Unweave a rainbow, as it erewhile made (虹を分解した。かつて)
最愛の夫の死を看取った後、栄子さんは自分に本を差し出した。
「この本は、借りて来たものですね」
「はい。元の本はずぶぬれで読めなかったんです。だからここの大学の図書館から借りてきました」
栄子さんは懐かしそうに笑った。
「キイツさんとこの本を交換したのはこれで二回目なのよ」
「そうだったのですか。大切な元の本もお返しします」
そういって、本を差し出そうとしたが、お婆さんは受け取らずに、椅子に腰かけるよう促した。
「この本は、お爺さんとの絆を育んだものであると同時に、私と両親をつなぐ絆でもあるの」
お婆さんは過去を語り始めた。
それは1923年8月のある日の事。
まだ小学校に入る前の私は、ようやくカタカナが読める様になった頃で、とにかく目につくものを片端から読み上げるのを楽しみにしていたわ。
その日も、父の書斎に広げられた本を拾い上げて、表紙を読み上げた。
「キ・イ・ツ・の・?」
緋色の表紙に、黄緑色のふちで、鳥の絵がかいてあるその本は、最後の文字が漢字で読めなかった。
「お父さん、キイツって何?」
「お、そこまで字がよめるのか。キイツというのはねえ。イギリスの詩人なんだ」
いつの間にか母親も、傍に来て父の話に耳を傾けていた。
「よし。キイツの詩を読んであげよう」
母の胸に抱かれ、父の読む詩の美しさに打たれた。意味がすべて分かったわけではないけれど。
「『びはまこと、まことはび』」
私はどうにか聞き取れた言葉を繰り返していた。
「早速覚えたのか。栄子は将来詩人になれるかもしれないぞ」
それが、一番最初に覚えたキーツの詩だったわ。
そして、1923年9月1日。あの日がやってきた。
「ああ、本当、人使いが荒くてまいっちゃうよ。寺田先生からは、夏目先生の資料を写してほしいとか、今村先生は海外の科学書訳せとうるさくて、大森先生も今村先生とほぼ同じようなことをわざわざ別の窓口から頼むし。とにかく、今日も行ってくるよ」
東大図書館に勤めていた父は、母に向かってそんな小言を言いながら、出勤のため、家を出て行った。
父を見送った後、私は『キイツの詩』を母の元に持ってきた。
「今日も、お父さんにこれを読んでもらうの」
「そうね。お弁当を忘れたみたいだし、届けにいきましょう」
幼い私は、その本を手提げの中にいれて、外出するを楽しみにまっていた。
そのささやかな日常を壊したのは地震だった。
お昼少し前、母に連れられて外に出ているときだった。
母は私をかばって、崩れ落ちたがれきの下敷きになっていた。
泣きながら母の元を離れずにいた私を、母は最期の力を振り絞って追い払った。
「お母さんは大丈夫だから、お父さんにお弁当を届けてあげなさい。詩もよんでもらうんでしょう」
その言葉に私はうなずいて、母に背を向けて歩き出した。
そのとき、背後の建物が崩れる音がした。幼い私にも母がもう助からない事は分かった。
ただ必死に走った。父に会いたくて。
気付くと、東京が燃えていた。各地で火事が起こり、火災旋風が発生していたから。
何度も転んで、火傷して、どうにか、父の職場である東大の図書館へ辿り着いた。
だが、そこにあったのは、燃え尽きる本の山だった。
後で、父も焼け死んだと聞かされた。
両親を失った私は、親戚の家に引き取られた。
家も焼け落ちて、家族との絆を示すものは何も残ってはいなかった。
ただ一つ、『キイツの詩』を除いて。父に読んでもらおうと思って手提げに入れたその本は奇跡的に無事だった。
両親の事を思い出して寂しくなるたびに読んだ。
綺麗な詩が、私の心を支えてくれた。
最初は漢字ばかりで読めない所が多かったけれど、成長するにつれて読める漢字が増え、原典も知った。
十数年後、大人になった私は裁縫教室を開いていた。ある日の事、私はいつもの様に教室へ行く途中にある東大の赤門の前を通ったわ。
キイツの詩を携えてね。
その時、赤門の前から、男の人が飛び出してきたの。それが、私の帰一さんとの出会い。
ぶつかって互いの荷物が飛び散ったのだけれど、すぐに荷物を回収して戻ったわ。
裁縫教室が終わってから、近くの公園で『キイツの詩』を朗読するのが、毎日の日課だった。
私が朗読していると、後ろから声が聞こえた。
「それは、君の本かい?」
「そうですが…何か用ですか」
「いや、それは君の本じゃない。それは自分が図書館で借りた本なんだ。『ホトトギス』にも書いてる田山花袋の訳という事で、気になっていたんだ。…ああ、所で君の名前は? 自分はキイツだけど」
私の本を自分のものだと言い張る、怪しい人物だった。
「著者のジョン・キイツさんですか? だから自分の本を返して欲しいと? どう見ても日本人に見えるんですが、からかってらしゃるんですか?」
きっとナンパな男なのだろうと、これ以上関わってはまずいと思い、私は立ち上がってその場を去ろうとした。
急いで立ち上がった拍子に鼻緒が切れて体勢を崩し、手から滑り落ちたキイツの詩が、池の中に落ちそうになった。
大切な詩が水に流されてしまう。
…しかし、池の中に落ちる寸前で男の人の手が『キイツの詩』を捉えていた。
「大丈夫かい」
「あ、ありがとうございます。キイツと名乗る方。せめて本当の名前を教えてくれませんか」
「いや、本当に詩東帰一という名前なんだ。まあ、キイツという名に惹かれてこの詩集を借りたのは事実だけど…」
その時、気づいた。これはよく似ているが私の本ではない。
「君の本はこちらだろう? おそらく荷物を落とした時に変わってしまったんだろう」
「ええ。本当だわ。勘違いしてごめんなさい」
「ではお礼代わりに、君の好きな詩を聞かせてくれるかい」
私は、キーツの希臘古瓶賦をキイツさんに語り聞かせた。
それから、帰一さんとよく話す様になって、好きになって結婚した。
私に告白する時の言葉は、「美はまこと、まことは美」だったわ。
結婚してからも、詩を朗読するのが日課だった。
永遠の眠りにつくその時までも。
話し終えた栄子さんは、自分に向かってほほ笑んだ。
「あなたのおかげで、私のキイツさんは幸せに息を引き取ったわ。ありがとう」
自分は、返そうとしたその本を握りしめたまま決意した。
「この本をしばらく預からせてもらえませんか。また元の様に読める様にしますから」
クリスの時の様に、もう二度と詩を失わせはしない。と自分は誓った。
「わかったわ。その日を楽しみに長生きするわね」
燃え尽きた家の後には一対の菩提樹が残っていた。
As doth eternity: Cold Pastoral!
永遠の冷たき牧詩よ!
自分は、ギリシャ壺のオードの一節を唱えていた。
ギリシャ壺の様に、永遠の真実と愛を詠い、形に残す事を誓って。




