蜘蛛の糸 考察
芥川龍之介先生が書かれた「蜘蛛の糸」に関する私見の考察です。
堅苦しい文章です。ご容赦下さい。
私は仏教徒ではないので不備も多くあるかと思います。重ねてご容赦下さい。
「蜘蛛の糸」の考察です。
このような話は時代を超えて形を変えて作られているようですが、中々解り辛い話のようです。特に大乗仏教の視点からすると、釈迦が何故一気にカンダタを引き上げなかったのかと言う疑問も出てきます。
ここでは私なりにこの物語の解釈をしたいと思います。
まず、何にも於いて大切なのは、何故カンダタが地獄に落ちたかと言うことです。
彼は人を人とも思わず、殺し、傷つけ、盗みを働いていました。自分を満足させるために、周りから奪うことを当然としていました。言うなれば、生前から彼はそのような世界に住んでいたのです。
当然、自分で生み出すとか、与えるとか、哀れむとか言う気持ちは心に浮かばず、そう言う世界になじみがなく、結果的に、心は殺伐とし、生かし合うという人たちが享受できる心の平安を得ることは彼には出来くなりました。
それこそが地獄であり、自分の心の状態がそのまま地獄を表し、この物語では、死しても尚その地獄に閉じ込められなくてはならなかったのかも知れません。
彼は生かし合うことを拒否したため、地獄でも殺し奪い合う環境に遇し、周りの亡者たちも程度の差はあれ同じような心の持ち主で、うんざりとします。
そのような人物に、どういう言葉を掛けられるのでしょうか。盗みはだめだ、殺しはだめだ、生かし合う方がもっと心安らかになれる、と言って素直に聞くでしょうか。おそらく、聞く耳を持たないでしょう。そして、そのまま、ずっと殺戮強奪の心、言葉を換えれば、殺戮強奪の世界に住み続けることになるのかもしれません。
自業自得とは言え、人である以上、何とか全ての生き物を、殺戮強奪の地獄のような心の状態から、生かし合うような平安な心の状態にして、その結果手に入る平和を享受させてあげたいと思うのが、菩薩や仏というものかもしれません。
そこで、先達たちはあの手この手を使って、その心を呼び起こそうとするのかもしれません。それが仏教で言うところの「仏性」、そして呼び起こすための手段であるところの「方便」と私は考えています。
この話では、釈迦は、かなり悪に染まり、普通に説いても聞く耳を持たず、その本質を呼び起こす手がかりがほとんどないような悪人に対して、
「カンダタ、慈悲、哀れむ心は素晴らしいよ、君も以前はほんの一時だけどそれを感じたことがあっただろ。それは、こんな殺伐とした心に比べたら素晴らしくはなかったか。」
と彼が蜘蛛を哀れんだ時の話をします。
それは、殺伐とした彼の心に、文字通り蜘蛛の糸のように、わずかに届いたのでしょう。
そして、わずかな彼の目覚めた善性ですが、なるほど、この哀れみの心というのも悪くないと、そちらの方向へ意識を向けたのかもしれません。これを蜘蛛の糸を昇るという比喩で表現されているのだとも見ることが出来るのではないでしょうか。
そして、すぐにも消えてしまいそうな自分の善性に従って、闇から光の方へ這い上がって行こうとします。
しかし、カンダタの善性を通して釈迦の言葉を聞き、その哀れみの徳行を真似て、その恩恵に浴しようと、他の亡者も光の方へ行きたいと彼の元に集いました。勿論、自分でしたことの償いは、カンダタを初め、他の亡者も自分で負わなくては公平でありませんが、そこであろうことかカンダタは自分だけがを助かる為に、釈迦の言葉を私物化し、他の亡者を蹴り落とし始めまてしまいました。
これは、皮肉にも、折角喚起された慈悲の心、他者を哀れむという心を、自分で閉ざしてしまう行為に他ならなかったのではないでしょうか。
要するに、それは、釈迦の言葉が彼の心には届かなくなったことを意味し、比喩としては蜘蛛の糸が切れてしまったと言うように表現されたとも考えられます。
つまりは、自分で、慈悲の心を閉ざし、先達からの言葉に耳を塞ぎ、換言すれば蜘蛛の糸を自分で断ち切ってしまい、地獄のような殺伐とした心の状態に戻ってしまった、即ち、地獄に戻ってしまったとも言い換える事が出来るのではないでしょうか。
結論として、この物語は、主人公は自分でしてきたことで地獄に落ち、苦しんでいたが、そこから抜け出す手がかりがあった。しかし、それを、自分で断ち切ってしまった。それに対して釈迦とは雖も、彼がもうしばらく地獄にいるのを眺めることしか出来なかった、という話ではないかと私は考察します。
ただし、私自身後半部分には納得できないものもあります。それは、悟りは個人的なものであり、その恩恵に他者が浴する事を強要されることは、その性質上矛盾をはらむと言うことです。今後の考察課題にしたいと思います。
私見ですので何卒御寛恕お願い致します。