焦るハルカ
ハルカは操縦室横のコンピュータールームにドアを蹴り飛ばす勢いで駆け入った。
その目に飛び込んできたのは、Tシャツにトランクスというあられもない姿のレイが、横幅のあるがっしりしたカルッソに押さえつけられている様子だった。――脱いだのはレイ自身だとは後で知ったけれど、その時はそう見えなかったのだ。
何か考えるより先に手が出ていた。
思いっきり殴り飛ばしていた。
あんたは手が早いんだから一呼吸置きなさいと、よく忠告されてはいたけれど、その時のハルカはすっかりそんなことなど頭から消え失せていた。
それでも足りずに、倒れているカルッソの顎めがけて足まで出していた。お客様のはずなんだけど……。
吹っ飛んだカルッソはほうほうのていで逃げ出した。告げ口したってかまわない。どうせ、自分も船長に報告するつもりだし。
――こんなの、当然よ。恥知らずのスケベ野郎め!
ハルカは弾んだ息と怒りを抑えるために、大きく呼吸を繰り返した。
支え起こしたレイの身体は、驚くほどに震えていた。歯の根が合わないという状態だった。制服は絞ったらバケツ一杯になりそうなほどに濡れていたが、それもかまわず抱きすがってくる。
このままではレイも濡れて冷えてしまう。
ハルカはレイの濡れたTシャツを脱がし、自分も制服の上着を脱ぎ捨てた。
おいで、と手を広げげると、レイが泣き出しそうな顔で飛び込んで来た。
よほど怖かったらしい。少しでもその恐怖を取り除いてやれたらと、黙って抱きしめてやる。
レイの身体は異常なくらい強張っていた。体温も低い。ショック状態なのかもしれない。
しばらくそのまま抱いているうちに、身体の強張りが解けてきた気がした。震えも少しずつ収まってくる。レイの身体に体温が戻ってきたのを感じる。
そろそろ大丈夫だろうと思って、抱いている腕を解いて身を離そうとした。
「嫌だ。離れないで!」
レイが強く抱きすがってきた。胸に押し付けられたレイの心臓が、まだとくとくと早鐘のように脈を打っている。
「まだ、怖いんだ。もう少し、こうしてて」
「大丈夫?」
怖い思いにも程度がある。少し異常な気がした。何をそんなに怖がっているんだろう?
ハルカはレイの顔を覗き込む。レイが少し背の高いハルカを見上げて来た。紫の瞳が濡れて必死な感じで見つめてくる。親からはぐれた子猫みたいだった。
――可愛い。
いきなり思った。保護欲に駆られる。熱い感情が胸の奥から湧き上がってくる。こんな気持ちは初めてだった。
必死な感じで離れまいと抱きすがってくるレイの唇にそっとキスを落とした。
すると、レイも唇を押し付けてきた。まだ幼いぶつけるようなキス。
ハルカはレイの身体を抱きしめると、もっと熱いキスを交わした。
***
キスのあと、レイはいきなり落ち着いてしまった。がたがた震えていたことなどウソみたいに、いつもと変わりない様子に戻っていた。その唐突過ぎる変化には、ハルカも戸惑った。
ぐっしょり濡れてしまった自分のTシャツを両手にぶら下げて眺め、
「とても袖を通す気になれない。ハル、シャワー浴びて着替えようよ。ハルも取り替えたほうがいいよ」
と言うや、ブレザーやズボンも抱えてトランクス一つのままシャワー室に駆けて行った。
こっちが言うセリフなんだけどと胸の中で呟きながら、ハルカは脱ぎ捨ててあった制服の上着を拾い上げる。
乾いた服にそれぞれ着替えてさっぱりすると、ハルカはレイを心配して訊いた。
「キャンプ基地に戻りましょう。会議室にあるPCでも、間に合わせられるんじゃない?」
「僕はここで作業するよ。その為に『ハコフグ』に来てるんだよ」
「え? でも……大丈夫なの?」
案じてレイの顔を見るハルカに、レイはきょとんとした表情を返す。
「大丈夫に決まってるじゃない。何を心配しているの? 変だよ、ハル」
――変なのは、レイのほうだと思うけど?
だが、まるで何もなかったかのような顔をしているレイに、わざわざ怖い思いを思い出させる必要はないだろうとハルカは思った。
「あたしはキャンプに戻るけど、一人で大丈夫なのね?」
「うん」
こくんと頷いてハルカの上着の裾をぎゅっと握ってきた。まっすぐ見上げて来たレイの瞳は熱っぽく潤んで、頬が赤い。ハルカの胸に熱い感情がふわっと溢れた。
――愛しい。
可愛いというより、愛しかった。
その額に音を立ててキスしてやって、ハルカは『ハコフグ』を後にした。
***
キャンプ地に戻ったハルカは、船長の専用室に行って、今回のカルッソの行動を告げた。船長は心底困った表情をした。
「未遂に終わって良かったよ。よく、気がついてくれた。でないと私の首が飛んでいた」
「どういうことです?」
「これからも、レイ君の身辺に気をつけていてくれ。こんな事が二度とあってはならんし、それに、少しでも怪我をさせてさえもまずい。まったく、やっかいなお客が紛れ込んでくれたもんだ」
「レイって、何者なんですか?」
すると、船長がじっとハルカを見詰めてきた。
「気がつかんかね? あの赤い髪と紫の眼。フォンベルトという偽名」
「やっぱり、偽名なんですか」
「あの伝説のバリヌール人の正式な名前は、ライル・フォンベルト・リザヌールなんだよ」
「……! ま、さ、か、ははは…は………」
ハルカは腰が抜けるかと思った。
「あの赤い髪は、銀河の尊父オーエン全権執政官譲りだろうし、あの紫の眼はバリヌール人以外にいない」
「……と、いうことは……その父親って……」
声が掠れた。
「現銀河連盟執政官のアルフレッド・ハーレイ・ブルーだよ」
「ひえっ!」
「いいか、お前の役目は、何がなんでも、あのレイを守り抜くことだ! 全ての仕事を放り出してもかまわん。あの子を、とにかく無傷で、執政官に返すことだ!」
ハルカはよろよろと船長のキャビンを後にした。
――無傷でって……、キスしちゃった、よ? うっかり裸にむいて抱き締めちゃった、けど? あれって、まじで、やばいかも?
あんなに可愛い顔で見つめてくるものだから。
あんなにきれいな真っ直ぐな目で、訴えてくるものだから。
あんなに震えて、すがりついてくるものだから。
なんて言い訳、通らない、よね……。
執政官は通算8年間その席にいる。13年前の12月に前全権執政官が辞任したあとの翌年1月1日に着任。その3年目の途中に任期を2年残して突然辞職した。後任として選ばれたクルンクリスト人の任期終了後に再度返り咲いて着任。5年間の任期完了後に再選され、現在継続して執政官を任じている。
父親譲りの――非公式ということになってるが、誰でも知っている――緑灰色の眼は、研ぎ澄まさ
れた刃物のように鋭くて、睨まれただけで心臓が止まるとまで言われている。どんな政敵も勝てないそうだ。
――あたしの人生、終わったかも……。
暗ーく沈んでいたら、作業を終えてきたレイが、それこそ晴れ晴れとした顔で嬉しそうに飛びついてきた。
おかげで、ハルカの心臓は十光年くらいは跳ね飛んだ。
――船長、いないよね?
っと思わず周りを見回してしまう。
「ね、僕の部屋に来て」
――そんな期待するような眼で見ないで。今、大後悔のまっ最中なんだから。
返事をしないでいたら、レイの眼が拗ねたように睨んできた。
――うう……可愛いじゃない。
ひょっとしたら、自分はもうレイにべた惚れなんだろうか? 年下なのに?
――まずい、すごくまずい。
ハルカは人知れず背中にたらりと脂汗を流していた。