01.太陽と大地と向日葵
「いってきます」
そう言って、雨宮太陽は玄関を開けた。十月も下旬に入り、少しずつ肌寒くなった気温に僅かに身をすくませる。
時刻は午前七時十分前。昨日よりもまた少しだけ早く家を出れた。
そのことに、太陽はほんのわずかに頬を緩める。きっと、今日も待ち合わせ場所には先に着けるだろう。あとからやってくるだろう負けず嫌いな少女の、ぷっくりと膨らんだ可愛い頬を見ることができるに違いない。
太陽の足は軽やかだ。今日は藍欧高校で向かえる最後の文化祭前日。文化祭実行委員長として彼女と関われるのも、あと残り二日だ。今となっては、日数の少なさに少しだけ寂しさも感じる。
楽しい思い出を作ろう。悔いの残らないように、精一杯。
太陽は前を向いて歩く。
例え、彼女の隣にいるのが自分でないとわかっていても。
◆
「あ、太陽くんもういた。おはよー!」
その鈴のような声に太陽は顔を上げる。そして、声の主と、その横にいる親友を見て笑みを浮かべる。
右手を大きく振っているのが、笠原向日葵。長く、まさにカラスの濡れ場ともいえる黒髪をストレートに流している。湛えている笑みは、名前の通り、後ろに太陽に向かって伸び伸びと花弁を広げているヒマワリが見えるようだ。
太陽が初めて向日葵と出会ったの小五の時。その時にも思ったが、彼女こそが現世に迷い込んだ天使に違いない。向日葵を見た瞬間、声を聴いた瞬間、あっという間に太陽の胸は高鳴った。何故なら向日葵は太陽にとって初恋の相手だからだ。その想いは高校三年生になった今でも繋がっている。
向日葵の横で片手を上げているのが、天宮大地。精悍とした顔。空手の全国大会にまで行った、引き締まった肉体。背も太陽より頭一つ大きい身長で、正直少し羨ましい。
大地は、小学校の頃から天使の可愛さを持っていた向日葵を、小学生らしい純情でいじめていた男子たちを片っ端から殴り、泣かしていた。その度に、太陽はおろおろとしていたのを今でもよく覚えている。
「おはよう、向日葵さん。それから大地」
太陽は挨拶を返すと、二人の元に歩み寄る。揃うなり、向日葵が口を開いた。
「あーあ、今日こそは先に来ようと思ってたのになー。もうっ、大地が寝坊するからよ!」
天使の微笑みで太陽に向かって話していた向日葵だったが、後半は口を尖らせて隣の、彼女の頭二つ分はあるだろう大地に文句を言っていた。
「うっせえな。あーねみぃ」
向日葵の非難がまし声に対して、大地がどこ吹く風とばかりにあくびをする。
そんな大地の様子に向日葵はますます頬を膨らませる。
「大地がベッドからいつまでたっても出てこないから、また太陽くんに先越されたじゃない。今日こそは先に待ってようと思ったのに!」
「別にいいじゃねーか。学校には余裕で間に合うんだからよ」
「でも、わたしは悔しいの!」
「ていうか、お前、昨日より五分早えじゃん。あと五分寝かせてくれてもよかったろ」
「もー!」
両手を地面に向かって思いっきり伸ばしながら向日葵はリスのように頬を膨らませてむくれた。そんな向日葵の姿に、太陽は思わず頬を緩ませる。
現在、大地と向日葵は同じ家で暮らしている。と言っても、二人っきりというわけではなく、大地の両親もいるのだが。
向日葵は、小五の時から天宮家に居候していた。理由は、向日葵が無言で拒絶していたため詳細はまったくと言っていいほど知らない。が、小六の時、友情に厚い大地にこっそり教えてもらったことがあった。
向日葵の家族は、交通事故で家族もろとも死亡したらしい。たまたま家にいた向日葵だけが助かったという。大地は何度も誰にも言うなと念を押して来ていたし、天宮家に引き取られた当初の向日葵は、にこりとも笑わなかった上一言も喋らなかったことから、勇気も子供ながら彼女がショックを受けているんだろうと思ったのだ。
以来、今の今まで一度も大地も太陽も向日葵に家族のことは聞いたことはない。
大地が進行方向へ向き直りながら口を開く。
「んじゃまあ、行きますか」
「そうだね」
それに笑いながら太陽は答える。
「んもー、大地、話聞いてるの!」
「はいはい、行きがてらゆっくり聞いてやるから」
言い争いをする大地と向日葵の後ろを歩きながら太陽は苦笑する。これが三人の定位置だった。
「それにしても、今日が文化祭準備最終日かー」
指を口元に付けながら、名残惜しそうに向日葵は唐突に呟いた。たったそれだけのことで太陽は嬉しかった。向日葵も自分と同じことを思っていてくれる。それだけで何物にも代えがたい価値があった。太陽は思わずほくそ笑む。
大地が口角をにやりとつり上げる。
「んだよ、キミコー生徒会長、『卵白の姫君』がもう根を上げてるのか?」
藍欧高校は、まったく同じ読みの『卵黄』から『キミコー』の名前で親しまれている。
そのキミコーの生徒会長である向日葵は、大地にからかわれてむっとして言い返す。
「もう、大地! その呼び方禁止! わたし、それすっごく気に入らないの! 知ってるでしょ!?」
「じゃあ、『白魚の人魚』がいいか?」
「魚じゃん!」
「やれやれ、わがままだな。じゃあ、俺が知ってるとっておき」
「もういいよ! バカ!」
「『マシュマロの天使』」
「だから、なんで食べ物なのよ!」
「美味しく頂きたいってくらい、ヒマが可愛いんだろうよ」
「うるさいっ、バカ! 変態! ケダモノ!」
「はは、当たんねーよ、ボケ!」
顔を真っ赤にしながら向日葵が手に持った鞄を大地に向かって振り回す。それを大地は持ち前の反射神経で軽々しくかわしていく。それが気に入らないのか、向日葵はさらに顔を真っ赤にさせて大地を追いかけていく。すでに羞恥で顔を赤くしているのか、怒りで顔を赤くしているのかわからない。
太陽は、たぶん両方だな、とあたりをつける。
わいわい騒ぎながら二人は藍欧高校へ向かって歩いて行く。
ほんとに、二人は仲良しだよなあ……。
太陽にはとても向日葵をからかうことなんてできそうにない。『白玉の妖精』という、もう一つの呼び名は完全に言いそびれた。
結局、みんな食べ物なのだった。その言葉の意味するところは、あまり明言したくないけど。
太陽はそんないつもと変わらない二人を見つめ、眩しそうに目を細めた。




