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Erster Akt: Anfang der Wort und Tat (第一幕:言葉と行為の始まり)

挿絵(By みてみん)


広村堤防に立ったあの日、私はキイツに失望した。

アクアはキイツから『ファウスト』を取り返すと、そのまま稲むらの火祭りに参加した。

人々が梧陵の様に松明を持って行進する中、私も自然への復讐に心躍らせていた。

11/5 その日を忘れるな。

キイツの手から取り返した『ファウスト』は、日本のファウストたる濱口梧陵の墓に捧げた。



翌朝、私はキイツと共に広川町を後にして和歌山市の地震観測所へと向かった。

昨日の件もあり、移動の際中、私はキイツに最低限の口しか聞かなかった。


和歌山の地震研究所を作ったのは、地震の神様と呼ばれた今村明恒だ。

彼は大森房吉の元で地震学を学び、関東大震災を予言した。その功により、彼は地震の神様と呼ばれる様になった。1928年には私財を投じて、この研究所の前身となる南海地動研究所を設立している。


更に彼は、防災教育の為、『稲むらの火』の簡略版を小学校の教科書に掲載するよう働きかけた。

その際に、広村堤防も研究して欠点を指摘していたが、それが聞き入れられる事はなく、1946年に再発した南海地震で現実のものとなった。この地震で発生した津波から、広村堤防は村の主要部分を守る事が出来たが、堤防によって勢いを変えられた津波は、川へと逆流し少ないが犠牲者を出してしまっている。


とはいえ、彼の防災の遺志は脈々と引き継がれている。この研究所も彼の遺志を継ぐものの一つだ。

今村が設立した研究所で、私は数日ほど研究員とシミュレーションについての打ち合わせを行った。当初はキイツに通訳を頼む予定だったが、研究員とは片言の英語と数式で意思疎通が可能だった。

一方で、キイツは科学用語が分からず、昨日の件で腹が立っていた事もあって、翌日からキイツには退席してもらった。



***


一方、地震研究所の通訳をアクアに断られたキイツは、仕方なく気分転換も兼ねて、近くの紀三井寺を訪れていた。

ここは、夏目漱石や松尾芭蕉が訪れた場所で前から行きたいと思ったところだ。

一人寂しく、231段ある結縁坂を登りながら、キイツは考えていた。


広村堤防に立ったあの日、自分はアクアを怒らせてしまった。

だからこそ次の日の地震研究所での通訳は名誉挽回のチャンスだと思っていたのだが…

地震研究所の職員が喋る英語は片言だったが、同じ科学を学んだ者同士、図や数式と専門用語でほとんどコミュニケーションが取れていた。

むしろ、自分が専門用語を無理矢理訳すと混乱を招いた。仕方なく、ただその場に存在していた。

アクアの活き活きとした表情を見れて、別世界の人だと改めて感じた。嬉しく思う半面、あの事を思い出して、少しだけ反感を覚えた。

そして、今日はついに通訳すら断られてしまった。



怒らせたばかりか、通訳としての役目も果たせず、そんな惨めな思いにとらわれている時、靴紐が切れた。

坂の由来の様に誰かが助けてくれる訳もなく、適当な紐を捻じって靴紐の代わりにした。


そんな思いにとらわれながら登りきった頂上からは、瀬戸内海が一望できた。アクアがいたら、寺に興味はなくても、この景色は喜んだかもしれない。

その時、一陣の風が吹き、何かがキイツの顔にまとわりついた。

それは、時期が過ぎただんじり祭りのパンフレットだった。そういえば、岸和田の近くに変わった寺があった。津波を研究しているアクアにとっては眉唾かもしれないが、訪れてみるのも良いかもしれない。


***




数週間後には打ち合わせが終わり、アクアとキイツは次の目的地へと向かった。

その途中、キイツは和歌山城など色々と付近の案内をしたが、アクアは興味もなく口もほとんどきかなかった。

次の目的地までの電車に乗ってからはキイツも無言だった。沈黙の中、アクアは考えていた。


キイツを案内人として雇ったのは偶然だった。災害における文化財保護の重要性を説く英語の論文が気になり、コンタクトを取った。やりとりする中で、ちょうど神戸在住で近くの地理に詳しく、英語力もあり、日本の歴史にも造詣が深い人物と分かり、案内役として適任だと感じたからだ。確かに、英語や歴史については申し分なかった。しかし、あまりにも科学の素養がないのには失望した。

こんな事になるのなら、気まぐれを起こさず、ただの通訳と現地の案内人を手配すれば良かった。次の目的地の難波まで行けば人も多いし、代わりも見つかるだろう。もうそこでキイツとは別れる事にしよう。



アクアが考えている隣でキイツの方も、どうすればアクアとの関係を修復できるかを考えていた。ふと、足元を見て、靴紐がほどけている事に気付いた。結びなおそうとした紐を見て、キイツはアクアが興味ありそうな所を思い出した。


「時間もあるし、ここで途中下車せえへん? 見せたいものがあるんや」

キイツの提案にアクアは物思いから我に返った。興味のない寄り道が続いていたので、もう断ろうかと思ったがその無邪気な笑顔に”あなた”が重なって見えて無意識に頷いていた。



挿絵(By みてみん)



キイツの案内に従い、蛸地蔵駅で途中下車して十分ほど歩くと、天性寺という寺に辿り着いた。

寺の中には、赤い水溜りから8本の水流が発散(∇・)している木の板が沢山貼りつけてあった。

願い事を書くという絵馬というものだろう。しかし絵馬に書かれている赤い発散は何なのだろうか? 初めて見るもので何か分からなかった。

そもそも、こんな寺が何の関係があるのだろうか。また息抜きといってただの観光案内なのだろうか?

「…ここが、私の調査と何か関係があるのですか?」

アクアの冷やかな疑問に、キイツは自信満々に答えた。

「関係あるんや。600年以上前に高波が襲った時、蛸に乗った法師がこの地方を守ったんやで」

その突拍子もない話に私は興味を持ち、耳を傾けていた。

キイツは、アクアがまた興味がないかと不安だったが、今回は興味深そうな顔をしたので安堵して、話を続けた。



高波からこの地を守った蛸と法師は、約400年前の戦国時代に再び現れた。

信長の跡を継いだ秀吉の家臣が守る岸和田城が、敵に包囲されて絶体絶命に陥った時、法師が蛸の大群を引き連れて現れ、敵を蹴散らしたというものだ。

その後、法師はどこかに消えてしまったが、後日、城主に自らが地蔵菩薩の化身だと告げ、それからその地蔵を祭る様になったという。



キイツがしてくれた話は、伝説と現実が入り混じっていて”あなた”が好みそうな話だと、アクアは思った。

「困ったヒデヨシが、魔王ノブナガを復活させてタコの軍団を呼び寄せたのだろう」

きっと”あなた”ならそういっただろう。キイツは”あなた”と同じ色の瞳で真面目な顔をしていたから。


クトゥルフ神話みたいな荒唐無稽な想像が心によぎって私は笑みがこぼれてしまった。

その拍子に何気なく質問していた。”あなた”によくしていたように。

「もしかして、タコが食い止めた津波は、南海地震の一つ、1361年の正平地震によるものですか?」

その地震は『太平記』にも記された南海地震の一つとして、キイツも名前ぐらいは知っていた。

「…ほんま、アクアはすごいなあ。外国の地震までパッと出てくるとは…。どうなんやろう? 一応、建武年間(1333-1336年)に起きた津波と言ってるから、違う気もするけど…。ただ、昔の事だからはっきりしないなあ…。津波を防いだのが、本当に蛸なのかもわからへんし」

「…蛸の正体は、蛸壺漁師や水軍の人達かもしれませんね。そうであれば、秀吉の戦いに協力したというのも納得できますね」

つい、いつもの冷静な分析をアクアは口にしていた。

「現実的やなあ。でも、蛸や地蔵の様な伝説の存在ではなく人々が身を挺して、高波や外敵から人々を守ったというのも感動的やな。いや、それだけに伝説となったのかもしれへんなあ」

そう言ったキイツの顔つきは、”あなた”に似ていて、今までの怒りが水に流されていった。

堤防での件で、少し大げさに怒りすぎた。キイツは深い意味があって言った訳ではないだろう。あまりにもタイミングや私の心境が重なりすぎて、あの事を連想してしまったのだ。

素直に感謝を述べて和解しよう。キイツともう少し一緒に旅をしてみたい。

「興味深い話でした。私だけなら素通りしてたでしょう。やはり、あなたに現地の案内を頼んで正解でした」

「…よかった。ここも駄目だったら、この絵馬に”アクアの機嫌が直りますように”と書いて、祈るつもりやったんや」

キイツはほっとした様に、手に持っていた絵馬を見せた。その赤い水溜りの絵を見て、アクアはようやく気付いた。

「つまり、このエマはタコなのですね。私は、水が流出している絵だと思ってました」

「そんな発想初めて聞いたで。確かにそう言われれば見えなくもないなあ」

キイツは驚いて笑い、それにつられてアクアも笑った。

アクアは絵馬を取り上げながら、キイツに尋ねた。

「Tsunamiは漢字でどう書くのですか?」

キイツから教わりながら、アクアは日本語で次の様に記した。


津波から人々を守ってくれますように ▽・


物足りなかったので、赤いタコの頭に▽・(Divergence)も付けた。私は、ここから水が出てくると勘違いしていたから、無関係とは言えないだろう。


「蛸の頭についているこのマークは何なん?」

絵馬をくくりつけながら、キイツは尋ねた。

キイツが指していたのは、▽・の記号だった。

日本語では確かこういったはずだ。

「それは、ハッサン(発散)です」

キイツは前にも見た三角の記号に首を傾げた。

ハッサンとは、タコの八さんの事なのだろうか。

頭の中を疑問が駆け巡っていたが、変に尋ねて、修復したばかりの関係をまた壊したくなかったので、何も聞かないことにした。

「ああ、ハッサン…、蛸の八さんね…」

キイツは分かった様な、分からない様な顔をしていたが、私は余計な事を言って気まずい空気になりたくなかったので深く言及はしなかった。

「はい。タコの発散です」


アクアとキイツは自然に抗った水の邪神に祈りを捧げ、その場をあとにした。

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