07.現実逃避
その咆哮を耳にした向日葵は、堪らず身をすくませて物陰に隠れた。
怖くて怖くて、目を固く瞑る。身体が奮えるのが止まらない。歯の根が合わずにカチカチと音が鳴り、寒気は増すばかりだ。
再び咆哮が聞こえ、続けて大地の声、そして爆発のような轟音が向日葵の耳に届く。
向日葵の脳裏で、大地が怪物の手で切り裂かれたイメージが駆け巡る。慌てて向日葵は目を見開くと、隠れていた物陰から広場を伺った。
怪物が左腕の鞭を地面に叩きつけていた。地面が爆裂したように跳ね上がり、花弁が散り散りになって飛び交う。
怪物の鞭を大地は避けていた。体中土まみれだったが、未だに攻撃を受けていないようだ。
大地が顎に伝う汗を右の手の甲で乱暴に拭った。
怪物が吼える。今度は鉤爪の吐いた右腕を、大地の身体を貫通させようと伸ばす。身体を横にして避ける大地。怪物はすぐさま腕を振り大地の後を追う。迫る腕を大地はしゃがんで避けた。そして、そのまま怪物の脇腹に右のストレートを打ちこむ。怪物がわずかに下がる。その隙を逃さず、大地も大きく後ろに下がった。
そして、一人と一体は再び相対する。
向日葵は無意識のうちに、両手を祈るように強く組み合わせていた。
どうか、どうか、大地を助けて。握りしめた手が青白くなっても構わず、向日葵は大地と怪物の攻防を見ながら祈った。
◆
大地は内心でにやりとほくそ笑んだ。
息が荒い。どんなに息を吸い込んでいても吸い込めている気がしない。酸欠と緊張で視界がちかちかとする。心臓が今にも爆発しそうなほど脈打っていた。冷や汗が次から次へと溢れ出て来て、滝のように顎へ伝い地面へ落ちる。制服の中はぐっしょりと濡れて重たいし、外側は泥だらけだ。
怪物の攻撃を避ける度に心臓が縮み上がるのを感じた。一瞬一瞬の境界線上で生と死の綱渡りをしているみたいだ。
大地は心身を落ち着けるための呼吸法を試す。ゆっくりと息を吸い、一気に息を吐き出す。
大地はさっき怪物の脇腹を殴った時の感触を思い出す。確かに分厚い感触だった。だが、分厚いだけで、その感触は人間の脇腹のそれだった。
右ストレートを食らわせてやった時の映像を思い出す。殴った瞬間、怪物は確かに後ろへ下がった。
つまり、それは。
脇腹という部位は、怪物と比べて矮小な大地の攻撃でも下がってしまうほど弱い部分と言えるのではないだろうか。
そうとわかれば、次の手が打てる。人型の怪物が人間と同じように脇腹が弱点だとするのならば、怪物は人体の構成とかなり似通っていると仮定できる。
ならば。
怪物の弱点が、人間と同じとするのならば。
これを糸口にチャンスを作れるかもしれない。
大地は気迫とともに構える。
そして、怪物に向かって飛びかかった。
◆
怪物がその鉤爪のついた右腕を横薙ぎに振るう。大地はそれを屈んで躱し、深く怪物の領域を犯す。そのまま左の拳で脇腹にジャブを一撃。怪物の上体がわずかに後ろへ下がったのを確認して、右へステップを踏む。そのまま人体の急所である鳩尾へ渾身の右ストレートをお見舞いする。
「グルアッ!」
はじめて怪物が苦悶の声を上げた。大地はそのまま止まらない。右のひじを思いっきり後方へ引き、その反動を利用して左でも渾身のストレートを放つ。
怪物が二歩後方へ下がる。怪物は身体をくの字に折り曲げた。すると怪物の顎がすぐ頭上に見える。大地は膝を曲げ、そのバネを存分に使い、右の拳を怪物の顎めがけてアッパーカットを食らわせる。
「グッ!」
怪物の釘のような歯が砕けた。怪物の頭部が弾かれたように飛び上がる。
大地の動きは止まらない。地面に戻った身体を再びバネを使って飛び上がり、今度は身体を捻って力をためる。
「これで終わりだぁ!」
大地はそのまま半回転し、再び怪物の鳩尾めがけて飛び後ろ回し蹴りを見舞った。
大地の猛攻を受けた怪物が三歩後ろへたたらを踏み、そのまま耐え切れず尻から地面へ倒れる。
それを確認した瞬間、大地は叫んだ。
「今だっ!」
◆
「今だっ!」
大地の声が聞こえた瞬間、太陽は駆け出した。恐怖で目じりから勝手にしずくが零れ落ちていく。それでも大地の言葉を頼りに太陽は駆け出した。
目の前にいた怪物の右横を通り過ぎていく。ちらりと視界に見えた怪物は体勢を立て直そうとしていた。
早く、早く通り抜けなきゃ。一秒でも早く、一瞬でも早く。そうしなければ、右の鉤爪で八つ裂きにされるか、左の鞭で骨を砕かれかねない。
太陽は懸命に走った。狭まった視界でも、遠くに見えた森の入り口がどんどん近づいて行くのが見えた。
不意に、太陽の視野が人影を捉えた。向日葵だ。向日葵は祈るように両手を併せていて、今にも泣きそうな顔で太陽を見ていた。
怖いやらほっとしたやら情けないやらで、何故だか猛烈に泣きたくなる。だが、今はそんな感傷に浸っている暇はない。大地が作ってくれたこの一瞬、それを活かすために走って森へ逃げ込まなければいけないのだ。
ただ全力で走る。ちくしょう。やっぱ、大地はかっこいいなぁ。走りながら太陽は胸中で呟いた。たった一人で、大した武器もないのにあの怪物に立ち向かうなんて。それも、一人で勝手に逃げ出した足手まといを助けるためになんてさ。
太陽は下唇を強く噛みしめた。ほんと、アマミヤ兄弟の兄と弟の間で雲泥の差があるよな。
「大地っ!」
太陽の思考を切り裂くように、不意に血相を変えた向日葵が悲鳴を上げた。
◆
気を抜いた。ゆるんだ。決してやってはならないことをしてしまった。
太陽を逃して、思わず完全に気が緩んでしまった。
一瞬。まさに一瞬だった。
怪物は右手を軸に回転しながら左の鞭を薙いできた。大地はそれを慌ててしゃがんで躱す。しかし、急に対応できたのはそこまでだった。
怪物は回転した勢いのまま二本の足で地面に立つと、大地に向かって前蹴りを放ってきた。
技もへったくれもない純粋な暴力。しかし、巨躯から放たれた力は暴流となり、大地に猛威を振るった。
大地はその一瞬、ギリギリのところで両の腕で怪物の攻撃をガードすることに成功する。
怪物のつま先が両腕にあたった瞬間、バギッ、という自らの骨が砕かれる音が耳朶を打った。
そのまま、大地は威力をまったく逃せられず、後方へ吹っ飛んでいった。
◆
向日葵の悲鳴が聞こえた直後、大地は背後から強烈な衝撃を浴びる。
「かはっ」
たまらず残りわずかだった息を吐きだし、後方の衝撃を受けるまま前へ飛びだし、地面の上を無様に転げまわった。
通常ならばこれだけの衝撃を受けたら動けなくなるが、今の太陽はアドレナリンが以上に出ていて、痛みをそんなに感じることがなかった。だから太陽はすぐさま起き上がる。すると、わずか離れたところに大地がいた。
「大地、しっかりしろっ!」
「う、ぐっ、ううぅ……」
太陽はすぐさま大地の元へ駆け寄る。大地の両腕は真ん中からあらぬ方向へ曲がっていた。
折れているんだ。太陽は堪らずそれを理解する。大地の両腕は中ほどから完全に骨折してしまっていた。これじゃあまともに逃げることも叶わないじゃないか……。それを悟った太陽は、再び絶望感に苛まれた。
ずしん、ずしんという音が否応なしに聞こえてくる。太陽はその音の発信源に向かって、ぼんやりと視線を向ける。
案の定、怪物が太陽と大地の元へゆったりと歩いてくる音だった。
これは夢だ。
視線を下げると、両腕を粉砕された大地が痛みに呻いている。額から絶えず脂汗をだし、その顔色は引くほど青白かった。
これは夢だ。
太陽は再び視線を音の発信源へ戻す。
釘のような歯が蟲のように蠢き、その顔は得物を屠るという未来に歓喜しているようだった。
これは夢だ。
猛烈な絶望感が、太陽の思考を完全に奪い去る。なまじ希望が見えただけに、その落差は先ほどの比ではなかった。
これは夢だ。
怪物の影の先端が、そのまますっぽりと太陽と大地を覆った。
陽の光を感じられない、冷たい影の中。
現実から逃避するかのように、太陽はそっと目を閉じた。