05.逃走の果てに
最初に悲鳴を上げたのは太陽だった。締まった喉を無理やりこじ開けたような悲鳴が、鬱蒼とした森に響き渡る。
太陽は怪物を背にして一目散に駆け出す。ほとんど同時に、太陽の突然の悲鳴に呆気にとられていた向日葵の手を掴み、大地は太陽の後を追って走り出した。
「なっ、なにあれ!?」
「後ろを振り返るな! 走れっ!」
わずかに後方を見てしまった向日葵の手を掴み、引きずるように森の中を駆ける。
背後から怪物の声らしき唸り声が聞こえた。続いて、重々しい足音と同時に木が木端微塵になっていく音が聞こえてくる。二人の、すぐ背後で。
「ひっ……!」
「ちっくしょうがあ!」
向日葵の短い悲鳴を聞きながら、大地は怒声をあげる。
地面から浮き出た根っこが縦横無尽に張り巡らされており、わずかに沈む腐葉土の足場が足を捉えようと牙を剥いていた。
こけたら一貫の終わりだ。大地は向日葵を引きずるようにしながら、全速力で駆けた。
大地の視界の先では、太陽が半狂乱になりながら走っている。この状況に完全に我を忘れているのが見て取れた。めちゃくちゃに木々の間を縫うように走り続ける太陽を見失わないように、大地もその後を追いかける。ここで離れ離れになればそれこそ終わりだ。
後ろから木々が粉砕される、メキメキといった音が断続的に聞こえてくる。だが、聞こえてくる音は僅かながら遠のいて行き、怪物との距離が開いたように感じた。太陽が縫うように木々の間を駆けているため、偶然ながら怪物の走行を鈍らせているようだ。
大地は一瞬確認できた怪物の姿を思い出す。毒々しい緑の肌。三メートルにまで達しているだろう巨躯は全体的にぶよぶよとした脂肪に覆われていて、しかしその下には隆々とした筋肉が伺えた。
そして、その木の幹のような左腕の先は手の代わりに尻尾のような鞭となっており、右腕には五つの鉛色に輝く巨大な鉤爪があった。
怪物の咆哮が音の衝撃波となって背中を打った。それと同時に、蔦に覆われた太い木々を引き裂き、薙ぎ払う音が背中を追いかけてくる。
縮こまった心臓が加速する。大地の耳に、自身の早鐘のような鼓動ががんがんと鳴り響いた。
「くっ……そ……!」
思わず漏れた怨嗟の呟きも、すでに絶え絶えとなった息でまともに言葉の体を成してなかった。大地は悲鳴を上げる身体に鞭打ち、とにかく全力で走った。すぐ背後から向日葵の荒い息が絶えず聞こえていた。もう完全にばてている向日葵の手を決して離さないように、力の限り握りしめる。
「あっ」
その時、向日葵が根っこに足を取られてしまう。向日葵はつんのめって転がり、引きずられるように大地も前のめりになる。倒れ込みながら、大地の脳裏であの凶悪な鉤爪に向日葵もろとも八つ裂きにされる己の姿が弾けた。
大地と向日葵の二人はもつれあうように倒れる。しかし、その下は小さな崖になっていた。崖を転がり落ちながら、大地はなんとか向日葵を抱きかかえる。重力に抗うすべなく、大地と向日葵は全身を強く打ちつけながらごろごろと落下していく。
すぐに崖の下に辿りついた。全身を襲う痛みを無視して、大地はすぐさま顔を上げて立ち上がろうとする。
しかし、そこに怪物の姿はなく、それどころか木が折れる断続的な音も遠ざかっていた。
たまらず、大地は安堵のため息を吐く。背後の死が過ぎ去ったことで、強い生の実感が心身を満たした。心臓は痛いほど暴れまわっており、息もまともに吸うことさえ叶わない。全身も悲鳴を上げて節々が猛烈に痛かった。
大地の下では、同じように向日葵も荒い息を吐いていた。強く抱きしめた身体から伝わる激しい鼓動と熱いほどの体温に、大地は心の底からほっとした。
その直後、その気づきに冷や水を浴びせられたかのように大地の心が震えあがった。
太陽が、危ない。
◆
太陽は半狂乱になりながら薄暗い森の中を走っていた。
視野は極限まで狭まり、どこをどう走っているのかも定かではない。額から伝ってきた汗が、つぅと顎を伝い後ろへ飛んでいく。
その耳に聞こえるのは、自分の荒い息と、狂ったように暴れまわる心臓の音――そして、背後から聴こえてくる破壊の音だった。
死。
その一文字が太陽の脳内でけたたましく点滅しており、あまりの強烈さに目の裏で火花が散って見えた。
死が迫りくる音に、太陽は無我夢中で森の中を走り続ける。
太陽の向く手の木々が、突如開けた。
一瞬も思案することなく、太陽は森から抜けてしまう。
開けたそこは、辺り一面の花畑だった。色とりどりの華やかな花々が、その花弁を楽しそうに広げている。その間を蜂のような虫がせっせと飛び回っており、蝶のような鮮やかな羽が楽しげに舞い踊っていた。
しかし、太陽にはそれらの一切が見えていない。
綺麗な花を乱暴に踏みしめる。花弁がはかなく散り、虫たちが慌てて飛び退る。
花畑の先にあるものを見つけ、ついに太陽の足が堪らず止まってしまう。
その先は崖があった。崖の下は白い霧に覆われており、その下を伺い見ることは不可能だった。
慌てて太陽は後ずさる。足元がわずかに砕け、地面が崖の下へ落ちて消え、落下音すら聞こえなかった。
息も絶え絶えのまま太陽は来た道を引き返そうと振り返った。
「そん……な……」
そこには追いついた怪物がいた。退路は完全に断たれている。あまりの絶望に、太陽の心が黒く塗りつぶされていくのを感じた。
怪物が口の端を吊り上げる。埋め込まれた釘のような歯が蠢き、その奥の真っ赤な口内が見えた。
怪物が一歩ずつ、ゆったりと歩み寄ってくる。その瞳孔のない、のっぺりとした血のような双眸の中に太陽自身が見えた。その濁り切った鏡のような瞳に囚われた太陽は、そこから一歩も動くことができなかった。
「こんなの、ウソだ。現実じゃない」
弱々しく太陽は呟く。これは夢だ、こんなの夢に決まってると何度も胸中で叫んだ。目の前の事象を現実として受け入れることがまるでできなかった。
逃げられない得物を見据え、怪物はそれが心底愉快だと言わんばかりに唸った。
足が震え、腰が砕ける。太陽は地面に膝と両手を着いた。前は怪物、後ろは奈落。絶望に何も考えられず呆然となる。
跪いている太陽に、深く冷たい影が覆った。なんとか顔を上げると、すぐ上から怪物が見下ろしていた。
目の前の得物をいたぶるかのように、怪物の口が歪む。
数拍後に八つ裂きにされる己の姿を幻視し、太陽は現実から逃れるように強く目を瞑った。
ゆったりと怪物の右手が持ち上がる。その鉤爪が今にも太陽を八つ裂きにしよと、振りかぶられた。