Philosophy will clip an Angel’s wings, (科学は、神秘という天使の翼をむしり)
時が経つにつれて、震災の復興は進んだ。そして、人々の記憶からクリスの存在は薄れていった。自分だけは忘れないと誓いながらも、友達と口にする機会は減っていった。
地震から一年経ったある日、テレビで『瓦礫の下の小説』の特集がやっていた。
地震で亡くなった関西学院大学の学生が書いた詩と小説が見つかり、それを家族やゼミの仲間が出版したのだった。最初は、その事に非常に感動した。だが、段々と嫉妬を覚えた。
20歳という若さで死んだのは悲しいし、もっと才能が花開くかもしれなかった。だが、少なくとも作品は残せたではないか!
クリスの様に作品すらも残せずに死んだ人だっているのに、彼だけが特別扱いされて、クリスはただの数字でしかなくて、それが悔しかった。
彼に嫉妬していた。けれど、そんなことは誰にも言えなかった。
叶わない願い。
あの日から、一年後のテレビを見たその日、自分はミサンガを思い出していた。あの日、詩と共に燃えてしまったミサンガを。
クリスとの夢が消えてしまうようで、赤、白、緑の三色の鉛筆で手首にミサンガを書こうとした。
でも、なかなか手首にミサンガが書けなくて、何度も何度も鉛筆をこすりつけた。
いつの間にか、手首から赤い血が流れてきた。その赤い水に何故か心が安らいだ。
クリスを救えなかった自分に相応しい罰なのだと。
理科の先生は、震災の後、特に防災や地震の単元に力を入れる様になった。その姿勢は真剣で、授業も分かりやすかった。生徒の多くは、更にその先生を尊敬する様になった。
だが自分は、アイツがクリスの詩を燃やした日の事を思い出し、まともに授業を聞く事が出来ず理科が嫌いになった。
どんなに取り繕ったところで、それが科学者の本音なのだと自分は知ってしまったから。
知らなければきっと、皆と同じ様に尊敬して、科学が好きになっていたかもしれない。
自分の卒業後、理科の先生は、舞子の防災科に行って防災教育を行っていると噂で聞いた。
中学に入っても、あの日から抱いた科学への嫌悪感は消えず、理科と数学の成績は悪かった。科学の授業など聞きたくなかったが、怒りと絶望に苛まれ、居眠りする事もできなかった。
不幸ではないが、何かが欠けた毎日がただ流れていた。街の復興が進む一方、自分の心は壊れたままだった。
中学卒業後、中には防災科学を学ぶため、舞子に新設された防災科のある高校に行った友人もいた。その志には尊敬を覚えたが、自分は少しも行きたいとは思わなかった。
夢もなく、ただの惰性で近くの高校に入った。
ある日、ゴミ問題のポスターを描く宿題が出された。何を描こうかと迷っていた時、理科室の掃除中にプリズムを落として割ってしまった。
日光が当たった破片は、まるで虹が割れたようで、クリスと見た虹の事を思い出した。その後、先生に軽く怒られ、「ゴミは分別してして捨てるように」と言われた。
ポスターのアイデアが閃いたのはその時だった。
自分は描いた。絵を真剣に描いたのは、クリスと共に見たあの虹と松の絵を描いた時以来だった。
その絵の標語には次のように書いた。
虹 分けたくないもの
ゴミ 分けるもの
ゴミを分けて、分かれた虹を取り戻せ
絵自体は、大空にかかる虹の下にはゴミが散乱し、その影が汚いスペクトル状の光になっている。中央で、ごみを持った手があり、分別をしていた。そして、その全体を涙を流した大きな瞳が囲んでいるものだ。
久しぶりに真剣に描いたポスターは、入賞して学内で展示される事になった。
ポスターが展示された壁の前で、自分は昔を思い出していた。
「クリスやったら、もっといい詩を書いたんやろうなあ」
その時、通りかかった美術教師がポスターに興味を持って、話しかけてきた。
「このポスターは、ジョン・キーツを意識しているのかい?」
「イギリスのロマン派詩人のですか?」
美術教師は、頷くと詩を呟いた。
Do not all charms fly
魅力の全てが飛び去らないだろうか
At the mere touch of cold philosophy?
冷たい科学が、ただ触れるだけで
There was an awful rainbow once in heaven:
かつては天空に壮厳な虹があった
We know her woof, her texture; she is given
今や、その横糸と織地は知られ、虹は
In the dull catalogue of common things.
ありふれたさえない目録に加えられた
Philosophy will clip an Angel’s wings,
科学は、神秘という天使の翼をむしり
Conquer all mysteries by rule and line,
あらゆる神秘を、法則と線とで支配し
Empty the haunted air, and gnomed mine—-
霊の漂う空と精霊の住む地を虚ろにし
Unweave a rainbow, as it erewhile made
虹を分解した。かつて
The tender-person’d Lamia melt into a shade.
儚いレイミアを影へと溶かした様に
それは、キーツの『レイミア』の一節。
キーツの詩を聞いたのは、クリスと虹を見た日以来だった。
封印していた記憶の扉を開き、あの日からずっとくすぶっていた心を的確に表現してくれる詩だった。
いつの間にか、涙がこぼれていた。
教師は自分に提案した。
「私も、ロマン主義の詩が好きなんだ。中でもキーツは格別だね。君は絵も上手いし、美術部に入ってみないかい?」
何かの部活に入るつもりなんてなかった自分だったが、美術教師に誘われて美術部に入る事にした。
絵画の基礎では、シンメトリーの重要性やゲーテの色彩論などを教えてくれた。
美術教師は文学にも詳しく、自分にキーツの詩集を貸してくれた。大きな書店の奥の方で見かけた事はあったが、避けていたものだ。
クリスの死から止まっていた時が、再び刻み始めた瞬間だった。
それ以来、いろいろな詩を読んだ。クリスが朗読してくれたあの『エンディミオン』の続きも読む事が出来た。
ワーズワースの虹の詩を知ってからは、何度も涙を流して朗読した。
My heart leaps up when I behold
私の心は高鳴る
A rainbow in the sky.
空にかかった虹を見る時
So was it when my life began;
生まれた時もそうだった
So is it now I am a man;
大人となった今もそうだ
So be it when I grow old,
年老いてもそうありたい
Or let me die!
でなければ死を給え!
The Child is father of the Man;
子供は人間の父
And I could wish my days to be
だから私はその日々を
Bound each to each by natural piety.
互いに自然への敬愛で繋ぎたい
クリスの詩を燃やした教師のように、あの日の虹の美しさを忘れた大人になりたくはなかった。
クリスが言っていたウィリアム・ブレイクの作品も見た。
「Tiger,Tiger」と聞いて、阪神タイガースの応援歌と思った幼い自分が恥ずかしかった。
何かの拍子にオマリーの六甲おろしがながれた時、自分は、クリスの事を思い出して涙が出ていた。
だが、笑いすぎて涙が出るのだと言って、疑われる事はなかった。
最初は翻訳本を読んでいたが、その内、原文も味わいたいと思う様になった。
そして、詩に触れていく内に、自分は、英語や文学が得意になっていった。
その一方で、自分は、高校時代の理科の科目では地学も物理も取らず、必修に必要な生物を取っていた。それも赤点すれすれだったが。数学も嫌いで、いつも赤点だった。
その代り、国語、英語、社会は得意だった。
自分が文学や歴史を専攻したのは、何かを記録したいと思ったからなのだろう。文学の才能がクリスよりもない事は分かっていた。
キーツの名は、自分に相応しくない。本当のキーツは、詩人はクリスだ。
自分は、キーツの最期をただ見守るしかできなかったジョセフ・セヴァ―ンだ。
否、彼にすら及ばない。自分の命が大事で、遺言を聞く事も手を握る事すらできなかったのだから。
重なった松は、短い生涯で、人々の心に残る作品を残した。大切な人のたったひとつの作品すら形に残せなかった役立たずの浪松(自分)とは違う。
絵はそれなりに描けたが、描きたい題材がない事に気付いた。
クリスが生きていたら、あの日約束した通り、二人で一緒に詩と絵を作っていただろう。
今は、自分が残したいのは、自分の作品ではない。他の人の作品を、消えたり埋もれそうな作品を守りたい。ただそれだけだ。




