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Zweiter Akt: Walpurgisnacht(第二幕:ヴァルプルギスの夜)

虹をくぐれますか?

・はい

・いいえ



・はい

虹はくぐる事ができる。一人ではなく、異なる視点を持つ二人ならば。


Die Zeiten der Vergangenheit sind uns ein Buch mit sieben Siegeln.

過去の時代々々は我等のためには、七つの鎖鑰さやくを施した巻物だ。


Faust: Der Tragödie Erster Teil 

ファウスト:悲壮戯曲の第一部

Nacht

Johann Wolfgang von Goethe

ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ

森鴎外訳




Vier siegeln durch Losung von Finsternis,

闇の解による4つの封印

Drei siegeln durch Traums von Licht,

光の夢による3つの封印

Sieben Siegeln sind gelöst.

7 つの封印は解かれた。

Die Zeiten der Vergangenheit waren ende, die Zeit anfang verrinnen.

過去はうつろい、時は刻み始めた。




***


アクアは、定期的にビーコンを発している事に気付いた。

何かのノイズか? 機器の故障だろうか?


いや、違う、これはCQDだ!

まさか、コルプスからの通信!

SOSではなく、CQDを発信する人物の心当たりなど一人しかいなかった。

反射的に発信源の方にカメラを向けて、ズームしていた。

そこにいたのは、コルプスとクリスだった!


…違う。見間違えだ。

あれは愚かな詩人キイツだ。


このままでは、二人は津波に呑みこまれてしまう。助けなければと理性より先に感情が命じていた。アクアは潜水艇を全速力で、その海岸へと向かわせた。



キイツは、諦めずに崖を登ろうと、再び一歩を踏み出した。その時、後ろから声がかけられた。

「キイツ、どうしてこんな所にいるんです? 早く逃げないと津波に呑まれます!」

キイツは馴染みのある声に振り向きながら答えた。

「崖を降りれたけど、登れへんかったんや」

そこは、崖下だった。二人は滑って、低ポテンシャルに落ちこんだのだった。勾配(∇)が急で、崖を登るのは明らかに難しそうだった。落ちた衝撃でユキは足を挫いていた。


「努力しても無駄ですよ。所詮、何も変わりはしないのだから。それは無意味というものです」

二人の傍らには、登る事を諦めたシーシュポスの像が横たわっていた。

「そうかもしれへんな。それでも、自分は挑み続ける」

そういって、崖を再び登り始めた。


アクアは思った。

コルプスと同じだ。容姿だけではない、むしろその心がだ。そして同じような結末を辿りそうなのだ。まるで変分原理のように。私はまた同じ過ちを繰り返したくは無い。コルプスの二の舞を踏まないように徹底的に自然を利用し、助けよう。

今度こそは、救ってみせる。もはや私は私自身に基底を置かない。私は、あの者に基底を置く。新たな契約を交わそう。

アクアは言った。

「キイツ、ユキを背負って早く潜水艇に乗って下さい。海中で津波をやり過ごすしかありません」

「え、助けてくれるんか?」

「そうです。あなたが、頑張る様子を観測したいので」

アクアは、キイツを見た。キイツは笑顔だった。けれども、その笑顔は、涙が一滴も流れてないのに、流れたような軌跡が刻まれていた。むしろ、涙を流しすぎて、涙の発散が0、∇・L(acrima)=0 になったようだった。



アクアはキイツと子供を潜水艇に乗せた。そして、全速力で出来るだけ、海の遠く、深くへと向かった。津波が襲う前に、遠く深くに潜ればやり過ごせるだろう。アクアは、頑丈で周りに障害物がない海底を見つけ、そこに潜水艇を固定した。そして、津波の到達予想時間を確かめるとキイツの方を向いた。

「今、潜水艇を海底に固定しました。後、数分で津波がここに到達するはずです。揺れが激しかったとしても、船が壊れる確率は低いです」

キイツは、少し安心したようだった。ユキにも、同じ内容を噛み砕いて話し始めた。


ついに津波が船に到達した。津波によって船体が激しく揺れる。






-Physische Walpurgisnacht(物理的ヴァルプルギスの夜)-


今の所、潜水艇に問題はない。周りをすべて水に囲まれた中にいるのは、アクアとキイツとユキ。あの時と状況が似ていた。コルプスの代わりに、キイツとユキがいた。

また、コルプスと同じ様にカルネアデスの船板状況に陥るのではと怖かった。だから、何度も何度も異常がないか確認していた。機器に何か異常があれば報告するようにしていたが、報告するシステムそのものが故障している可能性が頭をよぎって落ち着かなかった。

再び船板状況に陥ったら、私は迷わず、自らを犠牲にする方を選ぶ事に決めていた。コルプスと同じ選択だ。もし、船板が二枚ですらなくて、一枚しかなかったら、きっとキイツは、子供を助けるだろう。私も、同じ決断をするだろう。


まだ揺れは続いていた。ラプラスの魔が囁き始めた。

「一つ、重大な可能性を考え忘れていませんか?」

その声には、どこか陰湿な笑いが含まれていた。

「何ですか? 何度も様々な可能性を考慮しました。心当たりはありません」

ラプラスの魔は、笑って言った。

「船板が三枚……ゼロ人死亡。 船板が二枚……一人死亡。 船板が一枚……二人死亡。 船板がゼロ枚……」

「…黙れ!」

それは、絶対に考えたくない事だった。


濁流が途切れて船の周囲に広がる海底が見えた。様々なものが津波に引きずりこまれていた。本当なら、記録として、記憶として、思い出として、あるいは日常として、存在するはずの物が水中に沈んでいた。数多の思いと共に。

”自然”よ、幾多の生命だけでは満ち足りず、生きてきた証すら、絆の証すら奪うというのか?

Arcadyの残骸らしきものがちらほらと見えた。そこには石碑も転がっていた。


Here lies one whose name was writ on water

その名が水に書かれし者ここに眠る


それは、あの時見たキーツの墓碑銘だった。

”水に書かれる”という意味は、”記録に残らない”という事だ。決して、水に書かせはしない。記録に残してみせる。


なぜか、再発掘されたポンペイの事を思い出した。ほとんど一瞬で、火砕流に飲み込まれた都市、ポンペイはタイムカプセルと化して、時の歩みを止めていた。その中でも、固まった火砕流の空洞に石膏を流し込んで作られた像を思い出す。彼らは、火砕流に飲み込まれた刹那で縛られ、永遠に苦しんでいた。

たとえ、記録に残ったとしても、ポンペイの様になるのは嫌だった。

ただ生きていたかった。





-Literarische Walpurgisnacht(文学的ヴァルプルギスの夜)-


アクアが熱心に機器を操作して船の状況を確認している中、自分は船窓から海底の様子を眺めていた。


ふと、壊れた墓碑が目に入った。そこには次のように書かれていた。


Here lies one whose name was writ on water

その名が水に書かれし者ここに眠る


キーツの有名な墓碑銘だった。それが水に流され名前とともに消えようとしていた。まるで、クリスとその失われた詩が燃え尽きてしまったように。


それがつらくて別の方向に目を向けると、その傍らにはポンペイの火砕流に巻き込まれた人々の石膏像が海の底で今なお苦しんでいた。

たとえ失われなかったとしても、クリスが永遠に炎の中で苦しんでいるのはいやだった。


クリスを救えず、詩も残せなかった後悔の念から、憂愁のオードが死へと誘おうとする。


She dwells with Beauty—Beauty that must die;

憂愁は美と共にある、死せる美と共に


その思いを打ち払ったのは、クリスが口ずさんだ『エンディミオン』の言葉。


A thing of beauty is a joy for ever:

美しいものは永遠の喜びだ

Its loveliness increases; it will never

それは日ごとに美しさを増し

Pass into nothingness; but still will keep

決して色あせることがない



ただ、本当の美を残したい。



アクアとキイツがそれぞれ物思いにふける中、ついに揺れが収まった。船体に損傷はない。津波が通り過ぎたのだった。

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