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Vierter Akt: Zwei Dinge; oder Himmel und Moralische Gesetz (第四幕:二つのもの;あるいは天空と心の法則)

巨人の肩の上に立つように、観覧車からみる神戸の景色は美しかった。

三人でハーバーランドの観覧車に乗っていたのだった。

真上に来た所でキイツは呟いた。

「観覧車に乗ってると、まるで身体が軽くなったみたいやなあ。…現実主義のアクアなら、心が軽くなっただけやとつっこむだろうけど」

そう言って、キイツはアクアの方を向いた。

「…いえ、わずかですが遠心力で本当に軽くなっていますよ。遠心力で重力が小さくなるのは、物理学の基礎的な問題です」

そのアクアの言葉に、外の景色を眺めていたユキが振り向いた。

「ほんま?」

「ああ、野球のバットで端っこ当てた方が強くなる話だっけ」

「ええ。回転する事で遠心力が発生し、観覧車の真上にいる時は、遠心力が重力と反対方向に働くので、その分だけ体重が軽くなります」

「どのくらい? おっきいおすもうさんでもかるくなる?」

ユキは目を輝かせて、アクアに尋ねた。

「はい。スモウレスラーでも軽くなりますよ。キイツ、この観覧車の直径と一周の時間は分かりますか?」

キイツはパンフレットを取り出して読み上げた。

「ええと、直径45m、一周の時間は、約11分やって…」

「では、100kgのスモウレスラーがどのくらい軽くなるか計算してみましょう」

アクアは、持っていたノートに数式を書き始めた。

キイツには全く分からない呪文のような数式がスラスラと書かれていった。ユキは訳がわからないながらも熱心に数式を見つめていた。



遠心力F=mrω^2

m:質量[kg]

r:半径[m]

ω:角速度[rad/s]


周期T=2π/ω

つまり、ω=2π/T


これを代入すると、

遠心力 F=mr(2π)^2/T^2=4π^2*mr/T^2


軽くなった質量m_-[kg]は、F=m-gより、重力加速度gで割ればいいので、

m_- =4m(π^2/g)r/T^2


pi^2=g(秒振り子より)の概算が成り立つので

m_-=4mr/T^2



観覧車の直径は45mなので、半径r=45/2=22.5[m]

所要時間約11分なので、秒に直すとT=11*60=660[s]

これらを代入すると、

m_-=4*100*22.5/(660)^2 = 0.021[kg] =21[g]



「…体重100kgのスモウレスラーなら… 21gほど軽くなりますね」

21gと言った時、ふとアクアとキイツの目が合った。

21g。魂の重さと囁かれる値。観覧車に乗って、空に近づいたとき、魂の分だけ軽くなったのだろうか。

「21グラムって、どれくらい?」

そんな逡巡を打ち破ったのは、ユキの声だった。

「あめちゃん数個じゃないか」

「じゃあ、おすもうさんあめちゃん食べても太らないね!」

「いえ、それはまた違う話です。質量と重量は似ていても違うので…」

それからアクアはユキに向けて簡単な説明を行った。それが終わるとキイツは言った。

「うーん。科学のお勉強で頭使ったからか、なんか、あめちゃんが食べたくなったなあ」

「どうぞ。糖分補給は大切です。特にあなたのちっぽけな頭脳では、フル回転してないと駄目でしょう」

とっさに、アクアはあめ玉を取り出していた。

「飴ちゃんって、大阪のおばはんみたいや。 チョイスも何か渋いし…」

何だか怒りたくなった反面、”あなた”を重ねて笑みがこぼれてしまった。

「わ、私は、いつも糖分が足りないとうるさい友人の為に常備しているだけです! おばちゃんとは違います!」

持っていた三種類の飴の中から、何の迷いもなく、キイツは漆黒の飴を取った。ユキはパイナップル味の飴を、アクアは琥珀色の飴をとった。

キイツは黒い飴を手に取って、何事もなく口の中に入れた。

それは、イタリアのリクイリツィア(Liquirizia)に似ていて、一度も口に入れる勇気がなかったものだ。

「伝統ある素朴な味だよな」

「そ、そうですね。イタリアにも似た様な飴があります」

「そうなんか。やっぱり、この甘さがええんやな」

「…あ、甘いのですか?」

疑問に思ったアクアは、恐る恐る黒い飴を差し出した。

「…これを食べてもらえますか。友人が好んだイタリアの伝統的な味の飴です」

リクイリツィアを差し出した。

「へえ、イタリアにも黒飴あるんか」

何のためらいもなく口の中に入れたキイツを、アクアは固唾を飲んで見守った。

「日本では、クロアメというのですか」

キイツの顔が青ざめていた。

「まっず! 何やこれ!」

「この黒い飴も同じ味なのでは?」

「全然違う。食べてみいや」

キイツはアクアの口の中に黒飴を放り込んだ。

「な、何ですか。これは! 甘くておいしいじゃないですか!」

「黒砂糖で造られてるからな。ちなみに、これは何でできてるんや?」

「リコリスという薬草と、塩化アンモニウム(NH4Cl)です」

「…聞かなかったことにするわ」

「ええ。私もこの味は好きじゃありません。ゴムの焼けた味みたいで… ただ、私の友人はこれが好きだったので、油断してると何度も口に入れられました…」

「い、色々とアクアも大変なんやな… こ、今度は黒飴を代わりに舐めたらいいよ」



飴を舐めながら、ユキはふと尋ねた。

「なあ、もっと早くまわしたら、もっとかるくなって、鳥みたいにとべるようになるん?」

アクアは、その質問に微笑んだ。

「いい推論ですね。確かに無重力になります。具体的には…」

アクアはまた、計算を始めた。


遠心力

F=4π^2*mr/T^2

が重力㎎と釣り合えばよいので、

mg=4π^2*mr/T^2

つまり、4(π^2/g)*r/T^2=1

を満たす必要があります。これを周期Tについて解くと

T=√(4(π^2/g)・r)=2√r ≒9.49[s]


その時の速度vは

v=rω=2πr/T=π√r ≒14.9[m/s]=53.6[km/h]



「…一周の時間を 9.4 秒以下にすれば可能です。速度的には、15m/s、時速換算で、54km/hほどです」

「ちなみに、質量mに依存しないので、スモウレスラーだけでなく、私たち全員、飛べるようになりますよ」

それを聞いたユキは観覧車を降りると、係員にもっと早く回す様に頼もうとしたのでキイツが止めることになった。



三人が観覧車から降りて、ハーバーランドのイベント会場を通っていると、アクアが立ち止まって指をさした。

「キイツ、もしかしてこれが本当のカドマツですか? 割った竹が立て掛けてあります」

確かに割った竹が斜めに立てかけてあった。だが、竹の中には水が流れていた。

「いや、これは流しそうめんや」

「…ナガシソウメンとは何ですか?」

「割った竹の中に、素麺を流して箸ですくって食べるんや。普通は夏にやるんやけど… 」

どうやら、素麺の消費量が下がる冬場に、イベントを立てる事で、消費を増やそうとしているようだ。


「…つまり、ローマ水道に流したパスタをフォークで掬う様なものですね。」

アクアは昔、”あなた”が言っていた奇抜な発想を思い出した。本当にやる国があるとは…

「え、イタリアでそんなことしてるんか?」

「いえ、昔、友人がやろうとしてましたが、流石に汚いのでやめました」

「そ、そうなんや。それはそうと、これから、流しそうめん大会やるみたいやな」

「流しそうめんやりたい!」

ユキの元気な声にキイツもうなづきながら答えた。

「面白そうやし、参加してみるか! …あ、でもアクアは、できる?」

キイツが少し心配そうに見つめてきたが、アクアは自信たっぷりに答えた。

「私を誰だと思ってるのですか。流体力学の専門家です。たとえ経験がなくても、こんなの夕飯前です。全ての素麺を私が掬い取ってあげますよ!」


こうして、アクアたちは流しそうめん大会に参加する事になった。

自信満々のアクアは一番上流に陣取った。

合図とともに、素麺が竹の中を流れ始める。

白い流体がアクアの箸をすり抜けていった…。

下流で、キイツとユキが素麺をすする音がした。

「お、ユキも取れたんか」

「ちょっとやけどね。キイツほどじゃない」

「まだ一回目で、す、少し力んでいただけです…」

アクアはブツブツとそう言っていた。



再び、素麺が流れ始めた。

今度こそと、アクアは箸を構えた。

箸に絡みついたのは水だけだった。

またしても、素麺は、キイツとユキの口へと消えて行った。


「そうめん、うまいなぁ」

「…せやね」


それから何回も何回も素麺は、アクアの箸の間を層流の如く流れていき、下方に待つ二人の口の中に吸い込まれた(∇・=-m(outh))。


アクアの様子を見たユキがキイツに小声で言った。

「なあ、さっきからアクアさんそうめん取れてないみたいやけど、キイツが教えてやった方がいいんじゃ?」

キイツはアクアと目が合った。その目は戦士の目だった。

「…いや、これはアクア自身の戦いなんや。他人が手出ししちゃいかん」



…n回目

素麺はアクアの箸をすり抜け続け、キイツとユキの口の中に吸い込まれていた。

二人はすでに満腹になり、片づけを始めた。

「く、まだサンプリング数が足りないだけ… もう一回やれば、掬えます!」

キイツが後ろから肩を叩いて諭した。

「残念やけど、これで終わりやで。取れなかった素麺もらったからそれで我慢や」



キイツが貰って来た一番下流のざるに載った素麺をすすりながら、アクアは打開策を考えていた。

「まあ初めてやし、何回かやればその内できるようになるで」


「私はまだ日本の文化に慣れていないだけです。きっとスパゲティとフォークでないと実力を発揮できないでしょう。」

「子供用にフォークも配ってたけど、アクアさんももらった方がよかったかな…」

ユキの純粋な優しさが心に突き刺さった。

「いえ、フォークなどやはり邪道です。二本箸ではなく、三本箸にすればよかったのです。物理上、任意の三点があれば、重心が一つの面が決まり安定になるのです」

アクアは、三本箸を高らかに構えた。

「そうなん? こんど、三本で食べてみようかな…」

ユキは、アクアの負け惜しみを本気にしている様だ。なんだか教育上あまりよく無い気がしたキイツは反論した。

「いや、ユキは、二本でもちゃんと使えてるからそのままでええ。アクアみたいな不器用な人が三本でやればいいんや…」

キイツの言葉がアクアの胸に突き刺さった。

後ろから、ユキの声が聞こえて来た。

「せやな。パソコンの中でも流しそうめんしてるのは、ぜんぜんとれへんかったから、流しそうめんのビデオ見てれんしゅうしてるん?」

ユキが発する残酷な真実が、アクアを殺した。


Here lies one whose name was writ in water

水にその名を書かれし者、ここに眠る。


今だけは、ジョン・キーツの墓碑銘に共感を覚えたアクアだった。

「…いや、き、きっと、今度の高校生向けの発表で、楽しくするために流し素麺の映像をつけようとしてるんやと思うで…」

「…そ、そうです。ファラデーが一本のロウソクから燃焼を、寺田寅彦が茶の湯からモンスーンの気象を、ファインマンがボンゴから波の科学を説明した様に、科学の第一歩は身近な好奇心からなのです!」

何か良い事を言っている様だが、アクアの本心が違う事は丸わかりだった。キイツはツッコミたかったが、面倒な事になりそうなので黙っておいた。


「ふーん。科学ってすごいんだね。

フライデーはロウソクをもやして、寺のトラさんはお茶を飲んでるの? ボンゴたたいて波を出すファインマンは、スーパーマンのなかま?」

「ガイムみたいなライダーかもな。そういえば、このまえTVで見た…」

ユキの話が逸れた様なので、そのまま自分は子供らしい話題を続けた。

アクアは再びシミュレーションに夢中になっていた。

何か関わってはいけない雰囲気だったので、キイツは、しばらくアクアをそっとしておいた。


「いや、そもそも、同じ小麦粉で作られていてもスパゲティと素麺では直径も異なります。

 つい、スパゲティの直径1.4~1.9mm前後で計算してましたが、素麺の太さは直径1.3mm未満と決められています。素麺に近い太さのパスタなら1.2mm未満のカペッリーニ (capellini)を使わなくてはいけません。直径が違えば、粘性係数も違って、レイノルズ数も変わり、乱流になる条件が変わってくるから…」

ノートPCの画面をしばらく見ていたアクアだったが、いきなりため息を着いた。


「駄目です。私のPCではシミュレーションのスペックが足りません。もっと演算量が、そうスパコン並のものが必要です。そうだ。次回の研究費の申請はこれにしましょう!」


何だか、とんでもないことを計画している気がしたが、キイツは何も聞いていないふりをした。アクアは構わず、独り言を続ける。

「それはそれとして、まずは、基礎データが必要ですね。」

さっきまで一人で考え込んでいたアクアが、いきなりキイツの方を振り向いた。

とても真剣な眼差しをしていた。

「質問があります。あなたは、素麺をよく食べてますか」

予想外の言葉に驚いた。

「ええ、まあ。夏はよく食べてるな。自分で作る事もあるし」

アクアは満足そうにうなずいた。目を冷たく光らせて。

「作った事もあるのですか。尚更素晴らしい」

「ああ、そうめんを食べるだけでなく作るのも得意や。今度作ってあげるで」

「それはありがたい。では、素麺の粘度(viscosity)はいくつですか?」

「ああ、素麺のヴィスコーシティね。…えっ、素麺のネバネバって何?」

「ネバネバではありません。物質のネバネバ度を表す物理量です。粘度はギリシャ文字μで表記され、単位は[Pa/s]…」

「わ、わかったから、けど、そんなん知るわけないやろ」

「なぜ知らないのですか? あなたはいつも素麺を食べていたのでしょう? それに、あの流しそうめんの腕前、きっと手の感覚を計算しているに違いありません。理論値を出せとは言いません。実測値か概算値で構いません」

「そんなん言われても…。逆にアクアは、パスタの粘度知ってるんか?」

「一般的なスパゲティーの粘度の実測値であれば、このPCの中に入っていますが」

当たり前の事の様に答えるアクアにキイツは呆然としていた。

「…はあ。やっぱ科学者って変わってるなあ…」

「分からないことは実験して調べる。科学者として当然の事です。とにかく、分からないのなら実際に測りましょう。とりあえず、素麺を買いましょう!」


イベント会場では、素麺以外にもいろいろな麺類が売っていた。

「ふむ。麺の太さによって、そうめん、ひやむぎ、うどんと変わるようですね。パスタにも同じようなルールがあります。では、全ての麺類を買って実験しましょう」

「なになに? 素麺パーティーやるん?」

「そんなもんやな。ユキも来るか?」

「うん、いく!」

ちょうどその時、ユキの保護者が迎えに来て、ユキと別れることになった。

別れ際、ユキはアクアに何かを手渡した。

「アクアさん、きょうはありがとう。これあげる。こうべノートっていうんや」

ユキがくれたノートの表紙には、神戸の景色が映っていた。

「いいのですか。こんなきれいなノートをもらって」

「うん。学校で使ってあまってるから…」

「ありがとう。私は、大切な今日という日をキーツの様に水に流して忘れはしません」


ええ。私は、この日を決して忘れない。流体力学のNSナビエ・ストークス方程式に代わる、もう一つのNS(Nagashi Somen)方程式の解を見つけるまでは!


アクアの目は異常にきらめいていた。何か恐ろしい誓いを立てた場面に自分は遭遇していたのかもしれないとキイツは戦慄した。

それから神戸に滞在した数日間、ユキにとっての素麺パーティー、アクアにとっての実験、キイツにとっての苦行が行われた。

ユキがパーティーを楽しみ、アクアが麺類の粘度の実測値を手に入れた代償に、キイツは一生涯分の麺を食し身体の構成要素の一部が麺になった。

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