第五話 『友達』
空気が美味いだの、空気がおかしいだの、冷静に考えればおかしな発言を人は好む。
ある種ことわざもそうである。2階からぼたもちだの、馬の耳に念仏だの、冷静に考えれば何を言ってるんだとさえ思ってしまうのは、俺のくだらないことに対する知能だけが異様に高いからだろうか。
……あれ? 今の表現、あっていただろうか。まぁいいか。
意味をよく調べればなるほどと納得できるものもあるが、それならそれで普通にことわざにしなくてもいいだろと自室で笑っていたのは、今となっては奇行の一種だった。
とにかく、物質の齟齬により、多少の差はあれども空気は空気だろう。そう俺は今までずっと思っていたが、
「空気が……重たいな……」
この発言はまさに的を射ていた。
屋上の扉によって隔てられた境界線。行先に待っているのは、天国か、地獄か。日光の量による違いはあれども、光を思う存分浴びている屋上の方が重苦しい空気を纏っているのはおかしいだろう。
なんて、壮大な風に言ってみるが、実際そうだ。それくらいのスケールが扉の奥にはある。
そうなる理由はただ一つ。その空気の原因が佐倉さんであるということを、俺は先ほどの経験が九割と野性的直感が一割の混合状態で判断していたからだ。
しかし、ここで後ろを向いてしまうのを俺は許さない。後ずさりはせず、拳を思い切り握る。爪は普段から丁寧に切っているので、爪が肉に深く食い込むことは無かった。が、それでも痛みが手のひらに伝わり、俺は深呼吸する。
「屋上とか高校生憧れの一種なのにな……」
後ろから聞こえるのは昼休みに入ってからの生徒の声は、これからの俺の心を嫌という程苛立たせる。そして、屋上よりも廊下に来いと甘く誘惑してるようにも聞こえてくるから重症だ。
「……よし。行くか」
一歩足を前に進める。それだけで、風なんて吹いてないのに突風に覆われる感覚を味わう。まるでここから去ることが正解だと言わんばかりに。前からも後ろからも否定されたような気がして、それが無性にムカついて、俺は勢いよくドアノブを捻った。
「……やっとみたいですね」
風が吹き荒れる。突風は俺の髪を揺らすが、俺の目は一点にとどまり続けていた。
昨日と同じ言葉、同じ声量なのに、どうしてこうも焦燥感を掻き立てるのか。彼女の声にそれほどまでの力があるのか、それとも俺の考えすぎか。
屋上には二人以外誰もいない。そういえば昨日もだったな、と俺は一瞬だけ意識をそこに向けた。が、それも本当に一瞬だ。
「う、うん。そうだね。遅れたみたいでごめん。ほら、今日って暑いじゃん? だからさ……」
確かに今日は暑い。汗が俺の頬を伝うくらいには。しかし、果たしてこの汗は本当に暑さだけから来ているのだろうか。俺は違うと理解はしていたが、そうではないと思いたかった。
「それならここで待ってた私はもっと汗をかいてるべきでしょうね」
佐倉さんは凍ったように笑う。笑顔は太陽のようだと象徴できるはずなのだが、彼女の笑顔は月のようだ。
「確かにね。でも、ほら、俺って汗っかきなとこあるしさ。意外と屋上って風が吹いてて涼しいし……」
「これでもかなり前からいましたからね。陽の光の強さは屋内とは比べ物になりませんよ」
「それもそうか……な」
「まぁ、今日は確かに暑いですし、私が汗をあまりかかない体質なのかもしれませんね」
優しい敬語口調からは思えないほど冷徹なプレッシャー。それに対して俺は固い笑顔で返すしかない。
言葉だけで見れば何気ない日常会話のようにも聞こえるが、俺の心は戦場にいるようにさえ思ってしまっている。
「……では、本題に移りましょうか」
話に折り目がついたのを見て、佐倉さんからそう提案してくる。俺もそれに反論する気は無い。呼吸を整え、佐倉さんの話を待ち構える。
「まず、このことは誰にも言わないでください」
「う……うん」
気圧されるように、俺は頭で考えることなく口から勝手に肯定を紡ぐ。
「それで、できたらもう私にあまり話しかけないで。そして、今日のことは忘れてほしいです」
それはあまり約束できないかもしれない。そんな心情が伝わったのか、佐倉さんは俺の返答を聞くこともなく話を進める。
「秋野くん……私は別に、親からの命令でもなければ、誰かに命じられてるわけでもありません。自分の意思で、あなたと友達になることを拒みました」
胸に手を当て、佐倉さん演劇役者のように声のトーンを変えて話し始めた。その話に俺は黙ったまま耳を傾ける。
「あまりこういうことを言った子はいないし、それで私もあの子達も傷ついたのはよく覚えてる……でもあなたとは友達じゃないから大して傷つかないのかもね」
佐倉さんは自嘲気味に掠れた笑いを浮かべる。彼女の瞳が薄暗く濁ったのを見て、俺は目を見開いた。
佐倉さんにそこまで言わせるほどの過去があったのだろうか。そんなことはないと言いたいが、過去を知らない俺が何を言っても怒らせるだけで、最悪泣かせてしまうかもしれない。
それを自覚して、俺は肯定も否定もせず、ただただ耳を傾けることだけにした。
「さぁ、この言葉できっと、私とあなたはただのクラスメイトに戻るはずです」
次の言葉が一体何なのか、俺は頬を強ばらせる。口調はそのまま、態度もそのまま、しかし声のトーンだけが一段と変化を引き起こしている。
「私は、もうすぐ死ぬんです」
「……え?」
「医学の進歩ってすごいみたいで、本当は高校生になれなかったはずなんですけれどね」
佐倉さんは枯れた笑いを見せる。が、言葉は流暢に、まるで業務連絡のように淡々としていた。だが、俺はそんな平平坦坦とはなれない。
「ちょ、ちょっと! どういう……意味だよ……」
俺は思わず声を荒らげて話を進めるのを阻止する。いきなり発言された『死』という言葉。冗談でも笑えない。が、それは冗談には聞こえなかった。
「心臓に……病気があるんです。先天性の心疾患で……再発しちゃったみたいで、もうすぐ死ぬみたいです」
佐倉さんはただ淡々と、問題の答えを言うかのようにスラスラと言葉を並べ続ける。目の前にいる少女が、本当に病気を、しかも死ぬと断言されるほどの病気を持っているのだろうか。
俺は、信じたくなかった。信じられないのではない。信じたくないのだ。この言葉の違いは決定的で、心のどこかで、俺は明確に彼女の言葉を肯定しているのだった。
「でも……ほら……普通に動けてるし、話せてるし……」
「私の場合、心疾患でも普通に運動や食事ができるみたいです。でも前に倒れたことがあって、その時に知らされたんです」
病気に対する知識が乏しい俺にとって、この発言の真偽の確証は取れていなかったが、何故か事実を言われているような気がした。
医学が進歩していることはなんとなく知っていた。俺の祖父も、癌を患っていたのにも関わらず、なかなかしぶとく生き続けていたのを覚えている。が、逝くときはポックリと逝ってしまった。
確か中学生の頃だったか。二度と会えないというのがひどく現実的ではなかったのに、涙を流したのを覚えている。今は、どうだろうか。やはり現実的ではない。
「本当……なの?」
「……はい」
冗談でも何でもない事実。言葉を失い、心配も何も出来なくなった俺を、神様たちはどう思っているのだろうか。
「これで分かってくれましたか? このことは忘れて、前と同じようにもう話しかけないでくださいね」
佐倉さんは話がついたと言わんばかりにその場から立ち去ろうとする。でも、俺はこのままではダメだと思った。
ーーすれ違う瞬間の佐倉さんの顔が、ひどく悲しそうだったから。
俺は思わず佐倉さんの腕を掴んだ。佐倉さんは俺の行動に驚き振り返る。そして俺と目が合ってしまった。
「あ……」
やはり佐倉さんは泣いていた。陽の光が佐倉さんの涙と重なり合って、煌めきを生み出していた。
一方で、俺も俺自身の行動に驚いていた。脊髄反射のように、自分の意思が働く前に手が伸びてしまっていた。このあとの行動なんて考えていなかったから、俺の脳がめまぐるしく回転しだす。
そして、生み出された言葉は、
「俺は、それでも佐倉さんと友達になりたいよ。君が、そんなことを言っても」
原点に戻っていた。これは俺の本心からの言葉だ。佐倉さんが本当に死ぬのだとしても、それでこのまま終わるなんて絶対に嫌だった。
「もうすぐ……私は死ぬんですよ……? 前もそうでした。私が死ぬことを知った子達はみんな泣いていた……私も……私も悲しかった! もうあんな思い、したくないしさせたくない! 私さえ我慢出来たら、みんな幸せなんです!」
俺の腕を反対の手で掴み、佐倉さん激情を曝け出す。それが、佐倉さんが俺を遠ざけようとする理由だったのだ。過去に何かあったのか、俺には分からない。分からないが、
「そのみんなに、自分は入ってるの?」
俺のこの言葉に、佐倉さんは大きく顔を上げる。
「違うよね?」
「ち、違うなんて……」
「本当にそうなら、親から言われたなんて嘘をつけばいいはずだよ。本当は前に歩み寄りたかったんじゃないの? もっと、みんなと話したかったんじゃないの?」
「そ、そんなことない! 私は……私は……」
佐倉さんの勢いが弱まる。涙が彼女の頬を伝って、アスファルトに小さなシミを作る。シミは次々と生まれ、それが生まれる度にサキの瞳から新たな涙が生まれだしていた。
「どんな過去があったのか、俺は分からない。でもね、そんな嘘をつかせてまで、君に悲しい思いをさせたくはないよ」
「違います! 私は……また誰かを傷つけて……もうすぐ死ぬのに……そんな贅沢なんて……嫌なんです! これ以上誰かを傷つけるのは……残り少ないくせに、誰かより幸せになろうとするなんて!」
「何言ってんだよ!!」
堪らず俺は叫んだ。自分を抑えて、自棄に走った幸せなんてまやかしだ。それは、正しい幸せなんかじゃない。知っている。自分を犠牲にした幸せなんて、幸せなんかじゃないってことを。
「残り少ないからこそ、大切にしなきゃいけないじゃんか。贅沢しなきゃいけない。幸せにならなきゃいけない!」
拳を握りしめる。喉から激情が搾り取られる。気持ちが、爆発する。
「そんなこと……もう絶対言わせない。俺は、諦めないよ」
「私……死ぬんですよ? なのになんで……」
もう一度、佐倉さんは同じ問いを発す。力は弱まり、浮かぶ涙がゆっくりと零れ落ちていく。
君が好きだから。そう言いたいのを俺はぐっと我慢する。それは、きっと彼女をさらに混乱させてしまう。だから、
「泣いてる君を! 笑顔にさせたいからだ!」
俺は嘘をついた。いいや、嘘ではない。この言葉は、全部本当で、全部嘘なのだ。
佐倉さんは遂にその場で膝から崩れ落ち、顔を覆った。笑顔にさせたいと言っているのに、彼女を泣かせている俺は何とも滑稽なものだが、俺のこの行動を誰が笑えよるものか。
俺の意思は決まった。
ーー俺が、佐倉に、いや、
「俺が、サキに最高の日々をプレゼントしてやる!」
溢れ出る涙を必死に抑えようとしている彼女に、俺は力強く言い放った。
変えられない運命だとしても、それまでの間、何もしないままで終われるわけがない。
ーー俺は、君の笑顔が見たいんだ。
「……きっと、悲しい思いをさせちゃいますし」
「サキを笑顔にさせて、俺も笑顔になれるようにするよ。そしたら二人共ハッピーで万々歳でしょ?」
「秋野君はいいんですか? もうすぐ死ぬ子と友達になるなんて」
「君が死ぬって言うだけで、友達になりませんなんて薄情者にはなりたくないからね。それに、ずっと友達になりたかったんだし。少しくらい、俺のことを信じてくれよ」
「それは……とっても狡い言葉ですね」
俺が発した最後の言葉を非難しているようで、でもサキの声色は決してそうでは無かった。そうして、サキはゆっくりと立ち上がる。
「ありがとう。秋野君に言って、良かったです」
涙を瞳に溜めながら、サキは笑った。それが今まで見た彼女の表情の中で一番破壊力があり、俺の顔に急激に熱がたまる。
「……ま、まぁ、そういう訳だから、俺と、友達になろう」
「……はい!」
「あ、あとさ……」
「何ですか?」
首を傾げるサキ。一度意識してしまえば、彼女の行動一つ一つが狂おしいほど愛おしく感じてしまう。
「その、敬語とか、君付け名字呼びとかやめてもらったら嬉しいというか友達としてグッとくるというかなんというか……ほら、トーマにもサクって呼ばれてるし……」
視線が合わせられなくなり、俺は遠くを見たり、下を見たりする。そんな俺の行動にサキは声を出しながら笑い出した。
「いきなりですね。いきなり名前で呼んできましたし。唐突ですよ」
「い、いやほら、友達……なんだし」
ひとしきり笑われたあと、サキは小さく息を整える。
「正直、いきなりは難しいです」
「あ、あはは、やっぱりそうだよね……」
「でも」
もう一度、今度は少しだけ長く息を整え、
「頑張って、直しますよ。それに敬語でも、友達は友達、でしょう?」
彼女のとびきりの笑顔に、俺はタコのように顔を赤くしてしまう。それを知られたくなくて、顔を手で覆った。
「う、うん。そうだね……ごめ……ありがとう」
『ごめん』よりも『ありがとう』を。こんなのは謝るべきじゃない。感謝するべきだから。
俺は一度礼を言うと、さらに顔の熱が倍増してしまった。
しばらく、その熱が引くことはなかった。
言い切りました。さすが主人公カッコよすぎー。
はい、言いたいだけです。頑張れサクラ。
そんで最後はやっぱり格好つかないんだよね
そう言えば彼の親友、トウマ君が人気のようですね。羨ましいので彼のキャラを崩壊させます待ってろよトウマこの野郎。