9 春の香りと金の糸
ある日の朝。
ベルナルディ邸の中庭は陽光に満たされ、花々の香りが漂っていた。
ターニャは窓辺に腰を下ろし、静かに針を動かしていた。白い布に金糸がすべり、花の模様が浮かび上がっていく。針先が生み出すひとつひとつの線に、彼女は思いを込める。
(おかあさんも、こんなふうに指していたな……)
小さな頃、母の膝に座って見ていた光景が蘇る。やさしく笑いながら、細い指で糸を通す姿。その横顔はいつも穏やかで、けれどどこか儚げだった。
「人の心はね、縫い目みたいなものよ。ほつれても、ひと針ずつ縫い直せば、また温かくなれるの」
あの日の母の声が、胸の奥で響いた。ターニャは静かに目を閉じ、針を進める。糸が光を受けて輝くたびに、まるで母が微笑んでいるような気がした。
「……お母様、私ね、今とても幸せなんだよ」
小さく呟きながら、花びらの縁を縫い上げた。
それから数日後。
王妃陛下主催の茶会に、ベルナルディ家への招待状が届いた。
「王妃陛下から、直々に……?」
驚くターニャに、エリザベート夫人が穏やかに微笑む。
「きっと、先日の夜会の件を見てくださっていたのね」
「ターニャ、緊張しすぎないでね」
「は、はい……」
そうは言われても、流石に緊張する。
茶会当日。若草色のドレスには、ターニャ自身が刺した淡いラベンダーの花が散っている。
我ながら上手くできたわ……なんて考えながら緊張を逃すことだけ意識した。だけど、気分はなかなか落ち着かないまま、家族とともに王城へと向かった。
王妃陛下の茶会は、王国でも限られた者しか呼ばれない格式高いものだった。
庭園には季節の花が咲き乱れ、噴水のきらめきが日差しを反射して宝石のように輝く。
王妃陛下は穏やかな笑みをたたえ、彼女たちを迎え入れた。
「まぁ、ベルナルディ夫人とお嬢様方ね。ようこそおいでくださいました」
エリザベート夫人と姉達が深く一礼する。王妃陛下の美しさに気を取られていたターニャも慌てて裾をつまみ礼をした。
「王妃陛下にお目にかかれますこと、光栄に存じます」
王妃は柔らかく微笑んだ。視線がエリザベート夫人から、ターニャに移る。
「あなたのこと、陛下から伺いましたよ。とても……印象的な夜会だったとか」
(やっぱり、知られてる……!)
ターニャの頬が一瞬こわばる。
しかし、王妃の瞳には温かな優しさしか宿っていなかった。
「わたくしね、あの夜のあなたの言葉を聞いて、心を打たれましたの。家族を信じ、守る姿……あれこそ真の気高さですわ」
その言葉に、エリザベートと姉たちは小さく目を潤ませた。
「陛下もおっしゃっておりました。ベルナルディ家の娘たちは、まことに美しき心を持つ……と」
その場の空気が、春の光のようにあたたかくなる。
ーーお茶会の席で、王妃がふと目を止めた。
「アナスタシア嬢のストールは刺繍はお見事ですわね」
その言葉に、アナスタシアが嬉しそうに反応した。
「このストールは妹のターニャが縫ったものなのです」
「まぁ、あなたが?」
王妃が驚いたようにターニャを見た。そしてアナスタシアが肩にかけていたストールを興味深そうに眺めた。
「なんて繊細で、美しい糸運び……。陰影の表現は、まるで本物の花を見ているようだわ」
それは、ターニャが数日かけて姉のストールに刺繍した物だった。
ベルナルディ伯爵家の家紋に使われている葡萄をデザインに用いて、領地に咲く花々と合わせた。領地名産の極上ワインをイメージしながら糸の色を合わせ、ひと針ひと針丁寧に縫い上げたものだった。
淡いラベンダー地に咲く金糸の葡萄とワインカラーの花々。繊細な影と光の糸の重なりは、まるで一枚の絵画のような仕上がりになった。
家族を思って作ったものが褒められることは何よりも嬉しかった。
頬を紅潮させながら、ターニャは一礼する。
「お褒めの言葉、身に余る光栄です……」
王妃の瞳が柔らぐ。
「糸が息づいているようね。この柔らかさ、温かさ……見る者の心を包み込むようだわ」
その場にいた貴婦人たちも「素敵ですわ」「あたたかみがありますね」と口々に囁いた。
王妃は静かに頷き、側近に指示を出す。そして、穏やかに言葉を添える。
「今後の茶会のテーブルクロスを新調する予定があるの。ぜひ、あなたの手で作っていただけるかしら?」
「えっ……わ、わたしが……ですか?」
「ええ。あなたの作品を使いたいわ」
その突然の王妃の言葉に、手から汗が滲み出た。どこかへ行っていた緊張が舞い戻ってきてしまったようたった。
◇
王城の回廊を渡る風が、金糸のような陽光を運んでくる。
磨き上げられた白大理石の床には、ターニャの影と、彼女の抱えた刺繍布がやわらかく映りこむ。
(……何度来ても、やっぱり緊張する)
息を整えながら、ターニャは胸元のリボンをそっと押さえた。王妃陛下から依頼された茶会用のテーブルクロス。その試作品を届けに来たのだ。
廊下の先に、見慣れた背中があった。背筋の伸びた紺の軍装。鋭く整った横顔。
アラン・フェルディナン王城騎士団副隊長――彼の姿だった。
(……もしかしたら会えるかも。なんて思ってたけど、実際に会うとやっぱり心臓に悪いわ)
気づけば視線を逸らす前に、アランの方がこちらを向いていた。低く落ち着いた声が響く。
「やあ、ターニャ嬢。今日も王妃陛下のところへ?」
「はい、テーブルクロスの試作品を届けに来ました。……ですが、緊張で手が震えてしまいそうです」
「ほう……では、仕上げを見せるときは、震えた手ごと自慢してみるといい」
「え……?」
「“こんなに緊張したのに、綺麗に縫えたんですよ”ってね」
――あぁ、この人は、本当にずるい。
真面目な顔でそんなことを言うから、ターニャは思わず笑ってしまった。
「冗談ですよ。あなたの刺繍は城内でも本当に見事だと評判だ」
「そ、そんな大それたことを……」
アランは軽く頷き、歩調を合わせて歩き出した。
「王妃陛下の茶会を飾れる人は、そう多くありません。あなたは、自分で思うよりずっと“力”を持っている」
ターニャの胸の奥に、一瞬熱が走った。
(こ、この人。こういう事を真っ直ぐに言うから、ずるいわ……)
「アラン様……今日はお忙しいのでは?」
「ええ、少しだけ時間を抜けてきました。王妃陛下のところへ行くなら、廊下の右手は避けた方がいい」
「どうしてですか?」
「……城の猫が、日向ぼっこしてる」
ターニャが瞬きをする。
「猫……ですか?」
「あなたのように陽だまりが好きな生き物だ。足止めを食らってしまうだろう?」
「も、もう……! またそうやってからかって……」
ターニャは笑いながら顔を伏せた。頬が何故か少し熱い。
アランは肩をすくめ、穏やかに言った。
「冗談です。ただ、緊張していたようだったから。笑っているあなたの方が、ずっと良い」
アランは表情をくずし、ターニャに微笑みかけた。
その笑顔が胸の奥に響いて何も言葉が出なかった。ほんの少しの沈黙が、二人の間に落ちた。
(なんでだろう……ただ話しているだけなのに、心が温かい)
王妃陛下の執務間近まで歩いたところで、アランが立ち止まる。
「ここから先は……頑張ってきてください、ターニャ嬢」
「はい……ありがとうございます」
「ええ。またお会いできる日を、少しだけ楽しみにしています」
その言葉に、ターニャの胸がどくんと跳ねた。振り返ろうとしたが、アランはもう背を向けて歩き出していた。
金糸のように差し込んだ陽光の中へ、その背中が溶けていく。
(また、お会いしたい……)
自分の心が、そっとそう呟いていた。
ーーその日の夕刻。
ベルナルディ邸に帰ると母達が迎えてくれた。ターニャを顔を見るなり、継母と姉たちは顔を見合わせて笑った。
「まあ、随分顔色がいいじゃない」
「刺繍の仕上がりを褒められただけじゃなさそうねぇ〜」
「な、な……なんですかそれっ!」
ターニャは真っ赤になった頬を抑えた。
胸の中に浮かぶのは、あの穏やかな声と金糸のような光だった。




