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Prolog im Hölle:Fragment von Regenbogen (地獄への序章:虹の断片)

*注意事項*

この物語はフィクションです。

但し、実在の理論や地名、人物についての記載が多くあります。また、地震や津波といった災害を中心に扱っている為、人によっては気分を害する恐れがあります。

予めご了承ください。

二つの文化の止揚と、全ての災害の犠牲者への祈りを込めて。

挿絵(By みてみん)


20XX/11/5

Hiromura Dike, Hirokawa Town, Wakayama, Japan.


Zum Augenblicke dürft’ich sagen:

Verweile doch, du bist so schön!

Es kann die Spur von meinen Erdetagen

Nicht in Aeonen untergehn. –

Im Vorgefühl von solchem hohen Glück

Genieß’ich jetzt den höchsten Augenblick.


Faust: Der Tragödie zweiter Teil

Fünfter Act. Großer Vorhof des Palasts.

Johann Wolfgang von Goethe



沈みゆく夕日の中、堤防から海を見渡したアクア・ディエス(Aqua・Dies)は、口ずさんでいた。

ゲーテ『ファウスト』における、ファウストの最期のセリフを。


江戸末期の1854年11月5日(西暦12月24日)、安政南海地震が発生した。

地震と共に発生した津波は、私が立っているこの場所まで猛威を振るおうとしていた。

その時、海の異常にいち早く気づいたのが、濱口梧陵だった。

彼は、人々が高台に辿り着く目印となる様に稲むらを燃やして、津波から人々を助けた。

後に、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)は、この実話を元に、『A Living God』を創作し、その中では”自然”に抗う”生き神”として描かれている。


私は彼にインスピレーションを得て、津波についてのシミュレーション研究を行っていた。

高度な計算能力が必要だったため、神戸湾に新設された量子コンピューターLを使用する手筈となった。

また、過去の地震データも不足していた為、”あなた”(コルプス)が昔訪れたこの日本の大地に足をおろしたのだった。



そして今、私は梧陵が作った広村堤防に立っている。

『A Living God』では描かれていないが、梧陵の真の活躍は稲むらの火以降だろう。津波で壊滅した村の復興の為、彼は公共事業としてこの広村堤防を建造した。

学問、恋愛、権力のいずれにも満足しなかったファウストが、最期に人々と共に堤防を築こうとした事を思い出す。彼は、日本のファウストと呼ぶべきかもしれない。


堤防に来る前に寄った梧陵の功績を伝える稲むらの火資料館には、ナイアガラの滝を背景にした晩年の梧陵の絵が飾られていた。その姿は、老いてなお盛んで、滝に映る虹を見て意気を取り戻したファウストの様だった。

私は資料館を出ると堤防に向かい、ファウストと梧陵を重ね合わせて、”今は”穏やかな海を眺めてファウストの最期の台詞を何度も口ずさんでいた。



***


浪松希為津ナミマツ・キイツは、両手に荷物を抱えながら、稲むらの火資料館を出た。

自分はアクアを探していた。

アクアに資料館を一通り案内した後、言われた通り、全ての資料を二部ずつ購入している間に、どこかに消えてしまったのだった。

「はあ、アクアはどこに行ったんや? 人に重い荷物持たして…」

数日前から、アクアの通訳、日本語の文献調査、現地ガイドを兼ねた存在として、自分は行動を共にしていたが、アクアの行動に振り回されることが多く、思わずため息を漏らしていた。

「やっぱり、科学者とは相性悪いんかな…」

そんな思いに囚われかけたが、手にした本の重みがそれを振り払った。


自分は、手に持った森鴎外訳の『ファウスト』を見つめていた。

それは、資料館でアクアが落とし忘れたものだった。科学者であるアクアは科学にしか興味がなく、文学は嫌いだと思い込んでいたので、こんな名作を持っている事は少し意外だった。

『ファウスト』を読んだ事があるなら、同じゲーテの『色彩論』も読んだ事があるのだろうか?

自分の好きなワーズワースやジョン・キーツの詩について語りあう機会があるだろうか?

そんな疑問が湧きだして、少しだけアクアに期待している自分がいた。


それにしても、アクアはどこに行ったのだろう?

アクアが興味を持っていた稲むらの火に関係ある広八幡神社も濱口御陵の墓も既に行っていたので、アクアが戻ったとは考えにくい。

となると、まだ行っていない所は、御陵が築いた広村堤防だ。



堤防に辿り着いたキイツは、アクアを探して辺りを見回し、潮風になびく松林を見た。冬が近づいていても、変わらない青葉を巡らせている。

ここの松は自分と違って役に立てたのだと、そんな惨めな思いに捉われかけた。

その時、誰かが朗読する声が聞こえたので自分はそちらに向かった。



***


アクアが、ファウストの最期のセリフを数回繰り返し終えると、背後から拍手が聞こえた。

アクアが驚いて後ろを振り返ると、キイツが感動した顔で手を叩いていた。

「Die Uhr steht still(時は止まった)針は落ちた...」

キイツはそこで一旦言葉を切り、アクアに本を差し出しながら笑った。

「それから、これも落としたで!」

アクアは驚きの余り言葉も出ずに、キイツの顔を見つめていた。

”あなた”と同じ黒い瞳で笑っているキイツがいたから。

キイツが差し出したのは、濱口梧陵に捧げるために買った森鴎外訳の『ファウスト』第二部だった。

アクアは、少し恥ずかしくなって本を受け取らず、代わりにキイツに提案した。

「ファウストが堤防の完成を夢見て死ぬ時の台詞を聞かせてくれませんか? 日本語の言い回しが難しくて読めないので」

「終盤の有名な場面やな。森鴎外が訳したのはもう百年以上前やからな。日本人でもすらすら読めない人が多いんや。確か、この辺りのはずや…」

キイツは嬉しそうに頷くと、該当するページを探して朗読を始めた。



Im Innern hier ein paradiesisch Land,

よしや外では海の潮が、岸の縁まで騒ぎ立っても

Da rase draußen Fluth bis auf zum Rand,

ここの中は天国のような土地になっている。

Und wie sie nascht gewaltsam einzuschießen,

海の潮が無理に土を抱き込もうとしては、意地きたなく岸をんでも

Gemeindrang eilt die Lücke zu verschließen.

衆人力を一つにして、急いでその穴を填めに往く。


Ja! diesem Sinne bin ich ganz ergeben,

好い。己の服膺(ふくよう)しているのは

Das ist der Weisheit letzter Schluß:

人智の最上の断案で、それはこうだ。

Nur der verdient sich Freiheit wie das Leben,

凡そ生活でも、自由でも、日々これを()ち得て

Der täglich sie erobern muß.

始てこれを享有する権利を生ずる。


Und so verbringt, umrungen von Gefahr,

だからここでは、子供も大人も年寄も

Hier Kindheit, Mann und Greis sein tüchtig Jahr.

そう云う危険に取り巻かれて、まめやかな年を送るのだ。

Solch ein Gewimmel möcht’ ich sehn,

己はそう云う群を目の前に見て、

Auf freiem Grund mit freiem Volke stehn.

自由な民と共に、自由な土地の上に住みたい。


Zum Augenblicke dürft’ ich sagen:

己は「刹那」に向って、

Verweile doch, du bist so schön!

「止まれ、お前はいかにも美しいから」と呼びたい。

Es kann die Spur von meinen Erdetagen

己のこの世に残す痕は

Nicht in Aeonen untergehn. –

こうても滅びはすまい。

Im Vorgefühl von solchem hohen Glück

そう云う大きい幸福を予想して、

Genieß’ ich jetzt den höchsten Augenblick.

今己は最高の刹那を味うのだ。



Faust: Der Tragödie zweiter Teil

ファウスト:悲壮戯曲の第二部

Fünfter Act. Großer Vorhof des Palasts.

第五幕 宮城内の大いなる中庭

Johann Wolfgang von Goethe

ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ

森鴎外訳



キイツの朗読が終わると、アクアは海を眺めながら尋ねた。

「この広村堤防を造った濱口梧陵とファウストは似ていると思いませんか?」

キイツは予想外の質問に驚いたが、少し考えてから答えた。

「…確かに言われれば似てるな。でも、ファウストと違うて、梧陵は実在の人物だし、彼の方がもっと立派やで。生きている間にちゃんと堤防も完成するしな」

「ええ。私も同じ意見です」

アクアは、キイツに笑顔を見せた。

今なら、あの事を言ってもいいのかもしれないと思った。


一方、アクアの青い瞳にキイツは吸い込まれそうになっていた。”君”(クリス)と同じ流されそうな水の色に染まっていたから。

そういえば、アクアの純粋な笑顔を見るのは初めてかもしれないとキイツは思った。

「そういや、この本に書いてあった数式は何なん?」

キイツは、アクアに『ファウスト』の表紙を見せた。


∂u/∂t + (u・∇)u = -(1/ρ)∇p + νΔu + f


「これはナビエ・ストークス方程式です」

アクアは即答したが、キイツはポカンとした顔をしていた。

文系のキイツに対して、流体力学の基礎方程式を知っているかと聞くのは酷な話だ。

そう思ったアクアは譲歩して、物理の基本から尋ねる事にした。

「…簡単に言えば、流体における運動方程式の様なものです。…物理学の運動方程式位は知っているでしょう? 」

キイツは気まずい表情をして答えた。

「…ああ、高校の物理は履修してへんのや。小中でも理科は苦手やし、数学も苦手で、四則演算くらいはできるけど、二次方程式とか三角関数になるとさっぱり分からへん…」

アクアは呆れて、更に敷居を下げた。

「そうですか…。では、ニュートンは知っていますか?」

その名前を聞いて、キイツの頭に思い浮かんだのは、ニュートンの『光学』を否定したある詩の一節だった。

「アイザック・ニュートン。…虹の破壊者…」

その瞬間、アクアは、キイツを堤防から突き落として溺死(Aquis submersus)させようとする嵐(Storm)の様な衝動(Drang)に駆られた。


その衝動を抑え、高笑いをあげた。突然の行動にキイツは、驚いて声も出なかった。

「ええ、そうですね。ジョン・キーツが言った様に、ニュートンは虹を破壊した科学者です。そして、私も、Unweaver of Rainbow(虹の破壊者) です!」

アクアはキイツを睨みつけた。その背後の波しぶきに夕日が当たり、一瞬だけ虹ができた。その虹を切り裂くようにアクアはキーツの『レイミア』の一節を冷たく言い放った。



For Cold philosophy,

冷たい科学の為に、

I will clip an Angel’s wings,

私は、神秘という天使の翼をむしり

Conquer all mysteries by rule and line,

あらゆる神秘を、法則と線とで支配し

Empty the haunted air, and gnomed mine—-

霊の漂う空と精霊の住む地を虚ろにし

Unweave a rainbow!

虹を分解する!



そして、アクアはキイツの手から『ファウスト』を奪い、広八幡神社の方へとむかった。

「虹の美しさなんて、不要ですから…」

そう小さくつぶやいて、アクアは闇に消えていった。



***


「Unweaved a rainbow, as it erewhile made

虹は分解された。かつて

The tender-person’d Lamia melt into a shade.

儚いレイミアを影へと溶かした様に

一人呆然と取り残されたキイツがつぶやいたとき、波しぶきを浴びた松から水滴が零れて虹色に輝いた。

「アクアも、冷酷な科学者なんか…」

ふと下を見ると、小さな紙片が落ちていた。アクアの『ファウスト』から落ちたものだろう。

それを拾い上げたキイツは驚いた。アクアに言わなければいけない事がある。

「もう二度と、水に流させはせんで」

そう決意したキイツはアクアの跡を追いかけた。



***


それから少し後、アクアは濱口梧陵の墓に、『ファウスト』を捧げていた。

背後には、無数の松明の炎が上がっている。濱口梧陵の勇姿を讃えた、稲むらの火祭りの行列の炎。

その炎よりも熱い憎悪の炎を目に宿らせて、アクアは誓いを新たにしていた。




Machen vertrag! Laplacescher Damon!

契約せよ! ラプラスの魔よ!

Gib mir wissen von kontrolle fur die Natur im austausch fur meine seele.

魂と引き換えに”自然”を従える知識を


モーツァルト『夜の女王のアリア』の調べに乗せて、アクアは歌う。



Der Hölle Rache kocht in meinem Herzen,

地獄の復讐がわが心に煮え繰りかえる

Tod und Verzweiflung flammet um mich her!

死と絶望がわが身を焼き尽くす!

F[u~]hlt nicht durch dich der Natur Todesschmerzen,

お前が"自然"に死の苦しみを与えないならば、

So bist du meine Genosse nimmermehr.

お前はもはや私の仲間ではない。


Verstossen sei auf ewig,

突き放されるのだ、永遠に

Verlassen sei auf ewig,

捨てられるのだ、永遠に

Zertrümmert sei'n auf ewig

壊れるのだ、永遠に

Alle Bande der Mensch.

人間のすべての絆が


Wenn nicht durch dich der Natur wird erblassen!

もしも自然が蒼白にならないなら!

Hört, Rachegötter, hört der Menschen Schwur!

聞け、復讐の神々よ 聞け 人々の呪いを!


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