鷹
紅葉がうつらうつらしながら目を前に向けると、そこには男の姿があった。
翻る足まで伸びた黒いロングコート。
彼には大人の風格が漂っていた。彼から感じ取れるこの威圧感には、ただならぬものがあった。
圧倒された紅葉は全身の毛がそそり立つような感覚を覚える。
しかしそれに負けじと、彼女は懸命に目を凝らして、彼の姿をハッキリと見ようと試みた。
見ようとするが、それは叶わなかった。
見たくとも、ピントが彼に合わない。近くなら未だしも、少し離れた所となれば、ぼやけてしまう。体に負ったダメージがそれ程までに大きかった。
男は返答を待つことなく、足を前へ運ぶ。その際、甲高い靴の音がこの場に響いた。
紅葉は何か言い返したかった。言いたい事が彼女にはある。彼女なりに覚悟は持っていた。
だが、彼の後ろ姿の前に何も言えなくなってしまう紅葉。言おうとしてもそれを見るや、実現出来ていない自分にその言葉を言える資格があるのかと、思わざる得なくなってしまうのだった。
彼女は下唇を強く噛む。涙に頬を濡らしながら……
男の前方には蜘蛛の軍勢が迫り来ていた。一体、続いてその後ろに三体、またまたその後ろに八体と……。
男はある程度、彼らとの距離が詰まったところで足を止める。
そんな中……
「怪我してる……」
透き通った女の声が紅葉の横から聞こえてきた。
紅葉は目を丸々と開けながらすぐに横を振り向いてみる。すると、そこには白い服に身を包んだ美女の姿があった。
女は紅葉の体を横にならせ………
「時の標に従って私の想いに聞き従え……」
と言った。
すると瞬く間に紅葉の体は緑の光に包まれ、体が温かくなる。その光は気持ちいいものだった。春のうららかな日に外で寝転がって日向ぼっこする猫のような心地良さ。
「一先ず、これで大丈夫。完全に、とはいかないけど、体がある程度動かせるぐらいにまでにはなったはずだから。」
紅葉は体を起こす。手をグーパー、グーパーと繰り返してみた。手は何事も無かったかのように、普通に動く。
彼女はとても驚いた。なぜなら本当に自分の体が動くようになっているのだから。
「これは………」
何が起きたのか理解できなかった紅葉は、ぼけっとしながらそう、呟く。
「これは、一時的な応急処置に過ぎないもの。あなたの時間を少しだけ戻しただけだから。」
「おうきゅう………しょち?」
「あ、少し言葉が難し過ぎたかな。でも、体は動くようにはなったよね?」
紅葉は彼女の方を向き、首を縦に振り頷いた。
サラサラと靡く黄色い髪。笑顔の綺麗な美人。
紅葉は少し彼女の姿に引っかかる。その髪の色といい、顔の容姿といい、その美女に何か違和感があった。だが、それが何であるかは今の彼女には分からない。
ハッとするや、紅葉は即座に首を回した。
目を向けるとその先には、男が放った蹴りが蜘蛛の頭に食い込む光景があった。横薙ぎに蜘蛛を蹴るや、もう一回する際に踵でダメ押しの一撃を新たに加える。
蜘蛛は踵蹴りをくらうや勢いよく横に飛ばされ、壁に衝突するや緑の液体を体から飛散させた。
あっと言う間に一体を倒してしまった男。実力者であることはその立ち振る舞いからも、明らかだった。
しかしまだこれだけでは終わらない。その後すぐさま、今度は三匹が同時に彼に飛び掛かって来った。
「危ない」
紅葉は反射的に危機を察した。どう考えても、見た限り武器の一つも持たない戦士がこの複数のモンスターを相手に、実力がいくらあろうと流石に、真面に戦えるとはどうしても思えなかった。
「気に掛ける必要は無い。彼……殺されるようなを人じゃないから。」
同じく彼の戦う姿を見ていた女は、冷たい冷気を発するかのような口調で言った。紅葉はその言葉の主である女の方に振り向く。するとそこには並々ならぬ眼差しで見る彼女の姿があった。
女はまた続けて…
「彼は武器が無くとも十分……戦える」
と、静かに言った。
そのあと彼女は潤いに満ちた瞳を輝かせ、男の方に目をやった。
紅葉は彼女を見るや、不思議な感じになる。男と彼女には何やら言い表せないような信頼関係があるようだった。
そんな中、紅葉は視線を男の元へと戻す。
男の胸の辺りでは何やら光が煌めいている。
どうやら、手が光っていたようだ。
男体の横へ地面と平行に伸ばされた腕を差し出し、人差し指と中指がクロスしたその先端には眩しい白い光が輝く。
「彼の時の制約………」
男は女の口ずさむ言葉の後、刹那、横一直線にその指を右から左へと振り払った。光の軌跡は輝きながら、空をなぞる。
それは言葉にならないほど、圧巻なものだった。
蜘蛛は上下真っ二つに斬れる。
飛び掛かって来た三匹だけで無く良く見れば後ろに追づいしていた八匹までもが、一網打尽の一閃の餌食となる。
緑の液体は空を辺り一色緑にするほどに弾け飛ぶ。蜘蛛は悲鳴をあげることもなく、ベタベタとした耳障りのする音を立てながら地面に転がり落ちた。
彼が描いた光の軌跡上にあったもの、全て、横一線を境に崩れ去っていたのだった。
「何が起こったの………」
紅葉は口に手を当て目を大きく見開きながら、その光景に思わず言葉を漏らした。この光景は異様だった。あれだけ苦戦を強いられたモンスターをこんなにもあっさり、そして一撃で倒すとは……
「時の制約って知ってる?」
冷ややかな風が流れるかのように、女は紅葉に話かける。
「……あっ、はい。小耳に挟むくらいの話は……。」
女はそれを聞くやニコリと微笑んだ。
「この時間の止まった『時空間』において、心臓の呪縛から解放された者は活動が許される。
だからあなたも、こうやって石のように固まっていない以上…この呪縛から解放されていないことはない。
そう考えると時空間で使える武器を手にしている以上、あなたは何処かの組織に組みしているのは自明なこと……」
彼女はそう言うや、紅葉に視線を向けた。
「……はい………私は世界の時を守るべくとある組織に入っています。」
紅葉は女の言った事に応える。紅葉は言い当てられた事に少し怖くなった。
女はその彼女の受け答えに少し驚きながらも、顔に笑みを綻ばせて、言葉を続ける。
「言わなくていい……大体の所予想はつくから。」
紅葉は黙ってゆくりと、彼女の言葉に頷いた。
「時間の呪縛を解放させたのは紛れも無く心臓の停止が起因したもの。これはあなたも知っているはず。だけどこの心臓の停止は、ただ時間の呪縛を解放できるだけで終わりという訳じゃない……結論から言って、時の制約は心臓に自ら呪縛を加えたもの……つまり、自分の心臓を時空間で動かすということ……」
女は諭すように紅葉に言った。それを聞いて分かるどころか、むしろ分からなくなったといわんばかりに顔を顰める紅葉。
女はクスッと笑い…
「…分からなくていい。事実ほど、理解することが困難なものはない、だから………」
と言った。
戦いはあっと言う間に終わり、男の周りには蜘蛛の死骸が地面に転がり落ちるだけとなった。実にその光景は、異様極まりないものだった。
女は「じゃあね。」と幼い少女に言葉をかけるや、男の元へと歩いていった。そしてその二人はどこか別の場所へと移動する。
黒いコートに白い羽織が重なり合いながら……
紅葉は呆気に取られ顎の力を失ったまま、彼らの後ろ姿をただ見るのだった。
後で不備等は、訂正したいと思います。