夏氷
時は七月。梅雨も過ぎて気候が本格的に夏へと向かっている、とニュースでやっていた。
だが僕は今、そのニュースを報道していた人間へと叫びたい。
夏へと向かっているではない、今こそ本格な夏だ。もう滅茶苦茶夏だ、と。
今年は異常気象やらなんやらで特に温度が高い……気がする。
高校の夏服であるカッターシャツはもう汗で肌に張り付いていて、今すぐ脱ぎ捨てて海に飛び込みたい衝動に駆られるが……何とか我慢。
まあ、こんなに暑い暑いと言っておいてなんだが、この街はまだマシかもしれない。海がすぐそこで、今僕の目の前にも砂浜が広がっている。直射日光に海から涼しい潮風。これはもう気持ちいいとしか言いようが無いだろう。僕はもう当たり前だと思ってるから、ただひたすら暑いとしか言えないが。
「暑い……かき氷食べたい……」
そんな事を言いながら、いつもの行きつけの喫茶店へ。
どのくらい行きつけかと言うと、僕が物心つく頃には既に通っていて、昔はタダでココアとシュークリームを食べていた。経営しているのは二人の老夫婦。マスターが爺ちゃんで奥で料理を担当しているのが婆ちゃん。得に婆ちゃんお手製のシュークリームは、この辺りの学生に絶大な人気を誇っている。僕もそのシュークリームの虜になった一人なのだが。
「……? かき氷……始めました?」
喫茶店の入り口扉に見慣れない張り紙が。
なんだ、この冷やし中華始めました的な主張は。いや、しかしかき氷……滅茶苦茶食べたい。
僕はごく、と喉を鳴らしつつ喫茶店の扉を開け入店する。カラン、というカウベルの心地いい音が店内に響くと、カウンターで暇そうに煙草を吸っている爺ちゃんが僕の方へ顔を向けてくる。
「おかえり、美影」
まるで我が家に帰ってきたかのような感覚。
ちなみに爺ちゃん爺ちゃん言っているが、僕の本当の祖父ではない。本当の祖父は既に他界していて、この爺ちゃんは僕の祖父と大の親友だったりする。
「ただいま、爺ちゃん」
店内は既にクーラーが効いていて気持ちい。
僕は吸い寄せられるように爺ちゃんの正面、カウンターへと座り……いつも通り、まずはココアとシュークリームを爺ちゃんへと注文した。
※
「爺ちゃん、かき氷始めたの?」
ココアを飲みつつ、爺ちゃんへと表の張り紙について尋ねる僕。爺ちゃんはグラスを布巾で磨きながら、僕の汗でシットリしたカッターシャツを見つめてくる。
「あぁ、もう暑いからな……試しに食ってみるか?」
「え、タダ?」
「毒味だ毒味」
かき氷の毒味って何だ……と思っていると、爺ちゃんはカウンターの隅に設置されたかき氷機の前へと。何やらすさまじく年代物の奴だ。かなりゴッツイ。昭和という時代を感じさせる。
「爺ちゃん、それ……大丈夫? 衛生的に……」
「ちゃんと洗ったぞ、婆さんが。しっかし……氷が重くて敵わん」
よっこらせ、とブロック型の氷を設置する爺ちゃん。え、デカくない? まさかそれ全部削ったかき氷を僕に食わせる気?
爺ちゃんは氷を設置し、器を下に。そしてそのままかき氷機のスイッチをON。すると思ったより静かな音でかき氷機は起動を開始した。フワフワの氷が器へと満たされていく。
「美影、何味がいい? みぞれにイチゴにメロンに……レモン」
「え、じゃあ……レモンで」
「イチゴだな。了解した」
いやいやいやいや! 爺ちゃん耳遠くなった?! 僕今レモンって言ったんだけど!
「失礼な奴め。俺はまだ六十代だぞ。確かに今レモンと聞こえたが、美影はイチゴを食うべきだ。分かるだろ?」
「ごめん、一ミリも分からないんだけど……何故?」
爺ちゃんはかき氷をかなり山盛りにし、真っ赤なイチゴのシロップを掛けていく。
あぁ、僕レモンって言ったのに。まあ、別にいいんだけども。
「実は知り合いのイチゴ農家の息子が最近結婚してな。しかも相手はかなり美人の外人らしい。まあ、それで……幸せのお裾分けと、大量のイチゴを送りつけられてな……」
「……ふーん。え? じゃあもしかして……このシロップって婆ちゃんの手作り?」
「あぁ。他のは店から買ってきた奴だが、イチゴだけお手製なんだ。それで一度試してもらいたくてな」
それならそうと言ってくれればいいのに。
僕の前へと置かれた山盛りのかき氷。真っ赤なイチゴのシロップの甘い香りが鼻をくすぐる。
ちなみに、あのブロック型の氷は全く小さくなっていない。あれ勿体ないな……でも全部食べるなんて無理な話だし……。
「爺ちゃん、あの氷どうするの?」
「ん? 別にどうもせんが……」
もう僕が一回食べただけで、余った氷は溶かしてしまうのか。
なんか氷に申し訳ない。まあ元は水なんだからそこまで思う事もないかもしれないが、なんとなく僕の心を氷が締め付けて……いや、氷漬けにしてくる。
「ほら、美影、食べてみてくれ。不味かったら不味いってちゃんと言えよ」
「ぁ、うん……」
スプーンでシロップがタップリ掛けられた部分をすくい、そっと一口。
冷たい氷が口の中で溶け、同時にイチゴシロップの味が広が……って……
「……な、なにこれ……滅茶苦茶美味しい! 婆ちゃん天才過ぎる!」
そのイチゴのシロップは甘いのだが、甘さの種類が市販されているシロップは全く違う。
まるで甘いイチゴを食べた時の……かといって甘すぎず、さっぱりとした味わいが口の中に広がっていく。
「凄い美味しいし、甘すぎないから食べやすいし……爺ちゃん、これ最高!」
「おお、そうかそうか。甘党の美影が言うなら間違いないな。おかわりあるぞ」
ぁ、いや……かき氷食いすぎるとお腹壊すから一杯で十分です……。
そういいつつ、僕はかき氷機に余った氷が……少し可哀想で……
なんとなく申し訳ない気持ちになりつつ、キーンと頭が痛くなった。
※
翌日の放課後。図書委員である僕は、この学校の凄まじくデカイ図書館で本の整理をいていた。そんな僕の頭の中にはかき氷が一杯に広がっている。
イチゴ味……美味しかったな。でも食べるのが僕だけだったら……また氷余らせてしまう。それは少し申し訳ない。他に誰か一緒に食べてくれる人が居ればいいのだが……。
「椎名君」
かき氷の事を考えている僕へと、後ろから声を掛けてくる人物が。振り返るとそこには、この学校で隠れ美少女と言われている漆原さん。ちなみに同じクラスでもある。
「ぁ、うん、何?」
「……えっと……その……」
漆原さんはモジモジと太ももを擦り合わせながら、言葉を濁らせている。
僕の視線はそんな漆原さんのミニスカートに……行こうとしてるのを必死に耐えつつ、顔を見ながら会話をしようと試みる。
「……? どうしたの? 何か本探してるの?」
「え? ぁ、いや……えーっと……」
なんだ、このハッキリしない態度は。
段々イラっと……
「椎名君って……好きな人居る?」
「……え?」
待て、待て待て待て待て! 何故そんな事を聞く!
まさか漆原さん僕の事を好きとか……いやいや待て落ち着け、漆原さんは校内でもかなり人気が高い隠れ美少女なんだ。何故わざわざ「隠れ」と付けるのかは分からないが、密かに想いを寄せる男子も少なくは無いし……。
考えろ、考えろ!
そんな彼女が僕に好きな人を尋ねてくる理由を!
「……考えてるって事は居るの?」
「え、えーっと……ど、どうだろう……」
ちなみにだが、僕は前に好きな人は居た。
でもその人は既に彼氏持ち、しかもその彼氏は僕の兄のような存在の先輩。
その兄のような先輩と僕は殴り合いの喧嘩をして……詳細が気になる方は、同作家の『僕の初恋』を参照してほしい。これは宣伝ではない。
「あ、あのね? もし、もしだよ……? 椎名君に好きな人が居ないなら……少し……私に付き合って欲しいなって……」
「え? えぇぇぇぇ!」
つ、付き合うって……なんかナチュラルに告白してきたんだけど! この子!
いやいや、待て待て、付き合うってアレだろ。どうせ買い物に付き合ってくれとかそういうの……そうだ、そっちの『付き合う』だ。当たり前だ。何を一人で浮かれてるんだ、僕は。
「う、うん。構わないけど……何に付き合えばいいの?」
「いいの?! やった……私、ずっと昔から美影君……椎名君の事、気になってて……」
き、気になって?!
いやいやいやいやいや! 違う! 恋愛対象としてじゃない! そんなわけない! 浮かれるな、僕!
「じゃあ……その……早速お願いしていい?」
「え、何を……」
※
人生というのは残酷だ。
神は人に希望という餌を見せておびき寄せ、絶望という谷に落とす事を趣味にしているに違いない。
僕は今、そんな事を考えながら……図書館の隅で……女装している。
「椎名君……もうちょっと肩の力抜いて……」
「ハイ……」
まるで死んだ魚のような目で、指示通りのポーズを取る僕。
僕は今……白いワンピースに身を包み、女装して漆原さんの絵画のモデルにされていた。
そうか……漆原さんって美術部だったんだな……とか思いつつ、窓辺に立って外を無表情で見つめるポーズを維持する僕。
「んー……椎名君、もっと……絶望感だしてくれない?」
あぁ、お安い御用だ。まさに僕は今絶望……とまでは行かないが、それなりに落胆してるんだから。
はぁ……まさか漆原さんに……男を女装させて絵を描く願望があったとは……。ちなみに好きな人が居るかどうかを聞いてきたのは、僕にそんな人が居ると……とてもじゃないが女装なんて頼めないから……という理由らしい。いや、そうでなくても普通は頼まないと思うんだが。
「……いいよいいよ……それキープして!」
窓辺の壁にもたれつつ、まるで失恋して絶望した少女になりきる僕。
おそらく窓の外には、僕を捨てた男が歩いているんだろう。許せない……こんなに頑張っている僕を捨てるなんて!
それから小一時間モデルを続け、ようやく解放された僕は速攻で着替える。白いワンピースは既に僕の汗でシットリしてしまった。どうしよう、これこのまま彼女に返すのか? 洗って返した方が……いやいや、モデルを頼まれたのは僕の方なんだ。そんな気の使い方はお門違い……
「ありがとう椎名君」
言いながら手を差し出してくる漆原さん。僕はそっとワンピースを手渡すと、漆原さんは顔色一つ変えずに……むしろ嬉しそうに汗ばんだワンピースを抱きしめる。
うわっ、ちょ……なんかクセになりそう……
「はぁ……椎名君って前から女装したら可愛いだろうなぁって思ってたんだ……絵が完成したら椎名君にあげるね」
「う、うん……ありがとう……」
窓の外、西の空がだんだんと茜色に染まってくる。
そろそろ帰るか……。
「ねえ、椎名君……お礼したいんだけど……何がいい?」
「お礼……? う、うーん……」
何がいいと言われても……ぁ、そうだ。
「じゃあ、ちょっとこれから喫茶店行かない? 僕の行きつけで……」
ってー! 何言ってんだ僕!
これ超ナンパじゃない?! ものすごくナンパじゃない?! 言い訳が出来ないくらいナンパ……
「うん、いいよ」
軽っ! 軽い! 漆原さん即答でOKしてきた……なんか凄い罪悪感が。
まあでも言い出してしまったからには連れて行かねば。
「どこの喫茶店?」
「あぁ、えっと……渚っていう……」
「……え?」
※
漆原さんと共にいつもの喫茶店へ。
店内へとカウベルを鳴らしながら入ると、相変わらず人が居ない。この喫茶店は経営とか大丈夫なんだろうか。
「おう、美影、おかえり……って……今日は彼女も一緒か」
「ちょ! 爺ちゃん! そんな言い方失礼! 友達、友達だから!」
そういいながら僕はカウンターへと座ると、漆原さんも恐る恐る……って、なんかビビってる? 爺ちゃんから必死に顔を背けるかのように……
「さて、注文は? ん……? 君は……確か前に会った事があったな」
爺ちゃんは僕達に注文を聞きつつ、そんな事を言い出した。漆原さんは怯える子猫のように……爺ちゃんと目を合わせ小さく頷く。
「爺ちゃん、漆原さんの事知ってるの?」
「あぁ。去年の秋にブラブラ散歩してる時にな。少し老いぼれの思い出話に付き合ってもらったんだ」
会話をしつつ、僕はココアとシュークリームを注文。
漆原さんはホットコーヒーのみ。ダイエットでもしているのだろうか。ここのシュークリーム美味しいのに。
「ぁ、あの……善一郎しゃん!」
思い切り噛みながら、突然漆原さんが爺ちゃんの名前を叫び出した。
なんだ、どうした。爺ちゃんもビックリして怯えてるし。
「は、はい、なんでしょうか、お嬢さん……」
「す、す、好きです!」
シーン……と静まる店内。
僕は開いた口が塞がらず、爺ちゃんも何事かと目を丸くし、恐らく奥で料理を担当している婆ちゃんにも聞こえてしまっているだろう。
女子高生に告白される老人。
まあ……最近歳の差カップル流行ってるし……
「え、えっと……お嬢さん……名前は? なんだったかな?」
「う、漆原です! 漆原楓と申します!」
まるで新入生の挨拶のように頭を下げながら自己紹介する漆原さん。
爺ちゃんは未だにハトが豆鉄砲を食らったような顔をしているが、なんとか咳払いをしつつ冷静に……漆原さんへと告白の返事を返す。
「えー……楓さん、お気持ちは大変嬉しい事この上無いのですが……」
いや、ちょっとまって爺ちゃん。それちょっと告白の返答では無くない?
なんか上司からの飲み会の誘いを断る部下みたいな断り方になってない?
「私はこう見えて……妻も居りまして……この歳で不倫というのも中々勇気がいると言うか……」
あぁ、爺ちゃん大混乱してるわ。
きっと奥の部屋で聴き耳を立てている婆ちゃんは、お腹を抱えて爆笑するのを堪えているだろう。
「えー、その……楓さんはもっとお若い方にそのお気持ちを……」
チラッチラ僕の方へと目線を向けて助けを求めてくる爺ちゃん。
いや、僕にどうしろと言うのだ、この状況で。
「あ、あの……じゃあせめて……お友達になってください!」
いきなり自分の携帯を出して爺ちゃんに差し出してくる漆原さん。
あぁ、携帯の番号を交換しろという事か。
爺ちゃんも困り果てた顔をしつつ、それくらいなら……と携帯を出し番号を交換。
なんだろう、この光景。僕凄い寂しい。
「あ、ありがとうございます! 大切にします!」
「あ、あぁ……」
漆原さんはまるで、花畑で柴犬の子犬に囲まれながら寝転がるかのような……至福の笑顔。
それに対して爺ちゃんは、目の前に闇のパズルが出現したかのような困惑の表情。
「……ぁー、ありがとう……椎名君……やっと言えたよ……」
すると、漆原さんはいきなり涙を流しながら携帯を抱きしめていた。
なんだ、何が起こったんだ。もしかして……失恋したから……?
そこまで……本気で爺ちゃんの事を……?
「あの、漆原さん……シュークリーム……好き?」
僕はそっと、自分が注文したシュークリームを漆原さんの前へと。
漆原さんは頷きながら携帯を仕舞い、ゆっくりシュークリームを手に取り……口へと運ぶ。
「……美味しい……」
僕へと涙を流しながら満面の笑みで……そう答える彼女。
その時、僕の中で何かが震える。なんだろう、この気持ち……同情? 僕も……前に失恋したから?
「美影、ほら」
すると爺ちゃんは僕にもう一つシュークリームを持ってきてくれる。
僕は爺ちゃんにお礼を言いつつ、漆原さんと一緒に婆ちゃんお手製のシュークリームを頬張った。
「……ん? 爺ちゃん、クリームの中にイチゴが入ってる……」
「あぁ。余りまくってるからな。なんだったら持って帰るか? イチゴ。楓さんも……どうかね」
漆原さんはシュークリームをいったん置いて、涙を制服の袖でグシグシ拭く。
そして再び満面の笑みで、爺ちゃんへと「是非っ」と答えた。
ぁ、そうだ。イチゴと言えば……。
「爺ちゃん、かき氷また作ってよ。僕と漆原さんの分」
「ん? あ、あぁ。そうだな」
僕は漆原さんへと、ここのかき氷の事を説明する。
イチゴのシロップは婆ちゃんの手作りで、しかもかなり美味しいと。
「シロップも手作りなんだ……このシュークリームも?」
「うん、全部婆ちゃんの手作りだよ」
「そうなんだ……私の恋敵の……手作り……」
いやいやいやいやいや!
ちょっと待って! 落ち着いて!
「冗談だよ。うん、凄く美味しい……椎名君は結構ここ来るの?」
「う、うん。まあほぼ毎日……」
「そうなんだ……私も通っていいかな」
まあ、漆原さんが良ければ……と僕は答える。
漆原さんは再び僕に笑顔を向けてくれて、そのまま何か気づいたように、そっと僕の頬へと手を伸ばしてくる。
「クリーム、ついてた」
「ぁ、え? う、うん」
そのまま漆原さんは、そのクリームを自分で舐めとり……って、やばい。
今のはヤバい……色々な意味でヤバイ……なんか知らんけど……すごいドキドキする。
「はい、おまちどうさま」
そこに爺ちゃんがかき氷を二つ、僕らの前へ。
シロップは勿論イチゴ味。
相変わらず、かき氷機の氷は残っているけど……昨日よりは消費されている。
そっと漆原さんとかき氷を食べ、夏の風物詩ともいえる頭の痛みを感じる。
美味しい冷たいかき氷。
漆原さんと一緒に食べたかき氷は……昨日とはまた違った味がした。