5-2
声のする方を向く。地面に横たわっていた男が、ゆっくりと上体を起こした。
「ピエール……」
額に傷がある男、ピエールは、凪のように静謐とした眼差しをルクレツィアに向ける。
「ルクレツィア様だけではありません。これは王家に仕える者の使命なのです」
昴はピエールを睨みつける。
「だからコイツにも同じ道を歩けって? 家のために犠牲になれっつーのかよ!」
「犠牲ではありませんよ。あちらの家とは長い付き合いがあります。名前も知らない男に嫁がせるよりは、よほど信頼できる相手です」
昴はピエールの胸ぐらを掴んだ。
「長い付き合いがある? それのどこが信頼できる要素だっつうんだよ。家じゃなくて、そいつ自身はちゃんと見たのかよ? 見た上でそう言ってんのか? ああ?」
「スラム育ちの男には、我々の家の理屈など分かりませんよ。部外者が余計な口を挟まないでいただきたい」
昴は威嚇するように肉薄するが、ピエールは一貫して冷ややかな表情を崩さなかった。
「顔を近づけるな。貴様の野蛮な菌が移ったらどうしてくれる」
「……んだとテメェ」
昴は歯を噛み締め、声を荒げる。胸ぐらを掴んでいる方とは反対の手を振り上げた。
(この男_____!)
あわや掴み合いの喧嘩が始まろうというところで、貴臣はすかさず二人の間に割って入った。一方では昴の振り上げた拳を掴み、もう一方ではピエールの服を掴む手を振り解く。
「離せ、弌ノ瀬」
「落ち着いてください。こんな男、あなたが相手をするまでもありませんよ。ここは舎弟の僕に任せてください」
ピエールは突然会話に加わってきた貴臣を、無感情に見下ろす。
「スラムの人間はどいつもこいつも喧嘩っ早いようですね。まあ、分かっていたことですが」
ピエールもまた、警戒するように拳を顔の前に上げた。
「良いでしょう。言葉で言っても通じない相手には体に言い聞かせるのみです」
一見して分かる。武術を学んだ者特有の型に嵌った仕草だ。
対して、貴臣は見様見真似でボクシングを齧っただけの男だ。師事した相手がいるわけでもなく、戦歴だって浅い。
勝率はあまり高くなかった。それでも闘ってみる価値はあると、闘わなければならないと貴臣は判断した。
昴を馬鹿にするようなピエールの物言いが気に食わなかったのだ。
背筋を電流が走る。細胞から髪の毛の一本一本まで、全身が闘争を求めて騒ぎ立てている。
「お前を舎弟にした覚えはねぇよ……」
背後で昴が困惑した声を上げていることに、貴臣は気が付かなかった。ただ、目の前の敵をどうすれば倒せるかを考える。
昨日戦った2体のモンスターやゴロツキとは違い、どこにも隙は見つからない。
貴臣は手始めにジャブを打ち出した。しかしピエールはそれを素早く避けた。
目の前からピエールの姿が消える。
「チーノ様!」
ルクレツィアが悲痛な声を上げた。背後で何かが空を切る音がして、貴臣は振り返った。顔面に向かって拳が飛んでくる。それを避けた貴臣は、ピエールが反対側の拳を下から突き出しているのを視界で捉えた。
避けるのが間に合わず、貴臣の腹にピエールの強烈なパンチが叩きつけられる。
神経が凍りつくような衝撃を受け、貴臣は後方に吹っ飛ばされる。背中を壁に強か打ちつけ、呼吸が止まった。
「弌ノ瀬!」
昴が慌てて駆け寄る。貴臣は咳き込みながら、ピエールを睥睨した。
口元を手で拭い、すぐに立ち上がる。痛みは_____ない。
脈が早くなる。視界が眩しくなり、アドレナリンが全身を駆け巡っているのを感じた。
「はは。まだ、終わってませんよ」
貴臣が笑みを浮かべると、ピエールは意外そうに目を丸くさせる。
「あれだけの攻撃を受けてまだ立ち上がるとは……大した人だ」
「お褒めに与り、光栄です」
昴はボヤいた。
「……褒めてねぇだろ」
ルクレツィアは貴臣達に視線を向けたまま、
「いえ、ピエールはチーノ様を讃えていますわ」
と小声で呟く。
「ピエールに殴られて立ち上がれる人なんて、これまで一人もいなかったですもの。でも、ピエールは本当に強いのよ。このままだと、チーノ様が危ないですわ」
「俺にワンパン食らって気絶してたのに?」
「それは、あなたが不意打ちで攻撃したからよ。真っ向から勝負して、ピエールに勝てる人なんているはずがありませんわ」
「お前随分とピエールってヤツの肩を持つんだな」
「ピエールの強さは私が一番良く知ってますもの」
昴は呆れた表情になる。
「お前はどっちの味方なんだよ」
ルクレツィアは昴の問いかけにも似た呟きには何も答えず、胸元で両手を握りしめる。
「チーノ様……!」
ルクレツィアの悲痛な声は、戦いに夢中になっている貴臣には届かない。重い前髪の下の瞳孔を怪しく光らせ、ピエールを見遣る。
(一発だけで良い。一発でも拳を当ててやらなければ。何も知らないくせに、黒咲さんを馬鹿にしやがって)
貴臣はピエールに襲いかかった。ジャブを連続で繰り出しながら、攻撃の隙を窺う。
(先程ピエールさんの攻撃を食らったのは、最初のパンチに気を取られていたからだ。素早く次の攻撃が来る前提で動けば、理論上は避けられる、はず)
眩しさに目を細めながら、ピエールが顔に向けて放った拳を腕でガードして、すぐに横に避ける。しかし、その動作すらも狙っていたかのように、ピエールは貴臣の頬に拳を喰らわせた。拳の骨をまともに食らい、貴臣は体をふらつかせる。
「やめて……」
ルクレツィアはか細い声で呟いた。その声は隣にいた昴にしか届かなかった。
ピエールは続けて容赦なく脇腹に蹴りを飛ばす。貴臣は膝を突き、しかし即座に立ち上がろうと顔を上げた。
その時だった。
「ピエール、もうやめなさい!」
ルクレツィアが声を荒げる。二人は動きを止めた。
「あなたの仕事は私の護衛であって、一般人に暴力を振るうことではないでしょう。これ以上問題を起こすなら、お父様に報告するわよ」
ルクレツィアはピエールの服の裾を掴むと、路地裏の出入り口に向かって歩き出す。ピエールは蹈鞴を踏みつつも、抵抗せずにルクレツィアについていく。
「……お嬢様」
ピエールは何かを言おうとしてルクレツィアに呼びかけるが、彼女はそれを遮った。
「私、結婚するわ。あなたもそれで満足でしょう。お父様に怒られることもないでしょうからね」
ピエールは黙った。何も言わない代わりに、ルクレツィアの背中に手を添え、ゆっくりと歩き出す。
ルクレツィアは一度振り返り、貴臣と昴に向かって笑いかけた。
それは、別れの挨拶のように貴臣には思われた。
「ピエールさん」
貴臣はいても立ってもいられずにピエールに声をかけた。ピエールは振り返らずに立ち止まる。
「あなたは、ルクレツィアさんの護衛なんですよね」
「それが何か?」
「あなたは何のために、ルクレツィアさんをお守りしているんですか。彼女の幸せを守るためじゃないんですか? これで本当にルクレツィアさんは幸せになるんですか?」
ピエールは少しの間黙り込んだ。そして、おもむろに額に手を当てると、
「あなたには関係ないでしょう」
それだけを言い残し、二人はその場から立ち去った。
「……っう」
貴臣は殴られた箇所を押さえ、その場にうずくまる。痛みはなかったが、電池切れを起こしたように、自分の意思で体を動かすことができなかった。
「弌ノ瀬!」
昴が慌てて駆け寄ってきて、貴臣の肩に手を置いた。
「カミノゴカゴ」
腹の痛みと共に、胸に広がる息苦しさが消えていく。昴は呆れた様子でため息を吐いた。
「お前、あんま無茶すんなよ」
貴臣は微苦笑を浮かべる。
「不意打ちとはいえ、黒咲さんが気絶させた相手ですから。僕も勝てるのではないかと思ったんです」
「んだよそれ。言っとくけど、俺はお前より強ぇかんな」
「……そうですね」
突然貴臣が黙り込んだので、落ち込んでいると思った昴は、慰めるように貴臣の肩を叩く。
「でも、俺の代わりに怒ってくれてさんきゅーな」
貴臣は目を皿のようにさせた。
自分としては冷静さを保っているつもりだったので、傍目から分かるほどに怒っているとは、そのうえ昴に指摘されるとは思ってもみなかった。
「はは、まさか。怒ってなんかいませんよ。僕はただ、ピエールさんがどれほど強いのか、自分で確かめたかっただけです」
「はいはい。そういうことにしといてやんよ。素直じゃねぇな、ったく」
昴に手を貸され、貴臣は立ち上がる。二人は少しの間黙り込んだ。嵐が過ぎた後の、ぽっかりと穴の空いたような静寂が二人を取り巻いていた。
ルクレツィア・ローゼンシュヴァルツ。顔を合わせたのはたったの2日、合わせて1日にも満たない時間だったが、彼女の存在は貴臣の記憶にくっきりと刻まれた。
貴臣はルクレツィアの去った方角を眺める。昴は彼の肩を軽く叩いた。
「飯、食いにいくべ」
「……はい」
「そっからのことは、これから考えりゃあ良い」
「はい」
「そんで、ピエールを一発ブン殴って、ルクレツィアのことも助けてやろうぜ」
「はい…………え?」
貴臣は顔を上げる。
「知ってっか、弌ノ瀬。勝負はな、勝つまで続けたら、絶対に負けねぇんだよ」
昴は歯を見せて笑った。
「ここでイモ引いたら、男が廃る。だろ?」
昴は自分のやりたいことを見破ってしまう。自分でさえ気がついていなかったことを。しかし、貴臣はそれを清々しく思った。
ピエールともう一度闘いたい。貴臣はそう思った。
そして、ルクレツィアが何故自分の背後をつけていたのか、その理由も結局分かっていない。
全てを解決するために、もう一度ルクレツィアに会う必要があるのだ。
「……はい!」
貴臣は少しだけ元気を取り戻した。
昴が差し出してきた拳に、自分のものを合わせる。骨がぶつかり合い、痺れるような痛みが走った。
「ですが、助けると言っても具体的にはどうするんですか?」
「知らん」
「はい?」
「俺ァ頭が悪いんだ。難しいことはお前が考えろ」
さっぱりした昴の言い方に苦笑を漏らしつつ、貴臣は空腹を訴える腹をさすった。
「せっかくなんで、王都の屋台に行きませんか? あの場所、こっちに来た時からずっと気になっていたんです」
「んじゃあ、おすすめの店教えてやんよ。一度助けてやったことがあるから、そこでなら安く買えると思うぜ」




