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Dritter Akt: Flamme für ertrinkender des Lethe Fluss (第三幕:レーテに溺れし者への炎)

津波をやり過ごした三人は、再び陸地に戻った。

三人が高台にあるアクアの研究室に無事たどり着いた頃には、日が沈みかけていた。

そこは、摩天楼(Skyscraper)ならぬ松天楼(Skysrapiner)と名付けられた塔で、松をイメージしたデザインとなっていた。

ホワイトアイルの中にある、災害研究施設が集うシャイドヒル地区の中で最も高い塔ではあるが建造されたばかりで、現在はアクアが滞在しているだけだった。


三人で松天楼の最上階のアクアの部屋に上がり、破壊された理想郷アルカディを眺めた。

「Et in Arcadia ego(死神はアルカディにさえも存在している)」

ふと、そんな言葉がアクアの口から洩れていた。


地震で棚から本がばらけ落ち、コルプスがくれたブレイクのタイガーのマグカップは、アシンメトリーとなっていた。それを見て、アクアの目から一滴の水が零れ落ちた。

「ブレイクのタイガーのマグカップ持ってたんやな…」

なぜかキイツも涙をこぼしていた。


津波の第一波を海底でやり過ごした後、この高台にやってきた三人だったが、あと少しで第二波が襲うはずだ。

弱められた第一波を生き残った大半の人々は、高台に向かいつつあった。けれども中には、暗闇の中で道が分からなくなって途方にくれたり、間違って知らずに低所に向かっている者もいた。

彼らが暗い中でも、何か目印と出来るものはないか?

アクアは数多の方法を考え、その大部分を現実というふるいで落とす。キイツとも議論したが良いアイデアは思いつかなかった。

もはや万策尽き果てたとき、この研究のきっかけを思い出した。それは、稲むらの火の物語だった。そういえば、今と同じ様な状況でもある。

だが、ここにはもちろん稲はない。何か燃えるものはないかと周囲を見渡した。


その時、ユキの声が聞こえた。

「知っとる? キャンプの時に見たんやけど、松ぼっくりて燃えやすいんや! 松ぼっくりがぎょうさんあったら、燃やして明るい目印に出来るのにな…」

ユキの手に握られていたのは松ぼっくり。それは、広村堤防の松原で拾って記念に持ち帰った物だった。


それがきっかけだった。

アクアは、コルプスに救われた時にみた、あの松の火を思い出していた。ボルゲーゼ公園でも、時々焚き火をして、二人で夜遅くまで議論していた。

あなたは私に、科学という光をくれた。だから、私が科学の力で光を創る。


だがあいにく、松ぼっくりも一つしかなく、ほかに燃やすべきものが必要だった。ふと、机に置かれた『ロウソクの科学』が目に入った。


ロウソクを燃やすというのは? しかし、この研究室にロウソクは小さな物が数本しか無かった。ほとんどの照明は蛍光灯かLEDだったからだ。小さな懐中電灯では目印にするには暗すぎた。諦めきれずにその表紙を眺める。表紙は半分くらい焦げていた。コルプスと実験をしたときに、コルプスの不注意で引火したからだ。

すでによれよれで、焦げてしまったのだから新しいものを買ったら?とアクアは勧めたが、コルプスは使い続けた。

「まだ純粋だった頃の小さなアクアからのプレゼントだからな。燃やせないよ。自分のだったら買い替えてたけど」

そういえば、忘れかけていたが、コルプスと会ったあの日に燃やしたコルプスの本の代わりに私があげたものだった。



そうか、あの時のように、紙を燃やせば良い! 稲も松も紙も、その主成分はセルロースだ。紙の資料ならこの研究室に沢山ある。だが、紙類を外に出している時間はないだろう。どうすればいい?


だったら、この家ごと燃やせばいい。本や紙の資料が沢山あるから容易に燃えるだろう。その炎は、遠くまで暗闇を照らし出すだろう。

高価な機器があるが、特別製でもないから、また作ればよい。数多ある書籍は、殆どが複写だからまた写せばよい。


「キイツ。闇の中をさまよう彼らの目印として、今から、ここを燃やそうと思います」

悲しそうに浜辺を眺めていたキイツは、その言葉に驚いて、アクアを見つめた。

「ほんまにやるんか? ここには色々大切な物があるんやないか?」

「他に方法がありますか?」

キイツは、他の方法を考えながら辺りを見回していたが、少ししてうなだれた。

「思いつかない。でも、大切な思い出があるんやろ…」

アクアは冷酷に笑った。

「もしかしたら、自然に抗った私に対するDamnatio Memoriae(記録抹殺刑)かもしれませんね。それでも私は、過去よりも未来を選びます」

その言葉はとても冷たかった。クリスの詩が無くなったあの日と同じだ。でも、その裏にある感情にキイツは気付いた。

何かを燃やすとアクアが行った時から、キイツはずっとクリスの失われた詩の事が頭から離れなかった。それだけにアクアの冷酷な言葉の裏にある悲しみが本人以上に理解できた。

だからこそ、キイツはアクアの提案に従った。


アクアは、非常用発電機に使う為に保管していたガソリンを家の内部にばらまいた。そして、コピーの存在しない貴重な資料を抱えて、住居を後にした。

キイツにも少し資料を持たせたが、出てくるのは何故か、少し遅かった。

ふと、アクアは忘れたものに気づき、もう一度、取りに行きたかったが、それは時間的に許されなかった。


アクアは松天楼に火をつけた。家は炎に包まれた。

それは、燃えた。稲むらの火の様に、あるいは一本松の様に希望を託して。



しばらくして、この炎を目印に人々が続々と集まってきた。

そしてついに、津波にアルカディは飲み込まれた。皆、そちらを見つめていたが、アクアはふと家を見た。燃えていた。望遠鏡、観測機器、本、皆燃えていた。だが、それよりも、コルプスとの記録が燃えている事が辛かった。記録が、大切な記録が灰になっていく。

記録を取りに戻らなければ。

無意識に、フラフラと炎の中心へと近づく。熱気が、分子運動が伝わってくる。

キイツはアクアが炎に向かっているのに気づいた。その姿は、かつての自分の様に見えた。

「アクア!何してるんや!」

その空気の振動が、アクアの注意を現実に引き戻した。そして、キイツの方に振り返ろうとした。

その時、塔が揺れた。

炎で留め具が緩んでいた避雷針が落ちて、右脇腹に刺さった。

まるで、ゼウスの怒りに触れたプロメテウスの責め苦の様に。

同時に、小さな爆発が起こった。三角プリズムが破裂したのだった。

無数の欠片が音速に近い速さで放射状に飛び散り、アクアの右半身に降り注いだ。

その一欠片が右目へと向かい、アクアの光を奪った。

アクアは、”Sorge(憂愁)”の魔女によって闇に閉ざされた。


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