The tender-person’d Lamia melt into a shade. (儚いレイミアを影へと溶かした様に)
帰一さんと栄子さんを見送った帰り道、星空を眺めながら思い出したのは、大学時代の旅行の事だった。
英文学研究も兼ねて、イギリスのワイト島、湖水地方、ロンドンを経由して、イタリア・ローマへと旅だった。
ローマについて、まず最初に訪れたのは、スペイン階段脇のキーツ・シェリーハウスだった。
スペイン階段には多くの邦人観光客がいるが、ここを訪れる人は多くない。
ジェラートの飲食が禁止された為、『ローマの休日』のように、ジェラートを食べる者はいない。クリスとの夢は叶えられなくなってしまったのは少し残念だが仕方ない。
そこは、結核を患ったキーツが療養の為に暮らし、25歳の若さで亡くなった場所。キーツのベッドも当時のままの形で残っている。
そして、クリスもかつて行き、二人で行こうと約束した場所だった。
しかし、今はただ一人。
放心したまま、キーツ・シェリーハウスを出てすぐのスペイン広場で声をかけられた。
たどたどしい日本語で、サッカー選手の名前を言っていた。
多分、物売りかなにかだろう。
いつもなら、流していたが、自分の足は止まってしまった。
声をかけた人物がクリスに似ていたから。
ミサンガをただ、なすがままに手首に巻き付けられた。
詐欺だと気づいたが、お金も言われるがまま払った。
金をもらって満足した詐欺師は去ろうとした。海外旅行によくあるトラブルと、いつもならそこで諦めるはずだった。
「行くな!」
とっさに手を掴んでいた。
もう二度とその手を離さない。
「行かへんでくれ、さよならなんて言うな。…あの時、そうしてればよかったんや」
自分が手を掴み続けていると、厳つそうな男共に絡まれた。
早口のイタリア語で何か言っているが分からない。
時々、ヤクザとか言っているから脅しなのだろう。
そこまで言われて、ようやく冷静になって手を離した。けれど、もう遅かった。
更に金を出す様に言われたが、手持ちはすでにほとんどなかった。
「Amici in rebus adversis cognoscuntur(友人は逆境において認識される)」
そう言いながらやって来たのは、黒髪の人物だった。流暢なイタリア語で話していたから、おそらくイタリアの人なんだろう。
「勘弁してくれ。私の友達なんだ。次はどこに行くんだっけ?」
そういって、その人物は自分に話を振った。
「…キーツの墓」
とっさにそれだけを答えた。
その返答を聞いた人物はタクシーを拾うと、自分とともに乗り込んだ。そして、そのまま、非カトリック墓地に向かっていた。
タクシーの中で、イタリア語が得意でないとわかると、その人物は英語で話しかけてきた。
「大変な目にあったね。有名な観光地にはああいった奴らが多いんだ。イタリアの人が全部、あんな奴らとは思わないでくれるとありがたい」
「いや、自分も悪かったんや。ほんまにありがとう」
「ところで、私はコルプスというのだけれど、君の名前は?」
「自分の名前は、キイツ・ナミマツや」
コルプスは笑った。
「キイツがキーツの墓に行くのか。面白いなあ!」
それにつられて、自分も笑い、緊張感がほぐれた。
タクシーを降り墓地の入口に入る所で、コルプスは言った。
「Go thou to Rome,—at once the Paradise,
ローマへ。楽園にして
The grave, the city, and the wilderness;
墓、都市、荒野たる場所」
仰々しく墓と街並みを指して、微笑んだ。
「シェリーの『アドネイス』やな」
「良く知ってるね。ここにはキーツだけでなくシェリーの墓もあるから寄ってみたらいいよ」
そして、墓地に入り、キーツの墓への道のりを歩き始めた。
「そういえば、それ付けたままだね。これで切ったらいい」
無意識に渡されたナイフでミサンガを切ろうとした所、それを見ていたコルプスが言った。
「なんで刃を手首の方に向けてるんだ? 危なくないか?」
あの時と同じく、ナイフを手首に当てて切ろうとしていた事に言われて気づいた。
そして、気を取り直してミサンガだけを切った。
キーツの墓にあるベンチにコルプスと共に座り、その墓を眺めていた。
少しして、コルプスが立ち上がった。
「ごめん、そういえばボルゲーゼ公園に人を待たせていたんだった。それじゃあこれで」
「何かお礼をさせてくれへんか」
「じゃあ、"Japan Sinks"の本を送ってほしい」
「日本の流し台(Japanese Sink)? そんなものでええんか?」
「ああ。日本では当たり前かもしれないけどイタリアでは手に入れにくいんだ。英訳もあるが、やはり日本語の原文が読みたいんだ」
何故そんなものを欲しがるのか分からないが、自分は承諾した。そして、互いの連絡先を交換するとコルプスは去っていった。
こじんまりとした二つの墓が並ぶ中、ただ一人、ベンチに残された。
自分は、青空にむかって語り掛けた。
「クリス。自分は、今、キーツの墓を見てるで。一緒に行こうって約束してから、十年以上も経ったけれど、ようやくローマに来たんや。クリスもここに座ったんだよな」
クリスのことを思い出し、いつの間にか涙がこぼれた。
「…一人じゃ広すぎるんや。キーツとセヴァ―ンの墓は仲良く二つ並んでるのに。こっちは一人なんてな…」
涙をぬぐうと、一冊の詩集を取り出した。
「あの時、クリスが言った詩の続きを自分は学んだんや。もうクリスよりも英語ペラペラかもな。読んであげるな。キーツのEndymionの続きを」
A thing of beauty is a joy for ever:
美しいものは永遠の喜びだ
Its loveliness increases; it will never
それは日ごとに美しさを増し
Pass into nothingness; but still will keep
決して色あせることがない
どれだけそうしていたのだろう。いつの間にか日が暮れていた。
そういえば今日は、カラカラ浴場で野外オペラを見る予定だった。
自分は、ベンチを立って、急いで舞台へと向かった。
オペラの題目は、プッチーニの「トスカ」
歌手フローリア・トスカ(Floria Tosca)と、画家マリオ・カヴァラドッシ(Mario Cavaradossi)の悲恋を描いた作品。
その二人の関係は、まるで詩人キーツと画家セヴァ―ンとの様だった。
そして、自分とクリスとも重ねていて、けれど、それは叶わなかった夢に過ぎなかった。
帰り道、ふと、『歌に生き、愛に生き』のメロディが聞こえた。
その音に振り返ると、花になる前に散ったはずのクリスが、花開いた幻を見た。追いかけようとしたが、人混みに紛れて見失ってしまった。
その幻を心に浮かべながら、星空の下、Bright Star(星のきらめき)を歌った。
それは、死を悟ったジョン・キーツが愛するファニー・ブラウンにささげた詩。
Bright star, would I were steadfast as thou art--
輝く星よ あなたのようにわたしもありたい
Not in lone splendour hung aloft the night
夜空に高く 星々を従えて輝き
And watching, with eternal lids apart,
まぶたを大きく見開いて
Like nature's patient, sleepless Eremite,
眠りを知らぬ隠者のように
The moving waters at their priestlike task
永遠の波が渚をめぐって
Of pure ablution round earth's human shores,
次々と押し寄せるさまを見続けていたい
Or gazing on the new soft-fallen mask
また、真っ白な絨毯を眺めていたい
Of snow upon the mountains and the moors--
山々や原野の上に降り積もった雪でできた
No--yet still stedfast, still unchangeable,
いやもっと確かな命を生き続けたい
Pillow'd upon my fair love's ripening breast,
いとしい人の豊かな胸を枕にして
To feel for ever its soft fall and swell,
その胸が上下に揺れるのを感じ取りながら
Awake for ever in a sweet unrest,
甘い欲望の中に永遠に目覚めつつ
Still, still to hear her tender-taken breath,
いつまでも、いつまでもその息づかいを聞き続けていたい
And so live ever--or else swoon to death.
命が続く限り、死んでしまうまでずっと
***
イタリアから帰って大学を卒業したのち、自分は教師になった。
そして教師をする傍ら、文化財保護のボランティアを行っていた。
それは老夫婦の影響だった。
震災の復興が進む中でも、文化財保護は遅れていた。人命が最優先される中では、仕方がない事だった。
だが、誰かがやらなくてはいけない事だったし、自分に相応しい事だった。
その過程で、栄子さんから預かった『キイツの詩』の修復作業も行い、返却した。
手元に戻って来た時、栄子さんの笑顔は忘れられない。
それからほどなくして、栄子さんは息を引き取った。
一対の菩提樹の前に、アドニスが変化したというアネモネの花を供えて弔った。
それらの成果をまとめた論文『A Defefence of Disastrous Poetry -Culutural Asset write in water 災害詩の擁護-水に書かれし文化財-』を書く機会も頂いた。
そんなある日、もう交わることはないと思っていた科学者からメールが届いた。
この本に書かれた復旧方法を元に大切な本を読む事が出来た事のお礼だった。
それがアクアとの交流の始まりだった。
津波のシミュレーションを研究している科学者。何の接点も無いように思えたが、意外とメールでのやり取りは弾んだ。それもあってか、研究の為、関西地方に滞在する際の案内を頼まれた。
アクアの名を聞いた時、まず思い出したのは、プレゼントを贈ろうと約束したクリスの親戚の子の事だ。
結局、あの後、クリスの一家が亡くなってしまい、連絡手段もなく、プレゼントをあげられなかった。
その事が心の片隅に残っていて、自分は引き受ける気はなかった科学者への案内に応じることになった。
旅の最初は、自分が色々とやらかしてしまい、気まずいものになったが、途中からは楽しいものへとなっていった。
アクアであれば科学者でも共に歩めると信じられたから。
だが、紆余曲折を経た旅の終わりは、決別だった。
旅の間、何度かクリスの事を話そうかと思ったが、躊躇ってしまい、言わずじまいだった。
けれど、きっと別人だろう。
詩人クリスの暖かな血が、あんな冷酷な科学者、悪魔に流れているはずがない。




