始まり
『ステータス』——それは、神がこの世界に生きるすべての者に与えた絶対の枷である。
人間は十歳になると、教会で『鑑定の儀』と呼ばれる儀式を受ける。そこで可視化される体力、筋力、魔力、防御力、敏捷性といった能力値、そしてその才能の総合評価である『ランク』は、生涯を通してほとんど変わることはない。
冒険者として栄光を掴めるのは、最低でもDランク以上を与えられた者だけだ。Eランクの者は、街の清掃や畑仕事など、日々の糧を得るのすら困難な底辺の労働に従事するしかない。
冒険者においては生まれつきの才能がすべてであり、後天的な努力など何の価値も持たない。それがこの世界の常識だった。
ましてや、そのEランクの中でもさらに下の最低辺——『E-(マイナス)』ともなれば、人間扱いすらされない。
それが僕、アレンの運命だった。
「早く動け、E-ランクの出来損ないのデブが。お前のせいで進行が遅れてるんだよ!」
湿った地下迷宮の空気を震わせて、怒声が響き渡る。金髪を忌々しげに揺らしながら僕を睨み下ろしているのは、パーティのリーダーであるクライスだ。彼は若くしてCランクに認定された優秀な剣士であり、同時に、僕の命を握る雇い主でもあった。
「す、すみません……っ」
謝罪を口にしながら、僕は重い足を引きずるようにして前へ進む。背中には、自分の体よりも大きな麻袋が括り付けられていた。野営の道具、松明、予備の武器、倒した魔物の解体部位など、総重量は優に百キロを超えているだろう。
肩に食い込む革紐が皮膚をすり減らし、血が滲んでいる。息を吸うたびに肺が焼け付くように痛んだ。汗が滝のように流れ落ちて視界を塩分で歪ませる。冒険者の荷物持ち。それが、一五歳になる僕の職業だった。
「チッ、これだからゴミは。荷物持ちとしても三流じゃねえか。その無駄についた脂肪を燃やして歩けや!」
クライスとその後ろを歩く仲間たちが、蔑んだ笑い声を上げる。
冒険者の過酷な労働環境に身を置いているにもかかわらず、僕の体はぶくぶくと太っていた。E-という貧弱なステータスによる低い基礎代謝、慢性的な極度のストレス、そして安い給料で買える炭水化物ばかりの粗食。それらが最悪の形で作用し、醜い肥満体を作り上げていたのだ。
本来なら、冒険者のパーティに同行することすら許されない身分だ。だが、僕にはどうしてもお金が必要だった。
故郷の小さな村で、母さんと妹のリアが『魔力枯渇病』に侵されているのだ。放置すれば全身から魔力が抜けていき、最終的に死に至る病。魔力を回復させるためのポーションと進行を遅らせる高価な薬を定期的に買うためには、日雇いの畑仕事では到底足りない。
だから僕は、冒険者の荷物持ちという危険極まりない仕事にすがりつくしかなかった。命の保証はない。時には罠の解除役や、魔物の囮にされることすらある。それでも、十歳のあの日から五年間、僕は泥水をすする思いで耐え抜いてきたのだ。
すべては、愛する家族を守るため。どんなに罵られようと、蹴られようと、家に帰ればリアの無邪気な笑顔が待っている。それだけで、僕の心は折れずに済んだ。
しかし、その日。僕の小さな希望は、いとも容易く砕け散ることになる。
僕たちが探索していたのは、王都近郊にある中級ダンジョン『嘆きの洞穴』の地下四階だった。中堅冒険者であるクライスたちにとっては、さして苦労のない難易度のはずだった。
だが、事態は突如として急変した。
——ズゴゴゴゴゴゴ……ッ!!
地鳴りのような轟音と共に、迷宮の空間そのものが激しく揺れた。
「な、なんだ!?」
「リーダー! 壁に亀裂が……っ!」
仲間の一人が悲鳴を上げる。前方十メートルほどの位置にあるダンジョンの岩壁に、黒い稲妻を纏った『裂け目』が口を開けたのだ。
それは未踏破の深層で稀に発生するとされる次元の歪み、通称『イレギュラー』だった。
ズチュ……ズチュ……と、悍ましい粘着音が響く。裂け目の中から、濃密な死の匂いを孕んだ瘴気と共に、見たこともない巨体の異形が這い出してきた。
人間の胴体に、節くれだった四つの長い腕。頭部には目も鼻もなく、巨大な顎だけが裂けるように付いている。
「嘘だろ……なんでこんな浅層に、Aランク相当の変異種が……っ!」
クライスの顔から血の気が引いた。その圧倒的なプレッシャーは、Cランクの彼らでは手も足も出ない本物の『死』を体現していた。
「逃げるぞ! 全力で走れ!!」
即座に踵を返すクライス。その判断は冒険者として正しい。だが、彼の次の言葉は、僕の命を切り捨てる冷酷な宣告だった。
「おいデブ! お前、そこに残って囮になれ!」
「……え?」
「その脂肪の分、数秒くらいは足止めになるだろうが! 行くぞお前ら!」
「待っ……クライスさん!」
僕が背中の荷物を下ろす暇すら与えず、クライスたちは疾風の如く通路の奥へと消えていった。取り残された僕の前に、四つ腕の異形が立ちはだかる。
「ヒィッ……!」
殺気が肌を物理的に刺す。振り下ろされた巨大な腕が、すんでのところで僕の横の岩壁を粉砕した。弾け飛んだ破片が頬を切り裂き、鮮血が視界を赤く染める。再び腕が振り下ろされ、あまりの衝撃で吹き飛ばされた。吹き飛ばされた先は裂け目の中だった。
「嫌だ……死にたくないっ!」
僕は無我夢中で駆け出した。背負ったままの荷物が壁にぶつかり、幾度もバランスを崩す。息が上がり、心臓が爆発しそうだった。だが、足を止めれば即座に肉塊に変えられる。
「ハァッ、ハァッ……リア…ッ、母さんッ…!」
しかし、運命はどこまでも僕に残酷だった。
異形の攻撃の余波で地盤そのものがひび割れていたのだろう。僕が足を踏み出した瞬間、石畳が突如として崩落したのだ。
「あ……」
重力に引かれ、僕の体は真っ暗な縦穴へと吸い込まれていった。
風を切る音。底なしの暗闇。
そして、全身を押し潰すような凄まじい衝撃が襲った。
「ガァッ……!?」
背中の荷物がクッションになったとはいえ、数十メートルの落下に生身の体が耐えられるはずがなかった。肋骨が何本も折れ、内臓が破裂したのがわかった。口から大量の血が溢れ出し、喉を詰まらせる。
(痛い……痛い……体が、動かない……)
指先一つ動かすことができない。呼吸をするたびに、口から血の泡がこぼれる。視界が徐々に暗転していく。
(ここで、死ぬのか……? 五年間、あんなに耐えてきたのに…ッ…僕が死んだら、薬が買えなくなって、母さんとリアは……)
悔しさと絶望で、目から大粒の涙が零れ落ちた。
いやだ、死にたくない。死にたくない。何でもいい、誰でもいい。悪魔に魂を売ってでもいいから、すがりたかった。僕に力を。生き延びる力を──
薄れゆく意識の中、ふと視界の端に何かが映った。
漆黒の闇の中で、それだけが奇妙な存在感を放っていた。黒くて丸い物体——手に収まるほどの大きさのそれは、まるで生き物の心臓のように微かに脈打っている。
なぜか、それから目が離せなかった。直感があった。あれに触れなければ、僕はここで惨めに死ぬ。
(届いて……くれ……っ!)
僕は折れた腕を引きずり、這いつくばるようにして、血の海と化した地面をにじり寄った。剥がれた爪から血が流れ、全身の神経が限界を超えて悲鳴を上げる。それでも、一歩、また一歩。
そして、血まみれの右手が、その冷たい黒球に触れた瞬間——。
脳内に、感情の欠片もない無機質な声が響いた。
《条件を満たしました。固有システム『ステータス解放』を起動します》
(……え?)
《宿主の過去五年間に蓄積された経験値、及び忍耐・苦痛の膨大な隠しデータを照合。……完了しました。これより、限界突破によるステータスの上昇を実行します》
傷ついた体の中から、熱い何かが爆発的に湧き上がってくるのを感じた。それは到底E-ランクの人間が持つはずのない、圧倒的な生命力と魔力の奔流だった。折れた骨が繋がり、破裂した内臓が瞬時に修復されていく。
《続けて、隠しエリア【ーー】への転送を開始します》
次の瞬間、僕の体はまばゆい光に包まれ、暗い縦穴の底から消失した。
目を開けると、そこは荘厳な神殿のような巨大な部屋だった。天井は見えないほど高く、大理石のような白亜の床が果てしなく広がっている。
そして、部屋を円形に囲むようにして、七体の巨大な石像が立ち並んでいた。
獣、鳥、竜、悪魔……それぞれが異なる異形を象った石像は、ただの石であるはずなのに、尋常ではない威圧感を放っていた。
(ここは……?)
怪我の痛みは完全に消えていた。体が羽のように軽い。これなら戦えるかもしれない。そう思った矢先だった。
——ズズズ……ッ。
一番右端にあった『一つ目の悪魔』の石像が、重い音を立てて動いた。
「な……っ!?」
石像の単眼が赤く輝き、真っ直ぐに僕を捕捉する。
次の瞬間、空間そのものが圧縮されたかのような重圧が、僕の全身にのしかかった。
「ガ、アァァァッ!?」
見えない巨大な手に全身を握りつぶされるような感覚。先ほどのステータス上昇がどれほどのものだったのかは分からない。だが、目の前の存在の前では、微生物と神ほどの絶対的な力の差があった。
動けない。指一本動かせないまま、僕の骨という骨が再び軋みを上げ、肉が内側から弾け飛ぶ。
「あ……」
抗うことすら許されず、僕の意識は、そこで完全に途切れた。
——僕は、無惨に殺されたのだ。
◇
「ヒッ……!!」
短い悲鳴を上げて、僕はガバッと上体を起こした。
「ハァッ、ハァッ、ハァッ……!」
震える手で全身を触りまくる。ある。腕も、足も、頭も。どこも潰れていない。骨も折れていないし、血も流れていない。
「夢……? いや、そんなはずは……」
荒い息を吐きながら周囲を見渡す。
そこは、あの恐ろしい七つの石像が並ぶ神殿でも、深い縦穴の底でもなかった。
ジメジメとしたカビの匂い。苔むした石造りの壁。一定の間隔で燃える松明の薄暗い灯り。
「ここは……『嘆きの洞穴』の、地下一階……?」
見慣れた、いや、見飽きたダンジョンの最も浅い階層だった。
あの物体や空間は何だったのか。なぜ生きているのか。なぜ穴に落ちる前の、それもダンジョンの入り口近くにいるのか。
混乱の極みにある僕の目の前に、半透明の光る板——ステータスウィンドウが、音もなく浮かび上がったのだった。




