02.遠くない先、別れる道
「あー、もうっ、みんなしてみんなして、最終日までサボりすぎっ!」
学校の中庭の一角、三人にとってお馴染みの木陰で弁当を開くなり、向日葵が小さく文句を言った。
その視界のあちらこちらでは、文化祭の準備が行われていた。
「仕方ないよ。みんな追い込みなんだから。ペンキとか釘とか、どうしても重なっちゃうって」
未だに頬を膨らませている向日葵を太陽はそっと慰める。
この文化祭準備期間、生徒会は資材の貸し出しやトラブルの対処、加えて書類の処理に追われていた。
進学校でありながら行事ごとも盛んな藍欧高校では、文化祭の力の入れようもそれなりにレベルが高い。その準備最終日ともなれば、各クラスがこぞって追い込みとなり、結果ペンキやマーカー、ビニルテープやガムテープといった資材の争奪戦へとなってしまっていたのだ。
もちろん、ガムテープなどといった資材は各クラスで準備もしているし、各クラスに一つずつ生徒会としても支給はしている。しかし、準備に熱が入ればガムテープ一つなどでは到底まかない切れない。そうなると各クラスごとに購入するしかないのだが、その財布元は所詮高校生のものだ。たとえ三百円程度であろうとも、数が多くなれば出し渋るところも多い。
加えて、クラスでは準備と管理が難しいものもある。ペンキなどがその代表格だ。そのようなものは生徒会に申請に来て、貸し出しをしている。だが、当然の如く色や数に限りはある。
それらの対抗策として、向日葵率いる生徒会は例年よりも大幅に生徒会予算を組んでいたり、少ない役員メンバーを効率よく窓口や購入班などに分けて対応していたりしていたのだ。
しかし、それも文化祭準備最終日となり、各クラスが一気に押し寄せてきたためにパンク寸前にまで追いやられていた。忙しすぎて、向日葵が昼食を食べられるようになったのは、午後二時を過ぎてからになってしまっていたのだ。
「もうっ、わたしお腹ぺこぺこだよ!」
向日葵はご立腹な様子で、もきゅもきゅと弁当の食材を口に運んでいた。
その横で苦笑を浮かべながら、太陽も持ってきた弁当を食べる。
「まあまあ、向日葵さんががんばってくれてるから、なんとかパンクせずに済んでんだしさ」
そう言うと、向日葵が小さく太陽に手を合わせる。
「ごめんねー、手伝ってもらっちゃって。太陽くんも文化祭実行委員長としていっぱいお仕事あるのに」
「いや、僕の方は今のところ上手く回ってるからさ」
謙遜を言う太陽に、向日葵が元気よく頭を下げる。
「おかげで生徒会がパンクせずにすみました。ありがとうございますっ!」
「どういたしまして、だね」
太陽は向日葵のお礼を有り難く頂戴する。頭を上げた向日葵は可愛らしい小さなフォークをお弁当に差し入れる。それを、おそらくお手製であろうたこさんウィンナーに刺し、ぴっと上に立てた。行儀の悪いそれも、向日葵がやると愛嬌があって全然気にならない。
「さすが太陽くんだよね。生徒会よりも人数は多いとはいえ、委員会なんていうつまらない仕事を、みんなのモチベーションを保ちながら不満の出ないように効率よく回すなんてさ。今日の委員会関連のトラブルもさくっと解決しちゃうし」
向日葵が感心ししきりと言った感じで何度も頷く。
自らなった生徒会役員とは違い、委員はクラスから強制的に二名選ばれる。当然、モチベーションは生徒会のそれと比べるまでもなく低い。実行委員の仕事よりも自分のクラスの準備の方をみんな優先したいと考えるのも当然のことだった。
だからこそ、太陽はできる限りの準備を前倒しして、その上この二日間にもわたる準備期間の内、全員に丸一日自由になるようにシフトを組んでいた。当然、それができるのもそれまでの準備を効率よく回して、ほとんど終わらせたから、なのだが。
太陽自身はみんなががんばってくれたからと思っており、そこまで大したことではないと思っている。
そんな太陽の思いを、向日葵は簡単にできることじゃないと言い切る。
「うん、流石はわたしの自慢の幼馴染だね! 太陽くんが実行委員長じゃなかったら、今頃もっと大変だったろうし、ここまで大きくなれなかったと思う。太陽くんがいてくれないと思うと、本当にぞっとするよ!」
「い、いやぁ、それほどでも……」
向日葵の手放しの賛辞に、太陽はたじたじと言葉を濁してしまう。
そんな太陽の横から、どろどろとした気配が零れてきた。
「ていうか、なんで役員でもねえのに、俺は生徒会と文化祭実行委員の手伝いに駆り出されてんだ? おかげでこんなにも飯食うのが遅くなるしよ」
「まあまあ」
向日葵の右隣、太陽の左隣に座って焼きそばパンを食べてる大地も文句を述べ始める。
生徒会長の向日葵や、文化祭実行委員長である太陽と違い、大地はどこにも所属はしていない。強いて言えばクラスの出し物の手伝いくらいだ。
一人でクラスの出し物をのほほんと作っていた大地を、向日葵が「大地っ! 生徒会を手伝って! ほら早く!」と拉致してきたのだ。
クラスの出し物で、力持ちの大地を引き抜かれるのはクラスとしても痛手だろうに、にこやかに送りだしていたクラスメイトの姿を太陽は思い出す。その光景に苦笑を浮かべるしかない。
向日葵が大地を連れまわしているのは、すでにキミコーお馴染みの光景であり、そこに太陽も一緒であると言うのは、もはやキミコーの日常と化していたりした。
天真爛漫に笑顔を振りまき、温かで朗らかで掛け値なしの美少女の向日葵と、精悍な顔つきとがっしりとした体格、漢気に溢れ周辺他校からですら頼りにされる大地。この二人は、当たり前だが凄まじくモテるのだ。しかし、二人の仲の良さや同じ家に住んでいることもあり、二人の喧嘩はとても和やかに周囲に受け入れられている。中にはどちらかにアタックを仕掛ける猛者も時々はいたが、間に太陽を挟んでも全部失敗に終わっている。
そんな二人であるからこそ、当然の如く学校中の注目の的になる。よく目撃されるし、話題にも上がる。向日葵と大地がキミコーの中心であるのは、誰の目からも疑いようがなかった。
だからこそ、誇らしい幼馴染の、また始まった、すでに日常風景の一部である喧嘩を見て太陽は心が軽やかになるのだ。その仲裁を苦笑しながらするのも、安らぐひと時と言えた。
「ねえ……」
弁当もほとんど食べ終わり、休憩時間も残りわずかとなった時。不意に向日葵は静かに口を開いた。
「大地と太陽くんはさ、進路、もう決めた?」
静かに尋ねながら、向日葵は交互に大地と太陽の顔を見る。
胸がぐっと詰まる。しかし太陽は口を開いた。
「僕は……理系の国立を目指すつもり」
「そっか……」
向日葵の澄んだ瞳が大地を見る。大地は頬をぽりぽりと掻いた。
「俺は勉強なんて苦手だからな。体育系の大学に行こうと考えている」
「そう……そうなんだ」
向日葵がそっと目を伏せる。
その姿に太陽の胸は痛んだ。大地が軽く咳払いしながら、向日葵に尋ねる。
「そういうお前はどうなんだよ、ヒマ」
「わたしも国公立志望だよ。でも……文系、なんだ」
「なるほどな」
「…………」
三人の間に、秋の風がそっと通り過ぎた。
太陽は上を仰ぎ見る。葉っぱの間から陽の光が零れ、その向こうでは澄んだ青空が広がっていた。
小学生の頃に出会い、同じ中学に進学し、それから高校までのおよそ八年間。それだけの時間、三人はいつも一緒にいた。
八年だ。十八年程度しか生きていない自分たちの、それこそほとんどと言っていいほどの時間だ。小中の運動会や文化祭、修学旅行、卒業式。花見や夏祭り、キノコ狩りやスキー教室、それこそなんでもない休み時間。そういった出来事のほぼすべてを、三人は共有してきたのだ。
しかし、それも残りあとわずか。
当たり前の景色が、当たり前のように変わっていく。当たり前のように三人で集まっていた時間が終わっていく。
目を逸らしていたそれを目の当たりすると、やはり寂しさを感じずにはいられない。
きっと、いや確実に、三人で一緒に過ごす時間は減るだろう。各々の生活に呑まれ、顔を合わす機会も考えられないほど減るに違いない。こうやって三人で角を突き合わせてお昼ごはんを食べることも、間違いなく想像以上に減ってしまうだろう。
「大地と太陽くんは、将来の夢とか、あるの?」
太陽が残された時間を数えていると、向日葵が再び静かに口を開いた。
太陽は唾を飲込む。答えなければいけない。そんな時期に、来たのだ。
「僕は、薬剤師になろうと思う」太陽は内心の寂しさを感じながら、決意を持って口を開く。「たくさんの、病気で苦しんでいる人を救う新薬を開発したい」
「……そっか。太陽くんらしいね」
木漏れ日のような優しい笑みを向日葵は浮かべた。その暖かくもはかなげな笑みに、しかし太陽も笑みを返せた。
「俺はまだ全然決めてねえな」大地も続けて口を開く。「だが、俺はバカだから、身体を使う仕事があってるだろうな。消防隊員とかSPとか、それこそ自衛隊とか」
「それは、確かに大地らしいや」
「そうだね」
太陽と向日葵は顔を見合わせて笑う。
笑われた大地が、少しおちゃらけて「だろ?」と胸を張った。
「そういうヒマはどうなんだよ。将来の夢、あんのか?」
言われて、向日葵は僅かに口ごもる。それから少しだけ顔を伏せ、ほんの微かに頬を赤らめた。その姿は、胸を打つほど愛らしかった。
「笑わない?」
「ああ」
大地が鷹揚に頷いて見せる。太陽も胸の鼓動を抑えて、なんとか頷いて見せた。
わずかに逡巡して、向日葵は口を開く。
「わたしは……保育園の先生になりたい、かな」
それこそ向日葵にぴったりだ、と太陽は思った。ピアノを弾きながら園児と歌う向日葵の姿が見える。陽だまりの下で昼寝をしている園児たちに、慈愛に満ちた顔でひとりひとり大切に毛布をかけている向日葵の姿が見える。それはとても柔らかく、暖かくて、幸せな光景だった。
「うん、向日葵さんにぴったりだ」
「だな」
だから太陽は大きく頷く。隣で大地も鷹揚に頷いていた。
そんな二人を見て、向日葵はさらに頬を赤くして、それでも嬉しそうにはにかんだ。
太陽は改めて上を仰ぎ見る。葉っぱの間から零れる光と、その向こうに見える澄み渡った青空。そして、通り過ぎる秋の涼しい風。
当たり前の景色が、当たり前のように変わっていく。当たり前のように三人で集まっていた時間が終わっていく。
それはとても寂しいことで、でも悲しいことでは決してない。
確かに三人で一緒に過ごす時間は減るだろう。各々の生活に呑まれ、顔を合わす機会も考えられないほど減るに違いない。こうやって三人で角を突き合わせてお昼ごはんを食べることも、きっと想像以上に減ってしまうだろう。
けれどそれでいい。三人の道はそれぞれ違うのだから。寂しいけど、悲しむべきことではない。たとえ、こうして三人で当たり前のように一緒にいられる時間が、残りわずかだとしても。三人で揃うことがなくなるなんてことは、絶対にないのだから。
「文化祭、楽しいといいね」
太陽は突き動かされるまま口を開いた。
それを受けて、大地がすぐさま返す。
「何言ってんだよ、太陽。歴代最高のキミコーの生徒会長と文化祭実行委員長が率いていて、その上それを支えている俺様がいるんだ。楽しくないわけがないだろ?」
大地が腕を組みながら、にかっと笑って親指を立てた。
太陽は向日葵ときょとんと眼を見合わせ、同時にぷっと噴き出した。
「そうだね」
太陽が同意すると、向日葵は胸を張った。
「当ったり前でしょ! なんてったって、わたしたち三人が力を併せているんだから、向かうところなしの最強に決まってるでしょ。キミコーの歴史に名を残す文化祭になんだからっ!」
そういって、向日葵も親指を立てる。その顔に浮かんでいるのは、伸び伸びと花弁を広げているヒマワリのような笑みで、力強くまぶしかった。
「おうさ!」
それに合わせて大地もぐっと親指に力を入れる。
大地と向日葵の視線が太陽に注がれる。
太陽も笑って、親指を立てた。
「もちろん」
三人は親指を立てた拳をぶつけ合う。
「よーしっ、もうひと踏ん張りだっ! えいえいおー!」
向日葵の元気な掛け声とともに、三人は声を上げながら、突き合わせた拳を青空へ向かって高々と掲げた。
三つの拳は木漏れ日を受け輝き、その葉っぱの向こうでは澄み渡るような青空が受け止めていた。それは、三人の行く末を祝福している福音に思えた。
最高の文化祭になる。生涯忘れられない、大切な文化祭に。
そう、太陽はその時確信したのだった。
――その夜、あんなことになるまでは。