Veram Solutio:Dies Irae (真解:怒りの日)
虹の話からあるものを思い出した私は、コルプスの遺品の中から偶然見つけた厚い紙の束を取り出していた。
それは、コルプスの書きかけの論文だった。
タイトルは次のようになっていた。
Frigidus pluvius arcus emitto
Duo culturis sagittae
Symmetria
(冷たい雨弓(虹)から放たれた
二つの文化の矢における
対称性)
「序文:この作品を、永遠なる詩人グレートヘンことアオバ・クリスに捧ぐ」
アオバ・クリスという言葉にどきりとさせられた。コルプスは夭折した友の事を今も忘れていなかったのだ。
続く第一部の冒頭には、先ほどのキーツとワーズワースの虹の詩が掲げられていた。
ワーズワースやキーツ、ゲーテなどの文学者たちが虹を例にとって科学の冷たさを批判した事に対して、コルプスは具体的に反論していた。
コルプスの論文は、私の思考過程をなぞる様に、理論をまとめていた。
1755年のリスボン地震を巡る、ヴォルテールとルソーの自然観の対立。両者とは距離を置いたカントの立場。
そして、第一部の終わりは、『冷たい方程式』だった。
私と方程式ものについて議論していたのは、この論文の為だったのだろう。
議論した方程式状況に陥る色々なパターンや解決方法が載っていた。
そして、それらの最後に、冷たい方程式と重ね合わせて、ロマン派詩人の詩が引用されていた。
When Science from Creation's face
科学が自然のおもてから
Enchantment's veil withdraws,
魅力のヴェールをはずすとき
What lovely visions yield their place
美わしき幻はその座を去り
To cold material laws!
冷たい物質の法則が取って変わる!
"To The Rainbow"
Thomas Campbell
トーマス・キャンベルというワーズワースの一つ年下の詩人のもので、キーツが『レイミア』を発表した時と同時期に書かれたらしい。
1954年、『冷たい方程式』を書いたゴドウィンは当初、設定こそ同様だが少女を救う結末を考えていた。
しかし、『アスタウンディング』誌編集者ジョン・W・キャンベルが、その救いを否定した。
決して救われない命。人々の悪意もないのに、自然の冷酷さを強調した作品は、名作となった。
ある意味で、二人の共作とも言えるかもしれない。
ゴドウィンのファーストネーム:トムは、トーマスの略称であるから、マリオ・マリオの縮約記法に乗っ取れば、『冷たい方程式』の作者も、トーマス・キャンベルといえるだろう。
なんという偶然か。
そもそも、二人が、ワーズワースやキーツと比べれば知名度の低いトーマス・キャンベルのこの詩を知っていたかさえわからないが。
Lovely visions(麗しき幻想)など、ありえたかもしれない可能性など、何の価値もない。
コルプスの生という幻想は、可能性は、夢は、冷たい物質(cold material laws)の法則に取り替えられた。
どれだけ願おうとも覆す事などできない。
そうだ。答などとうの昔に分かっていた。いつでも、あなたは私の先を行っていた。
その論文は第一部完と締めくくられていた。冒頭の概要によると第二部では、それらを巡る具体例を議論するようだった。
しかし、第二部は残っていない。シェリーの『詩の擁護』やキーツの『ハイペリオン』が未完の様に、これを仕上げる前にコルプスが亡くなってしまったから。
だから、第二部は私が紡ぐ。ただの理論ではなく応用として。
***
涙で濡れた目で、虹を怒りながら睨みつけた時、ようやく真の解を見つけた。
他の解の四則演算(+-×÷)と根(n√)だけでは、決してたどり着けない解。
概念そのものを変えなければならない。それは、自分自身の定義を取り除くだけではない。所詮、それは変数変換のようなもので、目先を変えただけで本質は変わっていない。
本質の捕らえ方を変えよ。四則演算と根の概念を超えよ。
その先にある解は、ガロアの様に生前は理解されず、死後に理解されるかもしれない。
否、それすらなく、永久に理解されないかもしれない。
観測だ。まず、観測し記録しない事には如何なる理論も打ち立てられない。
ティコ・ブラーエの肉眼による膨大な観測データがあったからこそ、ケプラーは三法則を発見し、更にその法則をニュートンが万有引力で説明したのだ。
肉眼でしか認識できなかった光も、望遠鏡の発明で遠くまで見えるようになった。更に、私達の可視光を超え、赤外線、紫外線まで測定可能となった。
観測の目は開いていく。
それゆえ、私は観測し、記録しよう。感情を捨て、その目で、できる限り全てを観測するのだ。
様々な観測機器を従え、コンピューターという参謀を連れて、ラプラスの悪魔の如く。
自然法則を知り、利用するために。
データを解析する為に細かく分ける。それは、アルキメデスの取り尽くし法に始まり、ニュートンとライプニッツの微積分となり、コーシー等によるε-δ論法で更に厳密になった。
還元主義こそが科学の真髄だ。
Ipsa scientia potestas est
知は力なり
私自身に法則は見つけられないとしても、後世の者が、記録という巨人の肩に乗って、法則を発見するだろう。未来の者が手にするのはラプラスの目かもしれないが。
知識の為ならば、喜んで捧げよう。
プロメテウスの様に、肝臓を啄まれる苦痛にも耐えてみせよう。
それともオーディンの様に片目を。
それでも足りない?
両手、両足、胴体全て捧げよう。ミーミルの如く首だけになろうとも構わない。
それとも、ウィリアム・ブレイクの『ニュートン』の様に、海底で物質と融合してでも、知識を求め続けようか?
願わくば、法則を打ち破らん事を。
∴ Natura delenda est
故に 自然滅ぶべし
Quod Erat Demonstrandum
証明終了
Dies irae, dies illa
怒りの日、その日は
solvet saclum in favilla:
(希望の)灰の中から解いた日
teste Newton cum Principia
ニュートンのプリンキピアによる証明の如く
Quantus tremor est futurus,
何時まで震えている?
quando judex est venturus,
裁きの時はいつか
Natura stricte discussurus.
自然を厳しく破砕するのは




