プロローグ
だんだんと寒さは遠くなり、気づけば厚着をしなくても過ごせる気候となっている。
俺は季節感に黄昏ると、家の門扉を開けて学校に向かう。
「あら奏枝ちゃん、おはよう」
「おはようございます」
近所のおばちゃんに笑顔で挨拶を交わす。
おばちゃんは今から犬の散歩に行くらしく手にはリードを握っていた。
「犬の散歩ですか?」
「そうなの。この子ったら私は寝ときたいのに朝早くから起こすものだから……ほんっと困っちゃうわ〜」
おばちゃんはそう文句を垂れながらも嬉しそうだった。ミニチュアダックスフンドの犬もしっぽを必死に振りながらおばちゃんを見ている。……名前はたしか、太郎だったか。
「ほんと一人でちゃんと学校に行って偉いわね〜。何かあったらすぐおばちゃんたちに言いなさいよ」
「はい、ありがとうございます」
俺は笑顔でお辞儀をする。
人懐っこいおばちゃんの犬は相変わらず俺には警戒心剥き出しでこちらを見ていた。
「じゃあな、太郎」
しばらくおばちゃんと世間話を済ませ、俺は学校に向かった。
橘高校に入学してあっという間に三ヶ月が経とうとしていた。橘高校は橘中学の生徒がそのままエスカレーター式で入学できる私立高校。おかげで一般的な受験は受けずに済み、小テスト染みた入学試験という程だけで春を迎えられた。
三ヶ月も経てば、皆それぞれ気が合う友達を見つけ、いわゆる“グループ”が出来上がる頃だった。初めは新鮮だった通学路もそろそろ何も感じなくなってくる。慣れというのは恐ろしいものだ。気づかないうちに当たり前になっていることに気づかなくなる。けれど、それで何か損をするのなら改めればいいし、そうでないなら別にそれでいい。
西園寺奏枝こと俺は、通学路一つでそこまで考えられるほどに頭は冴えていた。
やがて二十分ほどかかる通学路を歩き終え、靴箱で中履きに履き替える。
「西園寺くん、おはよ!」
「おはよ! 今日もいい天気だね」
すれ違った二人組の男子と笑顔で挨拶を交わす。
「奏枝くん、おはよー!」
「やっほー」
「お、おはよー」
「おはよ!」
続けて三人組の女子ともまたまた笑顔で挨拶を交わした。
「(今日も西園寺君と挨拶できたっ!)」
「(これで一日頑張れるね!)」
すれ違ったとき、そんな会話が聞こえた。
西園寺奏枝は校内では少なからず有名らしい、と同級生から聞いたことがある。有名かどうかはさておいても、たしかに男女問わず話しかけ話しかけられる関係は多いほうだと思うし、そうなるように努めてきた。……俺自身の行動と内心のギャップは置いておいて。
俺には普段の生活で気をつけていることが三つある。
一つ目は、男女平等に分け隔てなく接すること。これはそのままの意味で、偏ったふるまいというのは誰かしらに必ず見られているもので、それを良く思わない人が必ず存在する。そしてその人物は自分にとっての障害になりかねない。つまり、俺の生活において障害になりえる要因はできるだけ避けておく必要があるのだ。
二つ目は特に女子には悪い印象を与えないように接すること。一つ目と矛盾するように聞こえるかもしれないけど、これは男子よりも女子を敵に回したときのリスクの高さから考慮した立ち振る舞いになる。というのも、女子同士の情報網というのは未知数で、根の葉もない噂がすぐに根も葉もある噂になりえる可能性があるからだ。ちなみに中学でボス級の女子を敵にまわしてしまったがために不登校に追いやられた男子生徒がいた。俺はその生徒にたいして同情なんかよりも「あんな風にはなりたくない」という思いのほうが強かったことを覚えている。実に腹黒い考えだけど、人柱とはどこにでも必要なのである。
そして三つ目は、絶対に秘密を知られないこと。でも、これは普段の生活じゃばれることなんて早々ないのであまり心配はしていない。
つまりまとめると、俺は誰とでも仲良くやれる方法を知っている。
そして、俺はこの独自の立ち回り方を「腹黒い+現実主義」で『腹黒リアルティック』と密かに呼んでいる。
俺は内心そんな厨二的な自分を自嘲しながら、いつもどおりの笑顔ですれ違う生徒と挨拶を交わす。
――今日もいつもどおりだ。
俺は廊下の窓に映る自分にそう言い聞かせるようにうなづいた。
▲▲▲
俺のクラスである一年四組に向かうためには、当然他のクラスの前を通ることになる。ちなみにここ橘高校の一年生は全四組、百六十人から成り立つ。
朝から腕相撲をしたり、紙飛行機を飛ばして騒いでいるのが一組、それとは対照的に勉強している生徒が目立つ二組、一組とニ組の雰囲気を足して二で割ったような三組の前を通り、俺は四組の教室のドアを開けた。
「おはよー、西園寺くん!」
「おはよ! 奏枝!」
みんなの挨拶が一斉に聞こえた。ちなみにこれは俺が来たからではない。
俺は「おはよ」とこれまた笑顔で返すと、グラウンド側窓側の一番後ろといういかにもラノベ主人公にありがちな自分の席に向かう。
四組は他の三クラスと比較してもクラスメイト同士の仲が良い。この仲の良さは男女問わないあれだ。けれど、本当は表面上では仲の良いフリをしていて、裏では悪口吐き放題、みたいなやつが絶対にいると俺は密かに期待……心配している。
俺はそんなクラスメイトの仲の良さを眺めながら自分の席に着くとすぐに携帯を取り出した。慣れた手つきでパスコードを解除し、周りを警戒しながら御目当てのアプリを開く。
起動してしばらく経つと“2ちゃん”(2ちゃんねる)のトップ画面に切り替わった。
俺は今、『仲良かった友達に実は影で悪口言われてたwww』というスレに夢中だった。このスレはどこかの女子高校生が立てたスレで、一見ありがちで大したことなさそうに見えるが、六年間も付き合いがあった友達に陰で悪口を言われていたことに今更気づくというところが俺的推しポイントだ。
あああ「友達と思ってたのは投稿者だけだったってことじゃね」
みやまくわがた(投稿者)「……」
うるとらまん「どんまい」
みやまくわがた(投稿者)「2ちゃんってもっと慰めてくれる場所だと思ってました」
新宿吸わん「2ちゃん舐めすぎ」
ちょうどさっき更新されたばかりのスレに目が止まった。
さいおん「甘え乙」
俺は、そう投稿してアプリを閉じる。
ーー匿名で批判書き込むのってどうしてこんなに気持ちいいんだろう。
頬が自然に緩んでいるのが分かる。そう、これは俺しか知らない俺の趣味で誰にも知られてはいけない秘密。当然趣味は趣味でも悪趣味の部類で、こんなことが万が一誰かに知られたら俺は生きていけない。それに、少なからず校内で愛想良く立ち回っている俺がまさか2ちゃんに批判コメを投稿するなんて誰も思ってもいないだろう。
そういえば、こんな悪趣味にハマったのはいつだったか。ふと携帯の画面に目を向ける。
何かを思い出そうとしたとき、椅子の音で我に返った。周りを見るとクラスメイトはほとんど揃っており、皆自分の席に着こうとしている。
俺は平凡な一日の始まりに倦怠を覚えながら携帯をそっとポケットにしまった。
▲▲▲
昼休み。
俺は四時間目の終わりを告げるチャイムが鳴ると、一目散に購買に向かった。
橘高校の購買は地元でも有名なパン屋がパンをもってきてくれるということで、それを巡っての競争率が高い。最初の頃は「所詮パンなんて……」とバカにしていた俺だが、どれを取っても美味しく、一口食べた瞬間からこの競争を逃れられない体になってしまった。
廊下は走ってはいけないが、昼休みなら仕方がない。これは競争社会なのだから。本来、休息のためにある昼休みは購買のパンを求める者にとっては一種の社会と化す。
そんな屁理屈を胸に、渡り廊下を渡って曲がろうとしたときだった――。
――っ。
人とぶつかってしまった。
――急ぎ過ぎた。
俺は起き上がり、ぶつかった相手を見る。
相手は女子生徒だった。
華奢な体に肩まで伸ばした真っ黒な髪、しゅっとした輪郭、間違いなく美人の類だった。
「ごめんなさい。つい急いでて……。立てますか?」
ぶつかった弾みで落としてしまった相手のパンを急いで拾う。そして、声をかけると同時に手を差し出した。
「...」
「本当にすみません。それじゃ」
俺はもう一度謝り、拾ったパンを女子生徒に渡した。
彼女は俺から目を逸らすと、何かを言うことも差し出した俺の手を取ることもなく、立ち上がる。
妙な罪悪感に苛まれるも横を過ぎ去る彼女を横目に俺は再び購買を目指した。
――あの子、パンもってたけどいくらなんでも早過ぎないか?
そんなことが一瞬脳裏に浮かぶも、購買に充分に並べられたパンを目にした途端にどうでもよくなったのだった。
こうしてシュークリームパンといちごジャムパン、あんぱんを購入した。
三つも買って三百円とは学生に優しい。まさに購買の名に相応しい商売だ。俺は毎日出来立てをもってきてくれるパン屋と、それを安くで販売してくれる購買に感謝しながら教室に戻った。
教室に戻り、三個の戦果をもって席に着く。
すでに昼食を食べ終わっている生徒がちらほらいる。
俺はそんな彼らをちらりと見ると、あんぱんの袋を開けた。
俺は毎日昼休みは携帯でお気に入りのスレを眺めながら昼食を食べる。今日も今日とてスレを眺めようと携帯を取り出そうとポケットに手をやった。
――ない。
携帯がない。……確か朝以来触っていない。ポケットに入れた記憶もある。
--落とした?
そう思ったのと同時に今日一日の流れを辿る。
――っ。
購買前で女子生徒とぶつかったことを思い出す。
俺は開けたあんぱんを置いて教室を飛び出した。
まだ、彼女とぶつかってからまだ時間はそんなに経っていない。
ポケットに入れていただけに普通に歩いているだけじゃ落ちるとは考えにくい。だからこそあのとき以外に考えられなかった。
購買で買ったパンをもって教室に帰る生徒たちとすれ違う。俺は女子生徒とぶつかった場所を目指した。
しかし、そこには携帯らしい物は落ちてない。
――誰かが拾ったのか?
俺はそのままの足で職員室に向かった。忘れ物として届いている可能性がある。
「一年四組の西園寺です。携帯電話の忘れ物は届いていませんでしょうか」
そう言って職員室に入ると、入り口の一番近くに座って弁当を食べている若い男性教師が答えた。
「今日は携帯どころか忘れ物自体届いてなくてね。携帯落としたのかい?」
「はい」
「そうか。んー。また放課後にでも来なさい。届いてるかもしれないからね。……あ、最近、授業中や休み時間に携帯を使う生徒が多いから、君も気をつけなさいよ」
「はい、ありがとうございます」
余計な話が長くなる前にお暇する。俺は内心とは決して考えられないであろう爽やかな笑顔で職員室を後にした。
正直、昼休みに無くして職員室に届いていないということは、放課後に届く望みは薄い。何故ならこの場所から職員室は目と鼻の先だから。
携帯が手元にないというのはこんなにも落ち着かないものだと初めて知った。いや、俺の場合は別の心配のほうが大きい……。
ひとまず冷静になろうと深呼吸。
よく考えてみれば、俺の携帯にはパスコードがかかっている。当然知られてはいけない秘密を知られることはないし、そんな携帯を誰かが私的に利用するとは考えにくいはずだった。
俺は心の中で自分にそう言い聞かせ、その場を去った。
教室に戻った俺はとりあえず整理することにした。
残る可能性としてはぶつかった女の子がもっていること。ただ、あの子がどこのクラスなのか、そもそも何年生なのかも分からない。それに彼女がもっているとすると職員室に届けずにもって帰ったということだ。腑に落ちない点はあるが、やはり携帯が返ってこないことにはどうにも落ち着かない。
俺は一旦深呼吸をして教室の時計に目をやる。昼休みの時間はもう数分で終わる。俺は今にも飛び出したい衝動を抑え、放課後女子生徒を探すことにした。
▲▲▲
放課後。
案の定職員室には忘れ物として届いておらず、俺は女子生徒を探すしかなかった。
「どうやって探すんだよ……」
ため息と一緒に言葉になる。幸いにもぶつかった女の子は印象的で、顔を見れば分かる自信はあった。
――とりあえずクラスメイトに聞いてみるか。
俺は職員室を後にすると自分の教室に向かった。
教室に戻ると三人組の女子生徒が会話に花を咲かせている。
「あ、西園寺くん。まだ帰ってなかったんだ? 居残りとか?」
「ううん、違うよ。……ちょっとね」
「ふーん」
特に興味なさげな反応。俺は構わず本題を切り出す。
「あのさ、ちょっと聞きたいんだけどいい?」
「いいよいいよー、なにー?」
「女の子なんだけど、黒髪を肩まで伸ばしてて……」
そして言葉の途中で気づく。
ーーそんな女の子たくさんいる。
「ん?」
「……ごめん、やっぱりなんでもない。ありがとう」
不思議そうに見られながらも、俺はそう言って教室を出た。
――やっぱり手がかりが無さ過ぎる。
このまま闇雲に探し回るにしても広過ぎるうえにまだ校内にいるかすらも分からない。かといって諦めて帰れるほど、俺の秘密そのものである携帯は軽い存在ではなかった。
もう学校に用がない生徒は帰り、校舎には少しの寂寥感が残っていた。
部活が始まったのか、運動部の掛け声が聞こえてくる。俺はとりあえず屋上で風に当たりながら再び状況を整理することにした。
「はぁ」
ないとは分かっていても万が一、俺の秘密が知られたらと思うと生きた心地がしなかった。
"西園寺奏枝は裏表のない誠実な人間でなければならない"
それは他の誰のためでもない。
自分自身が楽に生きるため。
「多分、あの女の子がもってると思うんだけどなー」
つい口に出る。ぶつかったときの自分を恨みたい。
そんな苛立ちが溢れそうだった。
「あの女の子って私のこと?」
静かな屋上に落ち着いた声が響く。
反射的に声がするほうを向くと、その顔立ちに覚えがあった。そしてその現実に俺は理解が遅れた。
そこには昼休みぶつかった女子生徒が立っていたから。
「あ、え、いや、その」
探していた人物が目の前にいるのと、独り言を聞かれたことへの恥ずかしさが微妙に絡み合い、なんとも複雑な焦燥感に駆られる。
「私を探してたんでしょ?」
彼女は真顔でそう言うと俺に一歩近づく。
さらに一歩近づいて取り出したのは俺の携帯だった。
「……」
この際、職員室に届けなかった理由は聞かないでおこう。こうして返ってきたのならそれでいいと、むしろ返してくれるのだから昼休みに職員室に届けなかったことは大した問題ではないはずだ。そのままこれ以上何も聞かず、ただ落とし物を拾った女子生徒Aであってほしいと強く思った。
「ありがとうございます」
俺は得意の笑顔で、彼女の手の上に乗るそれを受け取ろうとした。
「あ、あの……」
咄嗟に詰まった声が出る。彼女は俺の携帯を乗せた手を引いたのだ。
「仲良かった友達に実は影で悪口言われてた」
気のせいだろうか。どこかで聞いたことのある文脈に一瞬耳を疑う。
そんな呆然とする俺をよそに彼女は続けた。
「ど、どうしました?」
俺はなおも、今度は少し困った笑顔で誤摩化す。
「甘え乙」
その言葉を前に俺は動揺どころか身動き一つできなかった。どうして彼女はそのワードを知っているのか。そんな疑問だけが頭を巡る。
「ふふっ」
彼女は笑った。
「……どう、しました?」
「あまりに驚いた顔と必死に誤摩化そうとする姿が面白くて」
そう言うと彼女は目元を手で拭う。
やばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばい。
このまま認めてしまえば俺の秘密は知られてしまったことになる。
俺はどうにか形だけでも冷静さを装う。内心は自分でも驚くほどに動揺しているし、変な汗までかく始末。
落ち着け落ち着け落ち着け落ち着け落ち着け落ち着け落ち着け落ち着け落ち着け落ち着け落ち着け落ち着け落ち着け落ち着け落ち着け落ち着け落ち着け。
「……で、さっきの言葉は何ですか?」
俺はそれでも、決して動揺などしてませんと大きく書いた顔で言う。
「え、ここにきてとぼけるの?」
彼女は少し引き気味な表情でこちらの様子を伺った。
ーー分かってる。俺のポケットから落ちたそれが俺以外の物だなんていくらなんでも無理があり過ぎる。
でもそれでも、そこまでしてでも、守れる可能性があるのなら俺は足掻きたかった。
「それ、友達のなんですよねー……」
彼女は「え、ここまできてなおもとぼけるの?」的なさらにドン引き顔になっている。
「……なんつって?」
彼女はしばらく俺の顔を眺めるとため息をこぼす。
「NINEの名前もちゃんとあなたの名前だった」
--決定的だった。
もう受け入れるしかないのだ。女子からも男子からも少なからず人気のある西園寺奏枝は、実は2ちゃんで批判を書くことに快感を覚える腹黒野郎だと、世間に知らされることを。
「……ちなみに、さっきから敬語だけど私も同じ一年生」
醸し出されるオーラはどこか落ち着いていて無意識に年上だと思っていた俺にとって、その事実は驚きだった。しかし、もう何もかもどうでもいい。もし、この世の全てをリセットするボタンを俺がもっていたならたとえ土になろうとも躊躇なく押しただろう。中学時代から積み上げてきた"西音寺奏枝"のいない世界なんて生きる意味すらない。
「……もうなんでもいいよ」
彼女はにこっと笑う。こんな状況でなければ可愛いと思えたやもしれないその笑顔は、今は人の弱みを握った悪魔にしか見えなかった。
「あーあっ!!!」
全ての苛立ちと絶望を込めて全力でため息を吐いた。
一瞬時間が止まったような感覚に陥る。
こんなことでどこの誰かも知らない人に本性ばれるって......本当に笑えた。
「認めた?」
「……認めるしかないだろ」
俺の中でスイッチがオフになったというか、どうでもよくなったというかただだ諦念や絶望の類の何かしか残っていなかった。
「……てか、どうやって中見たんだよ」
俺は全身の力が抜け、地面に座り込む。
「簡単」
彼女もスカートを手で押さえながら床に座り込み、俺と視線を合わせるといたずらげにそう言った。
「パスコードは四桁だったから指紋から考えられるパターンを試したの。そしたらたまたま三回目で開けちゃった」
そう得意げに話す彼女は、今の俺からしたらやはり悪魔にしか見えない。
「普通、拾った携帯の中見るかよ」
「見ないよ」
笑顔で即答。・・・なんでこんなに嬉しそうなんだよ。
「……お前さ、言ってることとやってることがだな」
落とした自分が悪いが、それ以上にこの女の意味不明な行動に呆れる。そしてその気持ちは自然と言葉を繋ぐ。
「だいたい、お前……」
「あなたのだったからかな」
俺の言葉が止まる。俺だけじゃない、屋上に吹いていた風でさえも止まった気がする。
「……へ?」
いきなり告白めいたことを言われ、俺は思わず聞き返した。
「西園寺奏枝のだったから見たくなった」
そう答える彼女の瞳は真っ直ぐで、さっきまでの笑顔は消え、その真剣な瞳に吸い込まれそうになる。
「え、あ、お、俺のだった、から?」
「そう」
彼女はなおも真剣な面持ちで答える。
「な、なおさら、い、意味が分かんねぇ……」
彼女はやっと自分の言った言葉を理解したのか慌てて立ち上がり俺と距離を置く。
なんともいえない空気が流れる。
彼女は再び一歩俺に近づくと言葉を続けた。
「西園寺奏枝を知らない人って少ないと思うの。誰にでも分け隔てなく接してて知り合いも多い。そんな人の本性って実は違うところにあったりしないかなって思ってた」
彼女は俺から目線を外さなかった。その表情は何故かどこか嬉しそうに見える。
「そ、それって……俺への好奇心、とか?」
口に出した瞬間、恥ずかしさが込み上げ顔を逸らす。……なんだよ、俺への好奇心って。これじゃ遠回しに俺のこと気になってますか? って聞いてるようなものだろ。
「そうだけど、ちょっと違う」
そんな俺の内心は置いていかれ、彼女は淡々と続ける。
「共通点がある気がしたの」
「……共通点?」
「うん」
彼女はゆっくりと頷いた。
「私もね、西園寺と同じで腹黒いから」
「まぁ……だろうな。……俺と同じかは知らんけど」
そう悲しげに言う彼女にどう返していいのか分からない俺はぎこちなく誤魔化す。
勝手に人の携帯見るくらいだから下手したら俺以上だけどな、とか内心で思う。
そして、彼女は少し言いずらそうに視線をずらしながら言葉を続けた。
「同じだよ。私にも友達いないから」
これまたいきなりの告白に戸惑う。まず俺にはたくさんの友達がいる。それに彼女自体少し、いやかなり変わってるとは思うけど話せないわけじゃなさそうだし、そんな彼女が友達がいないなんて説得力のかけらもない。
「ねぇ、今普通に話せるのに友達いないわけないとか思った?」
彼女はそんな俺の思考を読んだかのように言った。
「あぁ、ちょっと色々理解が難しいな」
「ふふっ、そうだよね」
彼女はそう笑って納得するとフェンスのほうに近づく。
「なんかさ、みんななんだかんだ言って本当の自分って隠してるでしょ?」
彼女の口調は少し寂しげで、屋上からグランドを眺める瞳は何かを悟ったように優しい。
「まぁ……そういう人のほうが多いだろうな」
現に俺だって秘密を隠してきた。けれど本性で関わってる人のほうが稀だと、むしろ人付き合いなんてそんなものだと俺は思っている。
グラウンドを眺める彼女はゆっくりとその日を思い出すように言葉を続けた。
「自分には本性を見せてくれてるって思ってても実はその人はいろんなところで同調してて……。それが間違ってるとは思わないけどある日そういうのってうざったいなって思った。そう思ったら相手の仮面をぺりぺりって剥がしたくなって……でも、気づいたら一人になってて……どうしたらいいのか分からなくなった」
彼女は俺に向き直るとまた真っ直ぐな瞳で続けた。
「だからほんの些細な好奇心だったけど、あんなに人当たりのいい西園寺奏枝の本性がこんなにも腹黒くて性格の悪い人って知ったら笑えてきちゃって。
ただの忘れ物として届けるのはもったいないでしょ?」
彼女はそう言うと再び腰を落とし、俺の携帯をいたずらにちらつかせる。
「そういうお前も充分歪んでると思うけど……」
「だから西園寺なら分かってくれるかなって」
携帯を持ち帰ることはひとまず置いても彼女の言いたいことは分かる。
人間誰しも相手の仮面を引っぺがしたいとかそういう感情はある。きっと彼女はそれに悪い気づき方をしたんだと、このとき憶測ながらに彼女の後ろ側が少しだけ見えた気がした。
「で、どうしたら携帯返してくれる? 当然ただじゃ返してくれないんだろ?」
俺は立ち上がり制服を叩くと彼女に向き直る。
「物分かりが早くて助かるわ」
「そりゃどうも」
「返して欲しかったら私の条件を飲んでほしい」
「条件? 俺がもしお前の条件を飲まなかったらどうなるんだ?」
「2ちゃんでの悪行をばらす」
「……それは、困る」
「大丈夫。腎臓売れとか百万円よこせ、みたいな無理な条件じゃないから」
「いったい何させる気だよ」
俺には断れる理由はなかった。彼女の条件とやらを飲めば俺の秘密が広まらないのならそれに越したことはない。当然、秘密を黙ってくれる保証はないが信じる選択肢しかないのだ。
「で、条件ってのは?」
「私に友達が出来るサポートをしてほしい」
「友達?」
「……うん。お互いがありのままで、本性で向き合える存在」
彼女はゆっくりと反芻するように言った。相手の本性を知りたいと、そう思って失敗してもなお、彼女は友達を求めている。ただそれは、建前なんかで成り立つありきたりなものじゃなく、心の底から向き合える本当の存在を。
正直、そんな理想の塊がどんな結果を生むのか分かりきっている。ただ、選択肢のない俺に断ることはできない。だったら最後まで付き合って予想通りの結果を大声で笑ってやろうと思う。
少しの沈黙の後、俺は口を開いた。
「で、俺は具体的にどうしたらいい?」
「条件飲んでくれるの?」
「あぁ、それしか俺には選択肢がないからな」
「ありがと」
彼女はそう言って携帯を俺の手に置いた。
「そんなに易々と返していいのか? 俺が本当に条件飲む保証はないんだぞ?」
「馬鹿なの?」
そう言って彼女は自分の携帯をちらつかせる。よく見ると画面には俺の2ちゃんでの悪行の一部が写っている。
「スクショかよ……抜け目ねぇな」
「でしょ?」
どうやらしばらくは覚悟したほうがいいみたいだ。情けなく俺は彼女の手のひらで転がされる。でも、絶望かと思った結末が変わる可能性があるなら安いものだった。
「これは私と西園寺の契約」
「契約ねー……。俺は自分の秘密が守れるならなんだっていいよ」
契約って響き、嫌いじゃない。俺の腹黒リアルティックを奮い立たせるニュアンスを含んでいる。ただこの契約は俺の弱みが引き金になったもの。つまり、今の俺はどうしたって彼女より上の立ち位置に立つことはできない。
彼女が本当に本心から理想まみれの"友達"を求めているなら、それが報われなかったとき彼女はどんな顔をするのだろうか。そして、もし何かの間違いで報われたら……。
気づけば日は角度を落とし、夕日が校舎を照らす。
「ありえないよな」
俺はフェンス越しのグラウンドを眺め、聞こえないようにそう呟いた。