03.運命の夜
笠原向日葵は、まとめた書類を机に置き、ほっと息を吐いた。
ふと視線を外へ向けると、すでに外はどっぷりと夜の帳が降りていた。時計を確認すると、最終下校時間は当に過ぎている。それを確認すると、遅くまでかかっちゃったなぁ、と向日葵は息を吐いた。
向日葵は生徒会室を見やる。向日葵以外の誰もいない生徒会室は、ペンキを入れたパックや書類があちらこちらに散らばっていた。向日葵は先ほどまで、日中の混乱でできなかった今日までの資料を作成していた。他の生徒会役員も残ると言ってくれたのだが、向日葵はそれをやんわりと断り、全員帰宅させていたのだ。
「もう、明日が本番、か……」
思わずぽつりと呟いてしまう。はっきりとした高揚と、ここまで積み上げてきたと言う達成感、そして一抹の寂しさを感じる。
明日が、幼馴染三人で向かえる最後の文化祭になる。そう思うと、なんだかとても不思議だった。
お昼ご飯を食べていたあの時のことを思い出す。刻一刻と迫る"最後の刻"を感じて、つい三人ともが口に出すのをためらった話題を出してしまった。
向日葵は小学五年生の時から大地の家、天宮家に居候している。すでに向日葵と最初にいた「家族」は、全員事故死している。親戚の家をたらいまわしにされ、疎まれることが確定していた向日葵を居候させてくれた天宮家には、本当に感謝していた。恩返しをしなければと思う向日葵に、自分の好きなように生きなさいと言ってくれた大地の両親には感謝してもしきれない。
それ以上に、向日葵は幼馴染である二人の男の子たちのことを感謝していた。
あの辛かった時に、しっかりと手を差し伸べてくれた大地と、気にかけて傍に入れてくれた太陽。こんなに夜遅くまで付き合ってくれて、今は連れだって自販機に飲み物を買いに行ってくれている幼馴染たちを思うと、いつだって笑顔になれた。
向日葵は自分の容姿のことをきちんと把握している。大勢の人に『卵白の姫君』『白魚の人魚』『マシュマロの天使』そして『白玉の妖精』の愛称で(気に入らないとはいえ)親しまれているのも知っている。
けど、同時に多くの嫉妬や怨みを向けられていることも痛いほど知っている。人よりも優れている容姿に対する、様々な醜い感情を身を持って知っている。
小さい頃はそれに悩み、本当に人が怖かった。
そんな向日葵を救ってくれたのが大地と太陽だった。多くの嫉妬や好意から、その身を挺して守ってくれていた大地と、困っている時や泣きたい時に察して傍にいて気遣ってくれた太陽。二人がいてくれたから、向日葵は今の自分が在るのだと断言できた。
その二人と違う道を歩むことになる。三人の絆が不滅だと信じてはいても、物理的に遠ざかってしまうことになる。二人の、ある意味庇護の元から離れるというのは、やっぱり怖かった。
でも、向日葵はもうその心配はしていない。昼ご飯を食べたあの時に、その心配はどこかへ吹き飛んでしまった。
太陽が気持ちを察してくれて、それでも微笑んでくれた。
大地が気持ちを汲んでくれて、それでも親指を立ててくれた。
それだけで、向日葵は胸を張れた。大丈夫だと信じることが出来た。
腰に両手を当て、大きく息を吐き出す。
明日からの文化祭を最高のものにする。そう約束したし、そう決めた。もうわたしは大丈夫だと、二人に示すのだ。向日葵の胸を暖かいものが満たす。
その時、生徒会室の扉が開く。
「お待たせ」
「おう、もう終わったのか?」
現れたのは、大好きな幼馴染の男の子たちだった。
その姿を見て、向日葵は自然と満面の笑みを浮かべる。
「はい、これ。カフェオレで大丈夫だったよね」
言いながら太陽がカフェオレを差しだしてくる。好んで飲むそれを、なにも言わずに買ってきてくれたことに喜びが溢れる。
「ありがとっ」
受けると、太陽は嬉しそうに笑った。その笑みはいつだって、向日葵を安心させてくれた。
「んで、もう終わったのかよ」
「うんっ、お待たせっ」
大地もにかっといつもの笑みを浮かべる。見上げなくちゃいけない、体格のがっしりした大地の笑みは、いつだって向日葵を勇気づけくれた。
太陽に渡されたカフェオレのストローを差し、飲む。甘い味が、とても安心した。
「じゃ、俺たちも帰るとするか」
「そうだね」
「あ、今カバン取ってくるね」
向日葵はぱたぱたと帰り支度を始める。準備が出来て二人を見ると、二人は生徒会室の前で向日葵を待っていた。
生徒会室の鍵を締め、三人で連れだって歩く。
「鍵はどうするの?」
「職員室に返さなきゃ。遅くなったから怒られちゃうかな?」
「だとしたら、ヒマひとりだけだろうな」
「なにおー!」
いつもの会話をしながら職員室へ向かう。足はとても軽かった。
生徒のいなくなった廊下は、非常灯が付いているくらいで、ほとんど真っ暗だった。こんな廊下、普通なら怖くて不気味以外の何物でもない。一人だったらびくびくするに違いないと、後ろ向きに断言できるくらいだ。でも、向日葵はそんなことは微塵も感じなかった。
向日葵の視界の先で、大地と太陽が会話をしている。
「そんなこと言っちゃダメだよ、大地」
「でも、こんなに遅くなったのはヒマが今日までの資料を作れなかったからだろ?」
「忙しかったんだからさ。仕方ないって」
軽く言い争う二人を見て、向日葵は笑みを隠しきれない。
向日葵と大地と太陽の三人は、キミコーの中でも一番の有名人だ。そう言うと太陽は、二人には負けると言うだろうが、向日葵は知っているのだ。
天宮大地と雨宮太陽。
奇しくも同じ読みの「アマミヤ」である大地と太陽は、「アマミヤ兄弟」の愛称で女子の間で有名だったりする。頼りがいのある大地と柔和で優しい太陽を、大地が兄で太陽を弟と見立てて、女子の間ではそれはもうかなり話題になっているのだ。それは、どっちを彼氏にしたいかという話だけでなく、BとL的な意味でも、というのも向日葵はよく知っている。それを知ると二人は一様に嫌な顔をするだろうが、でも、大好きな幼馴染の二人が女子の間で人気というのは、向日葵としても非常に誇らしかった。
向日葵は笑みを浮かべる。
「太陽くんは優しいなぁ。それに比べて大地ときたらさ。そんなんじゃ女の子にモテないよ?」
「はっ、興味ねえな」
「またまたぁ。強がっちゃって」
向日葵とて、大地が本当はモテモテなのは重々承知している。でも、ついついからかってしまうのだ。
三人の関係はいつまでも、きっと変わらずこのまま続いていくのだろう。三人揃ったら向かうところ敵なしの最強なのだ。
それを思うと、嬉しくてたまらなかった。
その時、それは起こった。
三人が夜の廊下を歩いていると、突如三人の足元が光り出したのだ。
赤青黄色、その他さまざまな色がうねりを上げて輝く。光の胞子が辺りを満たした。
「えっ、なに!?」
向日葵は思わず悲鳴を上げる。訳が分からなかった。
足元の光源は、細い線が幾重にも張り巡らされ、幾何学模様を形作っていた。それらは動きながら、わずかに鼓動を刻んでいた。
「ちくしょうっ、どうなってんだ!」
大地が慌てて声を荒げる。
その時、脈打っていた線が、その鼓動を強めた。それに従い光も強くなり、目も開けてられなくなる。
向日葵は身体を引っ張られる感触に、一気に血の気が引くのを感じた。目に見えない、何か巨大な引力に引きづりこまれそうな、自分の存在がこの世界から剥離していくような感覚。存在の座標がずれていく、おぞましい感覚だった。
「向日葵さんっ!」
太陽の悲鳴が聞こえ、腕を掴まれる。痛みを感じながらも確かに感じる温もりに、少しだけ安心した。
しかしそれもつかの間。
それを最後に向日葵は強引に"攫われ"、どこへともしれない場所へ意識を手放した。
◆
向日葵が次に目を覚ますと、そこは温かな日差しの差す――見知らぬ森の中だった。
これにてプロローグは終了です。