Definitio Ⅴ: Symmetria Violatio (定義Ⅴ:対称性の破壊)
私は、コルプスの方を向いた。
コルプスが何を考えているかわからないが、もう何かをできる時間はなく、バグの修正だけならすぐにできるからだ。
「アクア。データ保護を最優先するなら、自分たちもデータだと認識させればいいんじゃ?」
そういって、コルプスは、持っていたポーンをひっくり返した。
私には思いつかない、コルプスらしい発想の転換だった。
私はうなずき、すぐにプログラムを書き換え実行した。
「船室Duoにて、アクア、コルプスの新規データ検出。…切り分け不可能…緊急浮上プログラム停止…扉を開放…」
当座の危機を乗り越えた二人は作業を再開した。
しばらくして、捨られる物をすべて集めたが、船が浮かぶための質量には少し足りない事が分かった。
「コルプス。もう捨てるものがありません。降下速度を遅くして、救助隊が早く来る可能性に賭けるしか……。早く船室を切り離しましょう」
コルプスは何か思案しているらしく少し返答が遅れた。
「そうだな。今思ったんだが、予備の酸素ボンベは捨てたけど、あの酸素ボンベも要らないんじゃないか。
少し息苦しいけど、循環装置の設定を変えれば耐えられそうだ。あれを捨てれば予定の質量に足りる気がする」
私はコルプスの指差す先にある酸素ボンベに目を向けた。
「確かに。やってみる価値はありますね」
「じゃあ、循環装置の再設定は任せた。自分は酸素ボンベを運んで、船室を切り離しておく」
私は、循環装置の再設定を始め、コルプスは酸素ボンベを反対の船室に移動させた。
少しして、隔壁が閉まり始める音がした。コルプスが酸素ボンベを運び終えたのだ。私は循環装置の再設定を終えて、コルプスの方に振り向いた。
「コルプス。再設定が完了しました!」
なぜかコルプスはまだ反対の船室にいて、少し悲しそうな笑顔で言った。
「そうか。じゃあ、お別れだ」
隔壁が下がりはじめていた。私は嫌な予感がして叫んだ。
「何してるんですか!」
私はコルプスの元に向かい、二人の間にある透明な黒板を動かそうとしたが微動だにしない。
私は隔壁の側にある停止スイッチを押したが、隔壁は止まらず、下に落ち続ける。
コルプスが冷静に言った。
「そっちのスイッチは壊したから無駄だよ」
私はコルプスの方を向いた。隔壁が半分近く下がってきていた。
相変わらず、コルプスは向こう側の船室にいる。
ランプが明滅し、警告音が鳴り始めた。潜水艇にかかる水圧が限界に近づいていたのだ。
嫌な予感がしていたが、それを信じたくなかった。いつもの様に、予想を超えた冗談だと思いたかった。
「まさか圧力の実体験をするなんて言わないですよね? もう十分驚きましたから、早くこっちにきて下さい。ご冗談でしょう? コルプス!(Surely You're joking Corpus!)」
しかし、コルプスは壁を境にポテンシャルが無限大になった様に、一向に動かない。
「ああ、圧力を実際に体験してくるよ。提案したのはアクアなんだから止めないでくれ」
コルプスは笑って答えたが、目だけは笑っていなかった。
「あなたは狂ってる!(You must be crazy!)」
反射的に私は叫んだ。コルプスが冗談でも狂っている訳でもない事は分っていた。だが、認めたくなかったから、叫んで否定する事しかできなかった。
コルプスは作り笑いを止め、透明な黒板に数字を書き始めた。
「ごめんアクア。冗談ではなく本気だ。この酸素ボンベは確かに重いが、それでもまだ、質量が足りないんだ。そして、残りは自分の質量で足りる。だから自分ごと遺棄するんだ」
透明な黒板には、その事実を示す計算が書かれていた。それは無意識の内に避けていた、この微分方程式における最悪の解法だった。
「だったら、私が死にます。あなたが生きて下さい」
私は計算もせずに、そう主張した。しかしコルプスは冷静にそれが不可能な事を示す計算を記した。
「ダメだ。それは感情を抜きにしても、無理なんだ。自分の方が体重が重い」
私は何度も、その単純な加減法を確かめた。繰り返した所で、2+2=5になるはずがないのに。その計算は正しかった。
「こんな所で別れるなんて。まだ話したい事や一緒に研究したい事が山ほどあるのに……」
その間にも隔壁は一定の速度で下がり続け、屈まなければ互いの顔が見えなくなっていた。
私は周りを見渡しながら、熟考した。ニュートンの古典力学は崩壊した。ラプラスの悪魔を退けた。
にもかかわらず、この状況は変えられない。変わらない。
屈するしかないのだ。自分が生きたいのなら。所詮は自分が……自分が……
コルプスが言った。
「一人が死ななければ、二人とも死ぬんだ。だから、君が生きるんだ。アクア。自分の死は君のせいじゃない。今まで通りに生きてくれ。 Memento vivere(生きることを忘れるな)
これがこの方程式の唯一解。たった一つの冴えたやり方(The Only Neat Thing To Do)」
コルプスが死んだ前と後では、世界が異なるだろう。連続ではなく、不連続になる。
その断絶はδ関数の様に、微少だが無限の深さをもつだろう。
今まで通りに生きれるはずが無い。けれども、その願いはよく分かった。
「分かりました。コルプス。ようやく最近チェスで勝てる様になってきたのに、もう戦わずに逃げるのは卑怯です。私の勝率が五割を超えるには最低、後12回勝つ必要があるんですよ」
「そうだ。自分は卑怯者だ。アクアがチェスの世界王者になって、チェスマシン Deep Blue 6500を負かしても、自分を超えられない」
最後に見たコルプスは、涙の軌跡が見える笑顔だった。
その瞬間、力の対称性は破られたのだった。




