日本支部にて
20話まで話を進ませて頂きます。
コンコンっと、扉をノックする音が部屋全体に響き渡る。
黒い椅子に腰掛けていた30代半ばの女は眼鏡を整えながら
「入りたまえ。」
と、その扉に向かって声をかけた。
「失礼します。」
そう言いながら扉を開け、そこから姿を見せたのは暦だった。そっと扉を閉め、机のの前まで移動する。
「すまないね、わざわざ遠いところから来て貰って。」
「いえ飛鳥さん、たいしておきになさるような事ではありませんから。」
「いや、よしておくれ。せめて私が出来る唯一の労いなのだから、これぐらいのことは言わせておくれ。」
暦は少し戸惑いながらも、ぎこちなく首を縦に振る。
飛鳥はそれを見るや、少し笑みを浮かべた。
「本当に遠いところから来て貰ってよかったよ……」
暦はそういいながらそっと眼鏡をかける飛鳥の姿を、ただ見つめる。
「そう言えば、あいつはここには来てないのかい?」
「……あっ、えっと……雫のことですか。」
飛鳥は何も言わず暦の次の言葉を待つ。
少し返答に戸惑う暦。
「一応…来てはいますが……彼に何か用があったんですか?」
暦は不思議そうに飛鳥を見て、言う。
「別に……ただ、あのふてぶてしい面をこの数日間見ないと駄目だと思うと……少しね………」
「そうでしたか、まだあの時のことを根に持ってらっしゃるんです……ね………」
暦は目を少し細めながら、机上の上にある資料に目をやる。するとそれは、あの出来事に関する内容のものだと分かった。
「あの事件からもう、二年………」
飛鳥は口を噛み締めながら、その机に置かれた資料の一つを手に取り、言った。
「私は今だに、奴の行動が許せなくてね。たとえ………アレだとしても、私には………」
暦は強く下唇を噛む光景を見ながら、黙ってその話を聞く。飛鳥の気持ちは暦にも分からないことはなかった。自分がその立場でも、彼女の今とった行動をしているかもしれないと思った。
過去のしがらみから解けきれないのは、良くないことだと分かっていても、人はそうせずにはいられないこともある。
今回の彼女の場合も、そうだった。
すると、黙り込む暦の姿に気付いた飛鳥は、一つ咳払いをして……
「こんな話を君にすることじゃないね、すまなかったよ。私はあいつのことになると、ふとこんなことを考えさせられる……まったくこもったもんだよ。はぁ………」
そう言うと、彼女は机の引き出しにそれらの書類をしまい、別の書類を出した。
「これですか、私をここに呼んだ理由は。」
暦は話を変えるつもりで、そう言った。
「ああ、そうだ。君たちを呼んだのはまぐれもなく、これに尽きる。」
そう言って飛鳥は、暦に一部の書類を手渡した。暦は不思議そうにそれを手に取るや、表紙を見る。
するとそこにはこう記されていた。
___nodos
「これは一体………」
飛鳥の方を見ると、首でふいっと書類に目を通すよう促す。
暦は書類に目を戻し、ゆっくりとその中身を開いた。
するとそこには思わず驚くような内容が記されていたのだった。
○*○*○*○*○*○*
__同刻、日本支部のロビーにて
日本支部のの建物の中は隅々まできちんと整備されており、ここの管理が徹底していることは一目瞭然だ。誇り一つさえないトイレに明かりで光る廊下、なんでもお応えする受付嬢など、それらを見れば、あとは見なくともそう判断ができる。
俺はズボンのポケットに手を入れながら、歩いていた。行く当てはどこにもなかったが、暦が飛鳥支部長に呼ばれて帰るまでの間、ちょいと建物内を見ようと思った具合だ。
廊下にいる清掃服姿のオバちゃんが額に汗を流しながら、丁寧に床を磨いている。俺は大変そうにと思いながらそんな様子をみていると、偶然にも目があってしまった。
にこやかな笑顔を作り、小さく頭を下げるオバちゃん。
俺もぎこちなくではあるが、すかさず頭を下げる。
やばい。その時俺は心の中でそう思う。なぜなら相手はオバちゃんだ。あの天下のオバちゃんなのだから。
彼らの話は、始まればそれが最後で、底無しの沼のように永遠に続く。そこには終わりという概念がない。あるのは興味で話が色々な方向へと連鎖する事実だけだ。
「おや、あなたは会ったことのない人だね、もしかして新人さんかい?」
笑顔の絶えないオバちゃんは、明るく話しかけてくる。
唾をゴクリと呑み、俺は言葉は出さず首だけを縦に振る。もちろん手段が残されてないことを覚悟して。
「やっぱりそうかい。ここで何十年と働いているキャリアバカにすんじゃないよ。あはは…」
(俺、そんなこと全然思っていません……から。勘弁して下さい。)
死んだ魚のような目をしているであろう俺は、心の中でそう呟く。だが所詮心の中の言葉は心の中の言葉。こんな心の声がオバちゃんに届く筈もなく……
「それにこんな可愛い男の子見たら、絶対忘れないからね。ほんとに………」
そう言うとオバちゃんの目はなぜか、少し潤むのだった。
「そういや、前にもこんな感じで会った男の子がいたねぇ…あれは確か…」
ーーやばい、もうこれはエンドレスモードだ。
俺は話題が変わったことに終わりを感じた。これがオバちゃんの秘技、会話逸らしである。
案の定、話はじわじわと時間を貪っていった。
………、そして長らく話が続き、結局終わったのはこのあとから一時間後。
もう一人別の同じ清掃員であるオバちゃんに話が移るまでだった。
*
「はぁはぁ…疲れた………」
俺は長い死闘の果てに掴んだ休息を取るため、目に入ったソファーの上に腰掛ける。それまで立ちっぱなしだった足はビクビクと痙攣するほど疲労していた。
「はぁ………」
ため息をつきながら、後頭部をソファの背もたれの上にそえたあと、天井を眺める。
天井は一帯がガラス張りで、外からの光が色づいていた。サグラダ・ファミリアにも劣らぬ景観。
それはまるで、俺が異世界にでも来たかと錯覚するぐらいの幻想的な景色だった。
「これまた、しっかりとした建物だ………」
少し一服したい気分になった。だがここには、そういうひと時のための場所がない。またここに来るまで一度も煙の臭いが漂って来なかった。つまりは喫煙お断りということだ。
「ちっ…気分が悪い…」
勢いよくソファーから立ち、着地するやポケットに手を伸ばした。見渡すと、このフロアの端にある自動販売機が目につく。
「……飲み物でも買うか………」
決まるや、足をそこへと向かわせる。そして自動販売機の前に立つや、並んだ飲み物に目を配る。
「……え………え……あった。160円か。」
手を広げ、そこにある金額を計算する。
160円。ピッタリ、ジャストだ。
俺はそれを小銭入れに流し込み、点灯するボタンを人差し指で押した。
ガタンっ、ペットボトルに入った飲み物が出口から姿を現す。俺はそれを手に取り、キャップを外すや、喉にそれを流し込んだ。
すると、そんな時だ。
ガタっ。
俺の背後で何やら物が落ちたような音がした。なんだろう。そう思い、体を後ろへと反転させる。
「……ああ、あなたは………ああ」
するとそこにはどこかで見た赤い髪の子供が指差していたのだった。




