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Aplicatio:In Terra Bellum(応用:地には戦いを)

20XX/10/31 Hongo, Tokyo, Japan


Ceterum Censeo Natura delenda est

ともあれ自然滅ぶべし



日本に辿り着いた私は、まず最初に東京の本郷に滞在した。

神戸に行く前に、東京の本郷にある東大地震研究所で、シミュレーション研究に伴う様々な手続きや打ち合わせを行う為だった。

それらが、一段落したある日、時間に余裕があった事もあり、せっかくなので少し周囲を散歩してみる事にした。


東大の赤門を出て、近くの森鴎外記念館へとたどり着いた。文学に疎い私だったが、森鴎外の名前は知っていた。ゲーテのファウストを日本で翻訳したのが彼だったからだ。

それも飾られていたので、私は翻訳版ファウストを買う事にした。

店員がつたない英語で話すには、数年前までこの本は置いてなかったが、ある人物のリクエストで試しに置いて見たら、意外と評判になり売れ行きが多い様だ。

どこの誰だか分からないが、提案してくれた人には感謝しよう。



Ceterum Censeo Natura delenda est

ともあれ自然滅ぶべし



本郷の近くのイチョウは色くなり始めていた。戻ると、地震研究所跡の看板を見た。地震学の歴史を振り返りながら歩き続けた。

濱口吾陵の手による広村堤防の完成から22年後の1880年2月22日、横浜地震が発生した。

その頃の日本では、近代化を急速に推し進める為、お雇い外国人と呼ばれる外国人技術者が多く滞在し、彼らも地震を経験した。

これに遭遇したジョン・ミルンが中心となって世界初の地震学会、日本地震学会が設立された。

地震研究の大家・大森房吉は関東大震災の報を聞いて急遽日本に戻ったが、そこで亡くなった。

それは、まるで、大プリニウスがポンペイで亡くなった時の様だった。

二人は、日本の大プリニウス、小プリニウスというべきかもしれない。

二人の遺志は、大森の弟子であった今村明恒へと引き継がれて今日に至る。



そして、雑司ヶ谷霊園に辿り着いた。私は霊園内を歩き回り、一つの墓の前で立ち止まった。

そこには、小泉八雲が眠っていた。

「A living god」を通して、津波の危険性を伝えた彼に、私は決意を新たにした。


Ceterum Censeo Natura delenda est

ともあれ自然滅ぶべし


そんな思いを抱きながら下町を歩き続け、池袋へとたどり着いた。

そこには、怪物たちがいた。

そういえば、今日はハロウィンだった。遠い日本でも近年はハロウィンが行われていた。

あのコルプスとの出会いから何年たったのだろう?

死神の仮装をしていたコルプスは死神そのものと化していた。私は悪魔の姿をしていないが、魂は悪魔に売り渡していた。

もう過去には戻れない。

そして翌日、私は東京を後にし、関西地方に向かった。

それは、11/1 諸聖人の日、リスボン地震の日。あるいは全ての自然の殉教者の為の日の事だった。

大地に戦いを挑み、自然を滅ぼすために。



In Terra Bellum

大地に戦いを

Natura delenda est

自然滅ぶべし

Quod Erat Demonstrandum.

証明終了。


si vis pacem para bellum

汝、平和を欲するならば、戦いに備えよ。

incipe naturalis bellum

自然への闘いを開始する。

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