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Empty the haunted air, and gnomed mine— (霊の漂う空と精霊の住む地を虚ろにし)

彼らを見殺しにして、心を失う位なら、死を給え!(Or let me die!)


自分は燃え盛る火の中に飛び込んだ。かつてクリスを救えなかった自分を否定する様に。

あの時とは身体能力が違った。

玄関の近くで、おばあさんを見つけすぐに外へと連れ出した。

「おじいさんが、まだ中にいるんです!」

おばあさんは息も絶え絶えにその言葉を繰り返した。

自分は、もう一度、燃える家の中へと入った。

お爺さんは、本棚の傍で身動きが取れなくなっていた。

幸い、消火が始まったこともあって、お爺さんを背負って外へと出ることができた。

病院へと搬送される際、おじいさんは自分にお願いをした。

「火が消えてからで構わんから、本棚の一番上にある本を取ってきてくれんかのう。大切な本なんじゃ…」



一段落してから、自分は老夫婦の家に戻った。大方燃えつきていたが、言われた通りの場所を探してようやく見つけた。

消火の際の水で本はずぶぬれになっていたので、破かない様に慎重に手に取った。

それは、田山花袋訳のキイツの詩だった。


火と飢餓と虐殺を乗り越えて、絆を結んで来た書物が、水に流される。

そう思った時、どうしようもない悲しみが自分の心に流れ込んだ。


ずぶぬれになって開くこともできない大切な本を病院の老夫婦に届けるのは心苦しかった。

かといって、滞在先のホテルまで戻る事もできず、一般解放された東大の施設で、帰宅難民の一人として、地べたにしゃがみ込み、途方に暮れた。


しばらくして、大学図書館の係員たちの話が耳に入った。

地震の影響で水道管が破裂したため、図書館の本が濡れる前に移動させる必要があるらしい。


また、自分は大切な絆を守る事が出来なかったのか。

クリスの時みたいに…


そう思うと、体が勝手に動いていた。自分は、水に流させないために本の移動を手伝った。


無事に、本の移動が終わり落ち着いたところで、突然、声をかけられた。

「君は確か、前の学会に居た学生だったね」

それは、文学の学会で話したことのある大学教員だった。

「はい。あの時は、お世話になりました」

「何を持ってるんだい?」

「…キイツの詩集です」

自分は手に載った詩集を見せた。

「おお。これはまた、田山花袋訳とはずいぶん年季の入った物を持っているな…。日本でも初期に翻訳されたものなんだよ」

教員は目を輝かせていた。

「そうなんですか。キーツの詩は、何度も読んだ事ありますが、最初は文庫版で、後は原文ばかりに触れていて、これを見たのは初めてなんです。自分の持ち物やなくて、ある老夫婦の大切な本なんです」

自分は、ここに至るまでの経緯を話した。


「そういう事情だったのか。確か、ここの大学図書館にもあったはずだ。私が一言言っておくから、濡れた本の代わりに、それを借りて、老夫婦の元に行ってあげなさい」

教員の助言もあって、特例として本の外部持ち出しを許可してもらった自分は図書館の中へと入った。

図書館も本が所かまわず倒れており、自分は、文字通りの本の山に埋もれながら、探し回った。ようやく見つけた本を持って、自分は老夫婦の元へ向かった。


病室の一室で、お爺さんの傍にいるお婆さんに本を渡した。医師は、もう意識が戻らないだろうと言っていた。

お婆さんは、まるで眠りの前の様にお爺さんに語り掛けた。

「おじいさん。あなたの大好きな希臘古瓶賦(ギリシャこびんふ:Ode on a Grecian Urn)を読みましょう」



いまし今に碎(砕)けぬ静寂さびしさ新婦はなよめ

いまし沈黙(しゞま)ゆく時のやしない児

セルバンの史家ふみひとぞわれ等調しらべより更に優しく

花やかなる物語をかくてぞ印する。

いまし形の へゆ

神、人、ふたり

テンペまたアルカデの谷、

葉濃はこ仙話ものがたりこそまつはり絶えじ。

人よ、神よ、少女子をとめごの恨よ

狂へる行為おこなひ、のかれの煩悶もたへ

笛、鼓、はげし狂乱、

あはれこは總て何なりや。



自分には、まるで本人が読んでいるように思えた。

古風な訳で、初めて聞いたものだが、元の詩のどこに当たるかはすぐに分かった。

何度も呟いた詩だから。

そして、朗読は終盤に差し掛かった。



あゝこのアツチカの姿、美しの形! 過去くわこ

大理石の男女をとこをみな、力をつくし

森の枝、踏みしだきし荒草添へて

いまししづかなる形、われ等をして

かの永劫とはなる力の為すが如くに

思ひの外に梳り去るよ、つめたき牧者

此時代とき、いつか忽地たちまち過き去るとも

いましこそはのこらめ、われ等異ことなれる悲哀の中に。

いましこそ人の友、それにこそ汝は言ふらめ、

『美はまこと、まことは美』と。―こは、いまし

迦具土かぐづちに知りて總て、

またいましが知らんとほりせし總てなれ。


いつの間にか、お爺さんは目覚めていた。

「『美はまこと、まことは美』、わしにとっての美でまことなものは、栄子さんじゃよ…」

そう告げると、眠る様にお爺さんは息を引き取った。それは、安らかな顔でエンディミオンの様でもあり、

ファニー・ブローンに愛を誓ったキーツにも似ていた。

そして、自分は、どこかでクリスを重ね合わせていた。


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