Lemma: Agnus Dei in Frigidus Leges (補題:冷たい法則の中にいる神の子羊)
コルプスと共にローマに住み始めてから、私はコルプスの跡を追う様に、科学を学び続けた。
そして飛び級でローマ大学に入学した。コルプスと共に、大学の門をくぐる事が出来た日の事は忘れられない。
大学で科学を学ぶ日々が続いたある日、突如として地面が揺れた。それは、久しぶりに感じた、あの恐怖だった。
原因は、2009/4/6のラクイラ地震だった。その揺れがローマにも伝播したのだった。
この地震から、コルプスは変わった。コルプスは大学を休み、すぐに災害ボランティアとしてラクイラへと行ってしまった。
私はローマに残り、一人で、コルプスを待ち続けた。
余震で少し揺れる度に、あの日の悪夢が思い出して目が覚めた。
一月もして帰ってきたコルプスは、修士課程まで学んでいた物理学(Fisica)から、博士課程の専攻を、地学(Geologia)に専攻を移した。
私はコルプスと同じく、物理学を学ぼうとしていたのに、別の専攻となった。
といっても別に同じ大学内なので、コルプスの生活が大きく変わる事はなかった。
でも、コルプスの何かが変わってしまったようだった。いや、あれだけの災害を見て変わらない方がおかしいだろう。
コルプスの変化に気づきながら、私はいつもの様に科学を学び続けた。あの日の様に全てが変わってしまうのが怖かったから。
それから月日は過ぎ、コルプスに誘われて日本海溝周辺の深海調査に出かける数ヶ月前、二人でとある小説について議論をした。
トム・ゴドウィン『冷たい方程式』(Cold Equation)
SF小説の一つ。
宇宙船に密航した少女が、質量超過故に、冷酷に宇宙へ放り出されて亡くなるという物語。
その悲劇的な結末と、自然法則の冷たさを描いた名作だ。
そして、この作品に続いて、方程式ものと呼ばれる、色々な派生作品が書かれた。
私も、イタリアで出版されたリーノ・アルダーニの『腕が20本ある月(La luna delle venti braccia)』位は読んだことがあった。
コルプスが特に注目していたのは日本の作品だった。
私は日本語が読めないから、コルプスがあらすじを教えてくれた。
二人で色々と話した。
思考実験としては面白いというと、多くの人は残酷だと思うかもしれない。けれど、推理小説で人が死ぬのと同じだ。
殺人の動機を描く作品もあるが、多くの推理小説で追求するのは、トリックの方であり残酷さを気にする者は多くはない。
「そういえば小学校の頃読まされた『クオーレ』でも、6月難破船の話があったよね」
エドモンド・アーミチス作『クオーレ』。いわゆる児童文学の一つで、私も小学校で読んだ事がある。
「ええ確か、沈みかけた船の中で、シチリアの少年マリオが、マルタの少女ジュリエッタに譲って船に残って犠牲になる話ですよね」
「あれを読んだ時は、まだSFの方程式ものは知らなくて、衝撃だったなあ」
「まあ、ありふれた話といいますか。いわゆるカルネアデスの舟板の解の一つですね。私はあまり興味がなかったですが」
「どうやったら二人を救えるか悩んで、学校中のマリオに、『どうやったら君は生き残れる?』って尋ねたなあ…。アクアは悩まなかった?」
私にいつも議論をふっかける感じでまとわりつく幼少期のコルプスを想像して、同じ学校のマリオに憐れみを感じた。
「…あなたは昔から変わってないみたいですね。そういう物語という前提条件ですから悩む事はありませんでした」
「改めて聞くけど、どうしたら二人を救えたと思う?」
「腕や足を切って軽くするとかもありですが、そもそもあの状況なら難しいですね。、他の乗員を犠牲にするしかないんじゃないですか。二人とも子供ですし、誰か大人がゆずってくれたら…」
「それでは、犠牲者の総数が変わらないじゃないか。綺麗な解じゃない」
「…む。そもそも、乗員全員分のボートをつけるとか、そういう対処はやるべきなんです。危機管理がなってないんです」
「アクアは、やはり頭が固いなあ」
「そういうあなたは何かいい解を見つけたのですか」
「マリオが1upキノコ食べれば良かったんだ。そしたら、海の底に沈んだ後、復活できた」
ここでいう、マリオというのは、イタリア人の知り合いではなく、日本のテレビゲームの赤い配管工の事だ。私もコルプスにつき合わされて、一緒に緑色の弟を動かして遊ぶ事があったから言いたい事はなんとなくわかった。
「ベニテングダケを腹いっぱい食べさせて、配管に流してあげましょうか? トレビの泉まで流れつけば、コインもたくさん手に入って、無限1upできると思いますよ」
笑顔だが目が笑っていない私を見て、コルプスは恐怖した。
「Mamma mia!(なんてこった!/我が母上様!) そ、それは勘弁してくれ。息も吸えないのに、永遠に生と死の無限ループなんて嫌すぎる… Aqua mia! (我がアクア様!) せめて、キノコはマツタケにしてくれ」
コルプスは土下座した。その様子がおかしくて私は笑い、コルプスも笑った。
「ところで、マリオの本名は、マリオ・マリオだと思うんだ。実写化された時もそうだったし」
「いきなりなんですか? 同語反復なんて、名前としておかしいでしょう」
「そう? では、ガリレオ・ガリレイは? トスカーナの方では長男に、姓と同じ名前を単数にしてつける所もあるよ」
「…そう言われれば、そこまでおかしくないのかもしれません…」
「よし、その前提から次の公理が証明できる」
コルプスは、黒板に次の数式を書き始めた。
Mario=Mario・Mario
「ここで、マリオにマリオ・マリオを代入すると」
=(Mario・Mario)・(Mario・Mario)=Mario・Mario・Mario・Mario=2Mario
∴Mario = 2Mario
「これを、マリオの縮約記法としよう」
「アインシュタインの縮約記法(Einstein summation convention)の真似ですか。確かに数式上は間違いではないですが…」
「ここで、さっきの話に戻すと、つまり、二人のマリオは一人のマリオになる。なので、他の船にいるマリオさんを見つければ、二人のマリオが、一人になるので、一人分空きが出来て救える事になる」
「また、屁理屈ですか」
「でもさ、ある意味で本質をついているんじゃないかな。カルネアデスの舟板状況に陥った時に、残された者は何かを引き継ぐ。知識や記憶や想い出などを。…確か、日本の作品でそんな事を書いてるものもあったなあ」
「確かに、私が学んでいる科学も、過去の巨人たちの肩の上に立っているからこそ成り立っています」
「科学だけじゃなく、生きる事自体も、そういう事な気がするなあ」
「ええ、私も何かできるでしょうか」
***
…だが、今は違う。これはゲームではないのだから。
そう変わらない。無限に繰り返される悲劇、生と死。
いつか読んだループもののSFみたいだ。
私はただ、今を続けるだけで…。
私は、何をしていた?
無意味無意味無意味無意味無意味無意味
もういいですよね。
引き継がれたのが心だというなら、私は心を無くして、コルプスは命を無くして…
なぜ、私は、自然の優しさを信じていたのだろう。
とうの昔に分かっていたのに。
私は逃げていた。
神がもう信じられないから…だから科学の道に行って
けれど、応用科学も残酷な真実を見せられて嫌だから、純粋科学の道に行こうとして…
それでも、海底の調査に参加したのは、コルプスと共にいれば大丈夫だと思ったから。
コルプスの傍で、学んで少しでも手伝いたくて。
自然との闘いから逃げていたから…コルプスまで失った。
コルプスは逃げずに立ち向かっていたのに…。
私は逃げていた。
…ようやく思い出した。
それは、子供の頃のある日の事。
私は、なけなしのお金で買った『ロウソクの科学』を手にしていた。
それは、あの日コルプスが燃やしてしまったから、せめてものお返しにと思ったものだ。
コルプスの元を訪ねたもののコルプスは不在で、代わりにコルプスの机近くに落ちていた写真を見つけたのだった。
写真には私によく似た姿の子供が映っていたが、私は、こんな場所に行った記憶がなかった。
一体、いつ撮ったのだろう? それとも別の人の写真だろうか。
何となく写真を裏返してみるとそこには次の模様が書かれていた。
光見分冷冬
るつけえの
彼めれし虹
方るな七
へ二い色
人
よく分からない文字でかかれていたから意味は分からなかった。縦に書かれているから中国の漢字なのかもしれない。
写真の近くに置かれた手紙を読んでみた。
また謎の文字で書かれているのかと思ったが、それは私でも読める子供らしい書体のイタリア語だった。
「この前冬の虹がかかったんや。そこで、良い短歌を思いついたから、一緒に送った写真の裏に書いといた。
クリス・アオバ
1995年1月17日」
宛先はコルプスで消印は、1995年1月17日となっていた。
「…それは友達の手紙なんだ」
いつの間にか、背後に来ていたコルプスは告げた。
「…そうでしたか。てっきり、私の写真かと思っていました」
「…似てて当然さ。だって、アクアの親戚だからな… 」
コルプスは、私と写真の人物を見比べていた。
「知りませんでした。私もクリスに会ってみたいな…」
「…会うには、タイムマシンを造らないといけないな」
いつもみたいに茶化した言葉に、私はいつもの様に切り返していた。
「…私は、この時のこの人に会いたいんじゃありません。今のクリスに会いたいんです」
「…じゃあ、並行世界に行かないといけないな」
「…ところで、詩は、なんて書いているんですか」
コルプスは、少し考えるとその詩の英訳を口ずさんだ。
冬の虹
The Winter rainbow-
冷えし七色
Into cold seven colors.
分けれない
I cannot resolve-
見つめる二人
The pair staring each other
光る彼方へ
Walk thorough shiny somewhere over
「なぜ英語なのですか?」
「…クリスがキーツの英詩が好きだったからかな…」
「コルプスとは全く違う人ですね。本当に会ってみたい。デジタルデータならとかそういうへ理屈はいいですからね」
「はは、そうだな。自分も会いたいよ。どんな屁理屈でもいいから」
その声に、私は今更ながら異変に気付いた。
「…クリスに会えない理由があるのですか」
「…その手紙を書いた日、神戸で起きた地震で亡くなったんだ」
それきり、私は言葉をかける事ができなかった。
コルプスは、机に放置していた私が渡すつもりだった『ロウソクの科学』を見つけた。
「これは?」
「あの時焼いてしまったから、返そうと思って」
「あの日、君に読ませた本は、本当はクリスにあげる予定のものだったんだ…」
「ごめんなさい。大切な本を焼いてしまって」
「いいんだ。そんなものより命の方が大切だから」
コルプスはいつもの様に笑ったが、瞳から水滴が零れていた。
その事を知った後、私は、密かにタイムマシンの研究をしていた。とりあえず、相対性理論を学ぶことから。
***
過去の回想を終えた私は、コルプスの使っていた地震年表を見つけた。
その年表には所々に赤い線が引かれていた。
それを見て、すぐに気づいた。赤い線が引かれている一つは、私が体験したモリーゼでの地震だった。
更に、1995/1/17にも線が引いてあった。今なら、わかるこれはコルプスの友達だったクリスがなくなった阪神大震災の日付だった。
そして、私は、赤いペンで地震年表に付け加えた。2011/3/11と。
自然は、何をした?
私から、家族を奪った。
私から、コルプスを奪った。
そうだ。
遠い日本のクリスもその家族ごと奪ったのだ。
アオバ・クリス。
救い主の名を持つ幼子さえも。




