8 ひとすじの風
国王は軽く手を上げ、広間の楽団へ視線を送った。
「さあ、諸君。音楽を止めるとは、なんと不粋なことか! 我が王宮のシェフが丹精込めた料理も、美酒も、このままでは冷めてしまうだろう」
王の口調は、まるで親しい隣人に話しかけるように軽やかだった。
「宴を再開せよ! 今宵、最も輝く者に、さらなる喝采を!」
国王陛下のその一言は、魔法のように会場の重苦しい空気を打ち破った。楽団が、待ってましたとばかりに、先ほどよりも一層華やかで陽気なワルツを奏で始める。
緊張で強張っていた令嬢たちはホッと息をつき、紳士たちは再び笑顔を取り戻す。
あちこちでグラスが触れ合う軽快な音が響き始め、先ほどの断罪劇を打ち消すように、会場は熱と活気を取り戻していく。
その様子を見て、ターニャは力が抜けるのを感じた。胸の奥にあった怒りと緊張が、ようやくほどけたのだ。
けれど急に世界が遠く感じられ、視界が少し揺らいだ。
「……あれ?」
ふらりと身体が傾いた瞬間――
しっかりとした腕が、彼女の背を支えた。
「立っていられますか?」
耳に届いたのは、落ち着いた低い声。香るのは、夜風のように冷たく澄んだ香り。
「大丈夫ですか?」
低く、落ち着いた声が耳に届く。ターニャははっとして顔を上げた。
そこにいたのは――銀の髪を持つ青年だった。月明かりを溶かしたような髪が、揺れる光を受けて静かにきらめく。
瞳は澄んだ青。けれど、その奥に氷のような冷たさと、炎のような熱を同時に宿している。
彼は黒の礼服を身にまとっていた。肩口には繊細な銀糸の刺繍が施され、胸元には蒼い宝石のブローチが一つ光る。
全体に無駄がなく、しなやかで鍛えられた体の線。
「す……すみません、少し、気が抜けてしまって」
「当然でしょう。あれだけの場で立ち向かわれたのです。むしろ、今まで倒れなかったのが不思議なくらいですよ」
その声音は、淡々としているのにどこか優しかった。
「外の空気を吸いましょう。少しでも気を落ち着けた方がいい」
彼はそう言うと、ターニャの腕をそっと取り、人々の視線を避けるようにして大広間を後にした。
王城の回廊は、夜風がすうっと吹き抜けていた。石畳が微かに冷たく、壁の燭台がゆらゆらと揺れている。
「……すみません。ご迷惑をおかけして」
「迷惑?」
「だって、あんな……大声で。貴族の方々を前にして…………」
男は少しだけ視線を上げて、月を見上げた。
「叫ばなければ、誰も気づかなかったでしょう。あなたがどれほど、あの家族を大切に思っているかを」
その優しい言葉にターニャは唇を噛んだ。
「ですが……見苦しかったかもしれません」
「いいえ」
彼は小さく息を吐き、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「見苦しいというより――あれは、覚悟のある人間の声でした。なかなかできることではない」
その言葉に、ターニャは驚いたように顔を上げた。
「……変わってるって言わせませんか?」
「よく言われます」
その淡々とした返しに、ターニャは思わず吹き出した。久しぶりに心の底から笑った気がした。
「今夜は冷えます。しばらくここで休んでください」
そう言って彼は少し離れ、近くの侍女に目配せをした。
その仕草だけで、侍女が軽く会釈をしてターニャのそばに立つ。
「……あなたは?」
「ご家族をお連れします。ここでお待ちを」
彼はターニャが一人にならないように侍女を付けたあと、それだけを言い残して歩き出した。
月光の下を進むその背中は、静かで凛としていた。
――名前も、身分も知らない。
けれど、なぜか心が少しだけ軽くなった。
「……不思議な人」
ターニャは、冷たい風が頬を撫でる中でそっと呟いた。
◇
夜会から数日後、王都の空は眩しいほど澄み渡っていた。
先日の騒動をすべてを洗い流してくれたかのようだった。
ベルナルディ伯爵家の屋敷には、あの夜会の翌日から次々と届け物が届いた。
花束、贈答品、謝罪の書簡――どれも断罪未遂を謝罪するものや、伯爵家への労い表すという名の贈り物ばかりだった。
ターニャと姉達は、午後のティータイムを楽しみつつ送られた品々に目を通した。
「見てこれ“ターニャ嬢の勇気に敬意を”ですって」
セレスティーヌが封書を読み上げながら、少し呆れたように笑った。
「数日前までは“かわいそうな子”って噂してたのにね」
アナスタシアは紅茶を注ぎながら肩をすくめる。
「人の心って、軽いものよ。……でも、妹が誇らしいわ。あの時のターニャったら………」
お姉様たちが肩を震わせて笑いだした。ターニャは恥ずかしそうにカップを両手で包む。
「……あんな怒鳴り方したの、初めてだったのよ」
「かっこよかったわよ。あの場にいた人たちの顔が、今でも忘れられないもの」
そんな姉妹の会話を見ていたエリザベート夫人が穏やかに微笑む。
「ターニャ。あなたが自分の言葉で私達を守ってくれた。それが何よりも嬉しいことなのよ」
その言葉に、ターニャの胸がじんわりと熱くなった。
数日も経たないうちに、王都の空気は一変した。通りを歩けば、人々は小声でこう噂する。
「ベルナルディ伯爵家の令嬢たちは、あの可憐な庶出の娘を守ったんですって」
「王子殿下が軽率だったとか……」
「陛下のお言葉がごもっともで……」
噂は“いじめ”から“絆”の話へと変わっていった。
人々はターニャを“美しく芯のある娘”として語り、姉たちは“誤解された愛情深き令嬢”と称されるようになった。
そうして、ベルナルディ家の名誉は見事に回復していった。
数日後、王城へ謝礼の報告に赴いた帰り。ターニャは庭園でふと立ち止まった。
夜会で自分を支えてくれた、あの男性の姿を見かけた気がしたのだ。
噴水のそばに、あの時の青年が立っていた。王家の紋章を刻んだ騎士服を身にまとっている。
深い紺色の上着は光の加減で黒にも見え、肩から胸にかけて走る装飾糸は、まるで剣の軌跡のように鋭く美しい。
彼は彼女に気づくと、穏やかに微笑んだ。
「……あの時の令嬢だな」
「あなたは……」
ターニャが戸惑うと、彼は手を胸に当て礼儀正しく頭を下げた。
「アラン・リュシアン。王国騎士団副隊長を務めております」
ターニャの目が大きく見開かれる。
「ふ、副隊長……様!? そんな偉い方だったんですか……」
アランは苦笑した。
「偉くはない。ただ、少し長く剣を握っているだけさ」
その穏やかな声色と笑顔がふと眩しく見えて、ターニャは思わず頬を赤らめた。
◇
それからというもの、アランと顔を合わせる機会が増えた。王城への書状の届けなどで、姿を見かけるたびに会話を交わすようになった。
「また会いましたね」
「偶然ですよ。……多分」
そう言い合って笑う時間が、少しずつ心を温めていった。
アランはターニャの言葉に、よく耳を傾けてくれる。母のことを話すと、静かに目を伏せて聞き、姉たちの話になると口元に微笑みを浮かべる。
「貴族であろうと平民であろうと、守りたいと思える人に出会えるのは奇跡だと思う」
そう言った彼の言葉が、ターニャの胸に深く残った。
顔を合わせたときの僅か時間だったが、彼と話す時間はとても心地よい。
気のせいか、風の香りまで違っているような気がした。




