っていた。



…永遠の眠りにつく直前、何かの音が聞こえた。

それは心臓の音。私が生きている事を示す振動(quake)。

理性は諦めてしまっても、verum cordis(真の心)はまだ、動き続けていた。

そんな時、必死で、崖を登ろうとしているキイツが浮かんだ。

シーシュポスは無謀だと分かっても、登り続けた。

カミュは言った。徒労だとしてもシーシュポスは幸福だと。

登り続けた果てにあるのは悲惨な結末だとしても、その過程は無駄ではないと。

私はまだ生きている。諦めることはできない。


「コルプスは死んだ! それは、変わらない現実だ! だがそれでも、私はまだ生きている! 憂愁よ。お前には騙されない!」

私は、最後の気力を振り絞ってファウストの言葉を叫んだ。


Doch deine Macht, Sorge, schleichend gros,

だが、こりゃ、憂、お前の密かな、強い力をも、

Ich werde sie nicht anerkennen.

己は認めてつかわさぬぞ。


コルプスの形をしていたものが正体を現した。憂愁あるいはラプラスの魔は笑った。

「ハハハ…。あなたほどの優秀な頭脳があれば、私の哲学は理解できると期待していたのですが。だが所詮、愚かな人間の一人に過ぎなかったようですね」


Erfahre sie, wie ich geschwind

あなたが感じるよりも素早く

Mich mit Verwunschung von dir wende!

私とその呪いは、あなたを再び襲います!

Die Menschen sind im ganzen Leben blind,

人間など、生涯、盲目なのです。

Nun, Aqua, werde du's am Ende!

今から、アクア、あなたの光は一生失われるのです!



ラプラスの鬼は、私の左目の中に入り、光を奪った。

憂愁が世界に満ちるとともに、私は、完全な闇の中に閉ざされた。

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