08.護るから
◆
その瞬間、向日葵は草陰から飛び出していた。
恐怖がなくなったわけじゃない。思考だってまともに動いていない。けれど、行かなきゃという強い思いに突き動かされ、向日葵は駆け出した。
大地と太陽のところへ行っていったい何ができるというのだろうか。大地ですら敵わない相手に、十七の小娘が立ち向かえるはずがないではないか。行ったって、大地たちの足手まといになるだけじゃないのか。
どこかで冷静な声が聞こえてくる。しかし、向日葵の足は止まらない。助けるんだ。今までずっとずっと護ってくれていた大好きな男の子たちを、今度はわたしが護るんだ!
心臓の音がうるさい。耳鳴りがして、視界が霞んで見えづらい。
それでも向日葵は走った。無力だとか、怖いだとか、行って何なるんだとか、そんなことは関係なかった。
護るんだ。
向日葵は大地と太陽の前、怪物の正面に立った。
◆
これは夢だ。
太陽は身体の芯が底冷えした震えとともに、何度目かの独白を胸中で呟いた。これは夢だ、と。
何故なら太陽たち三人は、少し前まで確かに高校にいたのだから。明日に迫った高校最後の文化祭の準備で、夜遅くまで残っていたはずなのだから。
それが突如足元に現れた幾何学模様の光に包まれ、目が覚めたら見知らぬ森の中にいたのだ。到底、現実として受け入れられるはずがなかった。
雲一つない、眩しいまでの快晴の下。爽やかな風に花々は楽しげに揺れ、その花々の間を蜂らしき昆虫がせっせと飛び回っている。
しかし、太陽のすぐ横では親友の大地が苦痛に呻いていた。口元からは血が溢れ、あらぬ方向に折れ曲がった両腕を抱えて蹲っている。
今しがた吹き飛ばされた大地の横で、呆然と太陽は尻餅をついたまま動けないでいた。
快晴の空から燦々と輝く陽の光が、ぞっとするほど冷たい影に覆われる。
「やめてっ!」
その時、恐怖と嗚咽の混じった悲鳴が上がった。
太陽は目を見開き、定まらない視線を声のした方へ向ける。――驚愕に息が止まる。
太陽の目の前には、後方の草陰に隠れているはずの向日葵が、太陽と大地を庇うように両手を上げて立っていたのだ。
見慣れた制服は土で汚れ、憐憫を誘うほど小刻みに震える身体で、しかし向日葵は決して目の前の恐怖から逃げずに対峙していた。
太陽の視線が、眼前の愛しい少女からさらにその奥へと向けられる。
逆光でその姿は陰に隠れてはいるが、そのおぞましい様を隠すには到底いたらない。
三メートルは優に越す巨躯。毒々しい緑色の肌の下には、ブヨブヨとしていながら強靭さが伺える筋肉が視認できる。血のように朱い双眸がぎらつき、釘のような不揃いの歯が、大口を開けた中にしかと見えた。
怪物の足が、太陽と大地を庇う向日葵へと一歩踏み出される。生き物が腐ったような、すえた耐えがたい異臭が鼻につく。
「来ないで! あっち行ってよ!」
涙に掠れながら少女が力の限り叫ぶ。しかし、その哀願が心地よいとばかりに怪物はにたりと口角を吊り上げた。
これは夢だ、と再度太陽は藁にもすがる思いで念じ続ける。目が覚めたら見知らぬ森にいて、その数時間後には見たこともない怪物に襲われているだなんて――悪夢以外の何物でもなかった。
怪物が緩慢な動作で、右腕を後方へ引き絞る。その右腕の先には剃刀のような五つの鉤爪が、陽の光を浴びて鈍く光っていた。怪物の腕力に加え、その五つの刃のもとでは、向日葵の華奢な身体など簡単に貫くだろう。
怪物が最後とばかりに、反動をつけて右腕の肘を後方へ突出し、身体をゴムのように引き絞った。
それを確認した瞬間――太陽は無我夢中で立ち上がり、目の前の向日葵を突き飛ばしていた。
悲鳴を上げる間もなく、向日葵は太陽に突き飛ばされる。
次の瞬間、太陽の身体が宙に浮く。
一拍の後、抗えない波にのまれ、太陽は堪らず嘔吐する。
今まで感じたことのない悪寒が体中を這い回る。視界が急激に霞み、ちかちかと火花が散った。
腹部に感じる猛烈な異物感。霞みがかり今にも消え入りそうな視界で確認すると、毒々しい緑の幹が太陽の腹部を貫通していた。貫いている幹にはおびただしい量の赤色に濡れており、おぼろげな意識で太陽は先ほど嘔吐したものを理解した。
身体のありとあらゆるところから、力という力が抜け落ちていく。底の見えない昏い深淵に沈みながら、最後の力を振り絞って太陽は視線を動かす。
視線の先には、突き飛ばされた向日葵が、愕然としたまま太陽を見つめていた。青白く、涙でぐしゃぐしゃになり死にそうな顔をしながらも、向日葵は確かに無事だった。今にも死にそうでも、ほんのわずかな時間だとしても、向日葵は今生きている。
その安堵が、太陽のほとんど動かなくなった顔の筋肉を弛緩させる。
太陽の頬を一筋の涙が流れ落ちる。僕ができるのはここまで。大地みたいにかっこよくなかったけど。そう思うと無力感と絶望と、ほんのひと匙の達成感が太陽を満たした。
逃げて、と言おうとした。けれど太陽の口から零れたのは血の塊だけだった。
それを確認した向日葵の目から大量の涙が流れる。そして、首を緩やかに左右に振りながらぽかんと開いていた口がこれでもかと開き、
「い――っやああああああああああああああ!」
向日葵の絶叫が、邪悪な森の中に響き渡る。
そんな向日葵の惨状に、太陽ははらはらと涙が零れ落ちた。
怪物が煩わしいハエを払うように、太陽を貫いた右腕を後ろに振るう。
遠心力に従い太陽は怪物の腕をずり動く。怪物の鉤爪に内臓を抉られるのを感じながら、太陽は宙へ投げ出される。
太陽のほとんど見えない目が、霧に覆われた見通せない奈落のような崖の下を映す。
――向日葵さん。
寸前に見えた少女を心から想いながら、太陽は崖の下――奈落の底へ落ちて行った。