1. 擬音
辺りがすっかり暗くなった午後5時の第一音楽室。器楽部が新校舎の音楽室に活動の拠点を移したため、今そこには小柄な少女しか居ない。
老朽化にともない取り壊しが決まった木造の旧校舎からは既に机や椅子などは運び出されており、この音楽室にもグランドピアノが残されるのみであった。もっとも来週になればピアノも新校舎に運ばれる予定で、そうなれば長年壁に貼られて色あせた校歌の歌詞などがもの寂しくも存在感を増すことだろう。なんとも閑散とした校舎内に響いていた澄んだピアノの音は遠くから聞こえて来たチャイムを合図に止んだ。それに代わるかのように響いて来た足音に、少女は一瞬その息を詰める。
ああ、とうとうバレてしまったのだ。
まるでなにかを願うかのようのにぎゅっと目を瞑る少女。そして再び彼女の瞳が開いたとき、そこにはもう迷いは無かった。
「おい、愛音っ!お前塔音受けないって本当か!」
音楽室のドアをまるで蹴破らんばかりに開け、室内に乱入して来たのは少女・愛音の幼なじみの貴哉であった。この怒れる少年は折角の端麗な眉間に深々と皺をきざみ怒鳴ったが、目の前の少女は彼を一瞥しただけでそれを受け流す。貴哉に乱暴に扱われた旧校舎の名残である音楽室の木製のドアは、まるで彼を非難するかのように甲高い音を立てて閉まっていく。古い造りのためきちんと閉まりきらないのはまあご愛嬌だ。
「タッちゃん、扉壊れちゃうよ」
「話しを逸らすなよな!」
貴哉は眉間の皺を更に深くさせながらズンズンとピアノの前に座る愛音に近づく。最近めっきり身長も伸びて来た貴哉の剣幕はなかなかの迫力があったが、さすがは幼なじみ…愛理は「別に逸らしてないよ」と言いながら目の前の楽譜の片付けを再開する。そんな態度に焦れたように少年は楽譜を少女から奪うと再び声を荒げた。
「塔音受けないって…光陵の特待受かったって本当か!?」
「うん。それより楽譜返して」
意外にもあっさりと事実を認めた愛音に、貴哉は二の句が継げない。
「タッちゃん。楽譜、返して」
一度目よりもやや強めに、そしてゆっくりと言われ、貴哉はビクリと肩を揺らし握っていた楽譜を思わず差し出してしまう。
「……っ」
また、あの目だ…。
貴哉はいつ頃からか愛理が時折向けてくるようになった静かな瞳がとても苦手だった。
人当たりはいいが基本的に大人しい性格の愛理は、童顔なのも相俟って普段は実年齢よりも幼く見える。しかしこの暗い視線を投げかけてくる時の少女は自分と同じ歳であるはずなのに、はるか年上に思えて落ち着かないのである。
「ありがと」
受けとった楽譜を鞄に入れると、愛音は貴哉の横を通り過ぎた。
「なんで…」
それ以上言葉を続けることが出来ない少年に、愛音はそっと苦笑する。
「あの人が許す訳ないでしょう。私立で…しかも音楽の高校なんて」
「前におばさんには話をつけたって言ってただろ!?なんで今になって…」
「あの人とは…母さんとは始めから話し合ってなんかないよ」
というか去年から音信不通だし…とさらりと言う愛音にもその言葉の内容に貴哉は絶句する。
「元々義務教育が終わったら縁切るってあの人の口癖、タッちゃんも知ってるよね。自費で高校に行くには学生寮があって、生活費・学費全額免除の特待制度がある光陵がいいの」
「そんな…。お前、この頃毎日放課後ピアノ弾いてたじゃんか…」
塔音の実技のための練習じゃなかったのか?と問いかける貴哉に、俯いた少女が微かに笑うような音が聞こえたが、長い髪の所為で表情までは分からない。
「これはね、弾き納めなの」
「弾き納め…?」
不吉な言葉に、貴哉の背筋に嫌な汗が流れる。
「私、ピアノを捨てるの」
そう言ってようやく見えた少女の瞳はやはり貴哉の苦手な色をしていた。
「卒業したら、タッちゃんともお別れだね」
「愛…音……」
「タッちゃんなら塔音受かるよ。遠くから応援してるから頑張って」
言外に少女は“もう会わない”と少年に伝えていた。
事実、貴哉はその日を最後に愛音に会うことはなかった。
遠くから応援してるから…。
その言葉が持つ意味を、今は愛音自身も知らない。
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2008/05/13




