愛した貴方へ
昼下がり、何となく点けていた
テレビのワイドショーに釘付けになった。
今度の世界選手権で一人の日本人選手が
期待されているらしい。
イケメンだのビッグマウスだの、
やたらと番組出演者は喚いて、期待の日本人選手の
何枚もの写真やいくつかの映像が繰り返し、流れていた。
イケメン選手の決め顔写真、イケメン選手の肉体美を写したとかの写真、
イケメン選手のプライベート映像、
イケメン選手が関係者と打ち合わせをしている様子などなど。
その映像の中に、片隅に、見覚えのある顔がいた。
一瞬しか映らなかったけど、カメラとの間にイケメンもどきの選手が
割って入ってきたけど、彼だと分かった。
「・・・タロウ君。」
不意に彼の名前が私の口からこぼれ落ちると、彼との思い出が
私の頭の中に浮かび上がってきた。
中学生の頃だ。
タロウ君を初めて意識したのは。
当時の私は何を勘違いしたのか、運動部に所属していた。
そして私は部のエース、というわけでなく、入部半年にして
万年補欠が決定づけられているような落ちこぼれの新入部員だった。
ラッキーだったのは、その部では、早い段階で、将来有望な選手とそうでない選手と区別してくれていることだった。
一軍と二軍。勿論、私は二軍。
その日の部活もいつものように一軍と二軍とが一緒になって
体ならしのランニングをした後、本格的な練習を開始するというものだった。いつも、ランニング終了時点で、両軍の差はハッキリとついている。
私が走り終わる頃には、とっくに一軍の人たちは
本格的な練習を始めていた。
本来ならば、私もその練習に加わるべきなのだが、その日はやる気が
なく、もう帰ることに決めた。これは、二軍には、よくあることだった。実際、走り始めた頃には、10人以上いた二軍の人たちが、今や片手で数えられるほどしかいない。最後まで走り切った自分は、まだマシな方だ。
帰ろうと決めたら、単純なもので、ついさっきまでの疲れは
吹き飛び、さっさと汗を拭き、一軍におざなりな挨拶をすませた後、
部室で着替えて帰るつもりだった。
部室に近づくと、男子の声が聞こえた。
一人じゃない、何人かいるようだった。それに対してコッチは私一人。
部室に行くには、その男子の集団に近づくことは避けられない。
部室は、みんなが部活をやっているグラウンドから、少し離れたとこに
あった。だからといって、何か物騒な事件が起きたわけでもないが、
それでも男子数人のところに女子一人が突っ込むのは怖い。
私は、男子たちがどこかに行ってくれるまで、建物の影に隠れることにした。
「おいおい、もうスパイク、持ってきてんの?」
「やる気満々だねー。」
結構、離れたところに隠れているのだが、
男子たちの会話が自分の耳に入ってきた。いや、会話じゃない。
多分、これは・・・。
「早くね?スパイクとか早くね?」
「たぁしかに。オレらのときは、もっと「けんこ」だったけどなあ」
さっきと同じ声が二つ。少なくとも、男子二人。そして、その二人は
会話でなく、誰かをネチネチと一方的に責めている。
「バッカ、お前。「けんこ」じゃねえよ。謙虚だろ。」
一人の男子が、下品な笑い声を出す。心の底から、相手を馬鹿にした笑い声だ。そして、周りを威圧しようとする声だ。
「うっせぇ。わざとだよ、わざと。腹立つなー。」
もう一人の男子が声を出す。自分の間違いを誤魔化すために、わざと大声を出してる。でも、馬鹿にされたことに怒っていることを隠しきれていない声だ。
「あーくっそ、腹立つなー。おい、お前が本当にスパイク履いた練習が
必要なのか、見てやるよ。ほら、とってこーい。」
恥ずかしさと苛立ちが籠った声の後、私の足元に一組のスパイクが
転がってきた。隠れていても分かる。二人の男子が、誰かの
スパイクを投げ捨てたんだ。どうしようと迷っている間に、私の前に一人の
男子が急に現れた。
その男子は、建物の陰に私がいることを全く予想していなかったようで
驚いた表情で、立ち尽くしていた。
私は私で、まさかこんなにも早く持ち主が、スパイクを取りにくるとは
思わず、ただただ立ち尽くしていた。
それはほんのわずかの時間だったけど、気まずさを感じるには充分だった。
転がっているスパイクが、私の足元に近いのがまずかった。
私は、気まずさからすぐに逃げたい一心で、スパイクを拾い上げ
彼に渡そうとした。すると、彼は何かつぶやいた後、乱暴にスパイクを
奪い取り、元いた場所へ走り去って行った。
呆然とする私を正気に戻したのは、手先の鈍い痛みだった。
見ると、中指に血が滲んでいる。スパイクの刃で切ったようだ。
指を傷つけられた怒りと先輩が後輩を苛めている現場に出くわしてしまったことへの不快感と終始ビクビクしていた自分の不甲斐なさが、私を建物の影から押し出した。さっきまでいた、先輩二人はいない。さっきの男子は、遠くの方で、部の練習に参加していた。
後で分かったことだが、さっきの男子の名前は、タロウというらしい。
タロウという名と中指の痛みは忘れることができなかった。
中指の傷がすっかり治ってもタロウ君のことを忘れる日はなかった。
傷のことで何か一言言ってやりたいという思いもあったが、それ以上に、先輩から苛められているタロウ君から目をそらすことは、何だか情けないような気がしたからだ。単純に、タロウ君のことを心配していたということもある。
だが、私の心配は杞憂だった。タロウ君は、先輩からの苛めを気にするほどの人間じゃなかった。苛めを吹き飛ばすかのごとく、足が速かったのだ。
万年二軍、万年補欠の私から見ても、タロウ君の足の速さは相当なものだった。よその部活にも一軍二軍があるのかは分からないけれど、彼は、先輩たちに混ざって、必死に練習していた。彼を苛めていた先輩二人は、彼の方を見て苦い顔してたけど、最早、彼らが近づけないほどに、タロウ君は部の中心人物になっていた。
でも、もしかしたら、またあの二人がタロウ君に嫌がらせをするかもしれない、だから、私が見張っておかないと。そう思い、私は、いつしか部活動の途中で帰ることはなくなっていた。「そんだけ、一生懸命やっても二軍は二軍よ。」と同じ二軍仲間から嫌味を言われたときも、タロウ君の周辺を見張るために、部活を最後までやり続けた。必死に頑張るタロウ君を見れば、多少の嫌なこともすぐに吹き飛んだ。
今、思えば、万年補欠万年二軍の私があんなにも部活に一生懸命参加してたのは、タロウ君を見張るためだけじゃなかったかもしれない。
時を重ねる度に、タロウ君は本当に中心人物となっていった。
部のエース、学校のエース、県代表のエース。
いつの間にかタロウ君の周りには、
タロウ君を見ようと、タロウ君と仲良くなろうと、
タロウ君とお付き合いしようと、
大勢の人が集まるようになった。彼が嫌がらせを受けないよう人知れず彼の周りを見張っていた私もいらなくなった。そして、相変わらず、私は二軍のまま。二軍のまま。
中学卒業のとき、何とかタロウ君とお付き合いしようと大勢の女子が彼にアタックしたけど、県の有力校にスポーツ推薦で入学が決定してた彼は、高校の部活に集中したいとかで女子全員のアタックを断ったらしい。彼のひたむきさは、何一つ変わってなかった。結局、私は練習の成果空しく二軍のまま部活動を引退した。彼は凄くて私は二軍、何も変わらないまま、あのときのままだ。
でも、もう中指の血は止まっている。止まっていた。
高校に進学してからも、彼の名前は地元の新聞のスポーツ欄で
よく見かけた。時には、一面に載ることもあった。
大学進学を気に県外に出た私は、彼の名を見ることはなくなった。
そして、時は流れていった。いつしか、タロウ君とあの日の中指の痛みは
頭の奥底に沈んでいった。
相変わらず、テレビは、イケメン選手のことで
騒いでいる。
「・・・タロウ君。」
再び自分の口から、彼の名前がこぼれ落ちた。
すると、それを優しく拾い上げるかのごとく、テレビに再び彼の姿が
映った。やたらイケメンイケメンと連呼する番組出演者の言葉を要約すると
どうやらこのイケメン呼ばわりされているこの選手が、自分専用のスパイクを作るために業者と打ち合わせをしているシーンらしい。
その中に、彼が、タロウ君がいる。タロウ君がシューズを片手に、選手に何か一生懸命説明している。その姿は、その目は、中学の頃と何も変わっていなかった。
頑張ってたんだね、タロウ君。
ふと中指を見ると、血は
出ていなかった。
「ママー、お指見て何してるのー?」
お昼寝から起きたばかりの息子が隣の部屋からこちらを見ていた。
目をこすりながら、おぼつかない足取りでこっちにやって来る。
「ううん、何でもないよ。よく寝れた?」
「うん、良く寝たよー。ママ、ボクどっか遊びに行きたい。」
「そう。じゃあ、お散歩でもいこっか。」
テレビの方を振り返ると、もうタロウ君は映っていなかった。
イケメン選手が、次の大会への意気込みを語っている。もう、タロウ君が映ることはなさそうだ。
さようなら、タロウ君。もうあの日の傷のことは忘れてあげる
そう思い、テレビの電源を消した。
「じゃあ、行こっか。」
「うん。」
息子は満面の笑みで答える。
今、私の指にあるのは、
愛した傷の痛みでなく、愛する息子の指のぬくもり。