遊園地へ。
「パパー! 朝だぞ、起きろー!」
寝室に無邪気な声が響く。そして、布団越しに腹部に衝撃。
目を覚ますと、案の定小学二年生になる娘が私の上にこちらを見ていた。バンバンと私の胸をたたきながら娘が言う。
「早くしないと朝ご飯が冷めるって、ママが怒ってるよー」
「ああ分かった。起こしてくれてありがとう」
目をこすって体を起こす。よいしょっと、とつぶやきながらそのまま娘を抱え上げ、ダイニングへと向かった。
腕の中で、きゃっきゃと娘が嬉しそうな声を上げた。
「あなた、コーヒー飲んだらさっさと支度してよ。今日は遊園地に行くはずだったでしょ」
朝食を終えて、新聞を眺めながらコーヒーをすする私に妻が言った。妻は洗い物をしながら、言葉を続ける。
「あの子なんか一昨日からずーっと遊園地遊園地って、もう耳にタコだわ。今も多分部屋でうきうきしながら待ってるはずよ」
「あれ、遊園地ってつい最近行かなかったか?」
「何言ってるの。前行ったのは二、三年前よ。寝ぼけてないで、ほら早く早く」
「……そうだったかな? まあいいか、すぐ着替えて車の用意をするよ」
「車は止めましょう」
「え?」
妻の声に思わず怪訝な声を上げる。お出かけの時は車を出すのが恒例なのだが。
キッチンの方を見ると、いつの間にか洗い物を終えた妻が妙に冷たい表情でこちらを見ていた。
「車は止めて、電車で行きましょう」
「何故だ? 別に車で不便な場所でもないじゃないか」
「今日はなんだかそういう気分なの。それにあなたも、疲れた体で帰りの運転するのしんどいでしょう?」
「……それもそうだな、今日は電車で行こうか」
「じゃあ、決まり。あの子呼んでくるね」
妻が表情を崩し、いつもの穏やかな顔を取り戻す。そして階段を上り、二階の娘の部屋へと向かった。
ややしてから、飛び跳ねて喜ぶ娘の声と、それを叱る娘よりも大きな妻の声が聞こえてきた。
「……着替えるか」
新聞を畳み、コーヒーを飲み干して席を立つ。
上の階ではまだ騒ぎが続いていた。
「もうそろそろ、ね」
「楽しみだね!」
意地の悪い笑みを浮かべた妻と、身長制限を突破して心底嬉しそうな娘とともにジェットコースターの行列に私は並んでいた。
絶叫系のアトラクションは苦手なのだ。本当に勘弁してほしい。
そう頑なに主張したのだがこの二人の可愛い天使には逆らえず、泣く泣く並ぶことになり、気が付くと体が反対の方向へと向かおうとするのだが娘が私の手をがっちりと捕まえて離さず、今私は滝のような汗を流しながら瞑想し、もはや悟りを開いたかのような無我の境地に至りつついややっぱり逃げても良いかな?
「駄目よ、もちろん」
「あ、コースター戻ってきたよ! 次には乗れるかな」
神よ。
無情にも列は進む。このままいくと最後尾に乗り込むことになりそうだが、後ろが一番スピードが出るのだったか? やはり先頭が一番怖いのだろうか。いやもうどこでも一緒だろう。
そして私は今までの人生の中でも最も大きな悲鳴を絞り出すことになる。
以降も終始ハイテンションな娘と妻に散々引きずり回され、私に休む暇は毛ほども与えられなかった。これも彼女たちのためと思い、どんな乗り物にもなるべく乗るようにしたが、もう体に限界が来ている。今日電車で来たのは正解だったようだ。
どうやら娘は妻から絶叫マシン好きを受け継いだらしい。きっとこの子の将来の彼氏は苦労するだろう。……いやそんなものがこの先存在することがあろうか。パパ許さないぞ。
最後に観覧車に乗ったのは妻のささやかな優しさだったのだろう。雄大な景色と、楽しげに笑う二人の顔。それを見ているだけで心が安らぐ。
「パパ、ありがと」
娘が私に言う。疲れが吹っ飛んだ気がした。
「今日は何が一番楽しかったかい?」
「えーっとね、お昼に皆でアイス食べたこと!」
どうやら私の献身はあまり意味をなさなかったらしい。疲れがいや増した。
「じゃあ、どこかで美味しいもの食べて帰りましょうか」
「あたしお寿司食べたい!」
「……回っているやつで許してくれよ」
「えー」
「止めてくれ、足をバタバタさせるな、揺れるだろう」
「えー」
観覧車が地上に近づいていく。
……………………。
衝撃。爆音。悲鳴。
暴力的な感覚が私を襲う。
音が痛い。
光が五月蠅い。
五感が掻き回されている。
これは、一体。
……………………。
また今日も、お腹の上の衝撃で目が覚める。
もう一度布団にもぐりこみたくなるのをどうにかこらえながら、私は目をこすって立ち上がる。
そして、三人で食卓を囲む。
「パパ、今日もお仕事ないの?」
「ああ、お休みだ」
「こら、モノを口に入れたまま喋らないの」
叱られて首をすくめながらも嬉しそうな娘を見て、思わず笑みが浮かんだ。
あれ、何故仕事が休みなのだったか。
「ねえ、せっかくだからどこかに出かけましょうか」
妻の提案にそうだな、と返す。
行きたいところある? そう訊かれた娘は元気に答えた。
「えーっとね、遊園地!」
「あら、いいわね、最近行ってなかったし」
「よし、朝ご飯終わったら出発だ」
………………。
なんだか全身がひどく不自由だ。動こうと思っても動けない。金縛りというやつだろうか。
痛い。体が痛い。そして、心も。
大事なものを落としてしまったような。
痛い。
痛い。
意識が途切れる。
………………。
いつものように娘が起こしに来る。
いつものように朝食を食べる。
コーヒーを飲んでいると、娘がどこかに遊びに行きたいと言い出した。
そうだな、せっかく仕事も休みなんだ。
遊園地にでも行くことにしようか。
「最近、変な夢を見るんだ」
そう妻にこぼした。
妻は何も答えず、たださみしそうに笑った。
…………。
五月蠅い。
うるさいうるさいうるさいうるさい。
眠らせてくれ。
…………。
娘が笑う。
妻が微笑む。
頼む、もう少し。
もう少しだけでいいから。
……。
嫌だ。
嫌だ。
……。
「パパ、ありがと」
嫌だ。
「もうそろそろ、ね」
嫌だ。
私はまだ、此処にいt
。
狭い病室に何人かの人がいた。
医師と、看護師。疲れ果てたような顔をして椅子に座っている年配の女性。
そしてベッドの上に、幾本もの管につながれた男が横たわっている。
男が、ゆっくりと目を開けた。
「お母さん、目を覚まされましたよ!」
看護師の声が響く。
年配の女性がはっと顔を上げ、ベッドに近寄って男の手を握り泣き崩れた。
男は気だるげな表情を浮かべて、女性の方に顔を向けた。
医師が男に、静かに、ゆっくりと語りかける。
「あなたは四日間昏睡を続けていたんですよ。高速道路で、暴走したトラックに横からぶつかられて壁に……。
酷い事故でしたが、なんとかあなただけでも一命を取り留めてよかったです」
男は言った。
「死なせてくれ」
初投稿させていただきました。
おとぎと申します。
とにかくラストのひとことでのインパクトと後味の悪さを狙ったものです。
通して読んでいただけたのなら幸いです。