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平民出の令嬢は継母と義姉にいじめられる……って全部誤解ですから!  作者: 紗幸


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6 社交界に流れる誤解


 柔らかな陽射しが、庭のバラの蕾をやわらかく照らしていた。屋敷のサロンには香ばしい紅茶の香りと、笑い声が静かに響く。

 金糸の縁取りが施されたティーテーブルの上には、ターニャが自分で淹れた紅茶のカップが四つ並んでいた。


「ターニャ、貴女の所作はもう完璧ね」


 エリザベート夫人が優雅に微笑む。彼女の凛とした姿勢と立ち居振る舞いは、いつも正しくマナーブックのようだった。そんなエリザベート夫人にほめられたことは、思わず叫びたくなるほど嬉しい。

 まぁ、もちろん叫ばないけど。だって、絶対に後からお姉様に怒られるもの。


「最初は緊張で手が震えてたのに、今じゃわたくしより優雅じゃない?」

「そ、そんなことは……」


 ターニャは慌てて首を振ったが、アナスタシアは上機嫌に笑っていた。


「いいえ、ほんとよ。ほら、セレスティーヌもそう思うでしょう?」

「ええ、ターニャは本当に上手になったわ。この紅茶もとてもいい香りね」


 セレスティーヌは柔らかく微笑みながら、ターニャのそばに腰を下ろした。彼女の声は春風のように穏やかだった。


「最初に“お辞儀の角度”を一緒に練習したの覚えてる? 何度もやって腰を痛めそうだったのに、いまはもう完璧よ」

「……ふふ、そうでしたね」


 ターニャは思わず笑った。練習の最中、よろけてテーブルに頭をぶつけたことまで思い出す。そんな小さな失敗すら、今では懐かしく思える。


 ここに来てから、自分は本当に変わった。それも全て、エリザベート夫人と姉たちのおかげだ。

 ふと、ターニャの視線が膝に落ちる。ここ最近、ずっと胸に陰るモヤがどうにも晴らせないでいた。

 指先をぎゅっと握りしめながら、小さく息をついた。


「でも……わたしのせいで、ご迷惑をおかけしていませんか?」

「え?」とアナスタシアが目を瞬いた。


「だって……わたしが伯爵家に引き取られてから『平民の娘が来た』って。街ではいろんな噂になって次々と……」


 ターニャの声は次第に小さくなり、最後にはほとんど囁きのようになった。


「このまま皆さまが変な目で見られ続けたらと思うと……私、悔しくて」

「……ターニャ」


 ターニャは小さく肩を震わせた。それ見たエリザベート夫人が、カップを置きながら緩やかに立ち上がる。名前を呼ぶ声は穏やかで、けれど芯があった。


「あなたを引き取ると決めたのは、わたくしたちの意志よ。あなたのお父様から貴女の事を聞き、引き取るという話になった時、わたくしは確かに思うところが少しはありました」


 一瞬、夫人の瞳にかすかな影が宿る。だが、すぐにやさしく微笑んだ。


「でもね、産まれてきた子に罪はない。まして、こんなに真面目で健気な子なら……むしろ、娘が増えたことを嬉しく思っているの。無理にわたくしの事を『お母さま』なんて思わなくていいのよ。でもね、母のように頼ってほしいと常に思っているわ」


 そう言いながらエリザベート夫人が優しくターニャの髪に触れる。暖かい言葉に、ターニャの瞳に熱いものがこみ上げてきた。


「あ……ありがとうございます……」

「あらあら、貴族令嬢は簡単には泣かないものよ」


 夫人はそっとハンカチを差し出した。刺繍入りの、夫人の手作りのものだ。涙を拭うターニャの隣で、アナスタシアが軽く肩を叩く。


「わたくしもね、最初は“平民の娘が来る”って聞いて、どんな子が来るのかしらって思ったの。でも、とても真面目で、努力家で……正直、驚いたわ」


 アナスタシアはいたずらっぽく微笑む。


「だって、この短期間でここまで覚えちゃうんですもの。上出来よ、ほんとに。うちの使用人たちも感心してたわ」

「……ありがとうございます! アナスタシアお姉さま」


 その隣で、セレスティーヌも頬を染めながら笑っていた。


「わたしね、アナスタシア姉さまが少し厳しいから、ずーっと妹が欲しかったの。だからターニャが来てくれて、本当にうれしかったのよ」


 そして少し真剣な声で続けた。

「でもね、貴族社会ってとても厳しいものでもあるわ。だから、そんな中でターニャが大変な思いをしないような力を身につけて欲しいって思ってたの」


 その言葉に、ターニャの胸がいっぱいになった。ああ、自分はこんなにも優しい人たちに囲まれているのだ――と。


「……わたし、皆さまと家族になれて本当によかったです」


 ターニャは目に涙を浮かべながら、貴族令嬢にあるまじき溢れんばかりの笑顔を見せた。いつもなら『淑女は歯を見せて笑わないのよ!』とお姉様に注意されているはず。だけど、今日のサロンには穏やかな小鳥のような笑い声が咲いた。

 紅茶の香りと、春の陽がそれを包み込んでいた。


 それは、ターニャが伯爵家の娘として初めて感じた『家族』の時間だった。

 


 ーーけれど、そんな穏やかな日々の裏で、静かに“噂”は広まっていった。


「伯爵家の平民娘は継母に虐げられているらしい」

「義姉たちは冷たくあしらっている」


 そんな根拠のない囁きが、まるで春風に乗る花粉のように少しずつ静かに広がっていた。




 春の終わり。ターニャは16歳になっていた。


 ベルナルディ伯爵家では、初夏の社交シーズンに向けた夜会の準備が始まっていた。

 大広間のシャンデリアは磨き上げられ、白大理石の床には星のような光が踊る。壁にかかる絵画は新しく飾り直され、花瓶には香り高い白百合が生けられていた。

 ターニャにとっては、初めての正式な夜会。貴族の場への“お披露目”の機会でもある。


 鏡の前で侍女にドレスを整えられながら、ターニャは胸の奥がきゅっと縮こまるのを感じていた。初めて夜会に出席するターニャは、緊張で足がすくむ。

 淡い水色のドレスに、エリザベート夫人が贈ってくれた青い宝石のペンダント。

 姿見に映る自分を見て、まだ信じられなかった。


(本当に、私がこの場所にいていいのかな……)


 けれど、その不安を見抜いたようにセレスティーヌが笑いかけた。


「大丈夫。あなたは今日、一番可愛いわ」


 アナスタシアも、微笑を浮かべて頷く。


「背筋を伸ばして。堂々としていればいいのよ」


 その言葉に背を押され、ターニャは小さく息を吸って呼吸を落ち着けると、会場に足を踏み入れた。

 そこは、煌めく宝石と香水の海だった。伯爵家の娘たちが登場すると、会場に一瞬ざわめきが走る。


「ベルナルディ家の令嬢たちよ」

「……あの庶子の娘も一緒なのね」

「見て。随分可愛らしいけれど、あれが虐げられてる子だって?」


 囁き声が、まるで冷たい風のように背後を通り抜けていく。ターニャは笑顔を作りながらも、足の震えそうになる。

 そんな彼女の手を、そっと取る人がいた。セレスティーヌだ。


「大丈夫よ、ターニャ。背中伸ばして。うつむいたら負け」

「……は、はい」

「あと笑顔。そうそう、あんまり引きつらないでね」

「も、もう……お姉様ったら」


 小さな笑いがこぼれ、ほんの少しだけ緊張が和らぐ。だがその様子も、遠くから見れば姉が妹を叱責しているように見えたようだ。

 舞踏会の合間。貴族の婦人たちが扇を揺らしながら、声を潜めて囁き合う。


「ご覧なさい、セレスティーヌ嬢がまたあの庶子を注意しているわ」

「まあ、なんて冷たい目。まるで使用人に命令するみたい」

「聞いた話では、継母のエリザベート夫人もあの子を厳しく扱っているとか」

「噂通りなら、なんて可哀想なの……」


 彼女たちの視線が、囁く声がターニャの胸に刺さる。ターニャは笑顔を保とうとするが、胸の奥に不安が積もっていった。


(どうして、こうなってしまうんだろう。) 


 お姉様たちは、優しいのに。なのにみんな勝手に違うように見てしまう。


 その夜、ターニャのもとには次々と青年たちが訪れた。ターニャは頭に叩き込んだ貴族名鑑と照らし合わせる事になる。

 最初に声をかけてきたのは、穏やかな笑みをたたえたジュリアン・レヴェル伯爵家の次男。

 以前、街で偶然見かけた事があるらしく、ターニャのことを気にかけていると告げられた。


「ターニャ嬢。やはり今宵もお美しい……」

「そ、そんなこと……ありません」

「いいえ貴女のような方は、滅多にいませんよ。その笑顔は、まるで春の光を閉じ込めたようです」


 ターニャはその言葉に思わず頬を染めた。


「何か困っていることがあれば頼ってくださいね」


 はて? 彼に言われた言葉の意味が一瞬分からなかった。けれど、彼の瞳の奥にほんの少し心配の色が見えた。それは、義姉たちの噂を聞いたからなのだろう。

 ほんの一瞬だけ、素敵な人だと思ってしまった。だけど、この人もあの噂を信じているのか。そうと思うと一瞬のトキメキも冷め、胸の奥にドロッとした不快感が溜まった。


 次に現れたのは、社交界の花形と呼ばれる青年、シリル・フォルディア。軽快な口調と人好きのする笑みで、多くの女性を虜にしてきた人物らしい。


「ターニャ嬢、貴女の噂は本当に絶えませんね」

「噂……ですか?」

「ええ。誰もが貴女の美しさと優しさを語っています。どんな人にも分け隔てなく微笑むところも貴女の魅力だ」

「ありがとうございます。……ただ、母がそうあるべきだと教えてくれただけです」


 その素直な返事に、シリルは一瞬言葉を失い呆けたような表情を浮かべた。そして、少し笑みを浮かべ「貴女は凛々しいのですね」と言いながら立ち去っていった。


 誰も彼もが噂のことを口にする。社交界でどんな噂が、どのように広がっているのだろうか。ターニャの中に、少しずつ小さなモヤが溜まっていく。


 一度風に乗れば、花弁のように社交界を舞い、やがて誰の言葉かもわからないまま少しずつ少しずつ歪な形で“真実”に変わる。

 様々な囁きが、晩餐会の合間に、舞踏会の陰で、そして昼下がりのティーサロンで語られていく。

 そのほとんどが、実際に見たこともない者たちの噂だったのに。




 ある日の夜、ベルナルディ伯爵家は王都で開かれる夜会に招かれていた。

 季節の花々で飾られた広間は、光の海のようにまばゆく、音楽が絶えず流れている。


 その夜の最後に突然現れたのは、第二王子ラウル殿下だった。

 金の髪に、誰もが惹き付けられる青い瞳。そんな彼が何故かターニャに近付いてきた。

 誰もが頭を垂れるその存在に、ターニャは口元を引き締めた。


「初めてお会いしますね、ターニャ・ベルナルディ嬢」

「お初にお目にかかります、ラウル殿下。ベルナルディ伯爵家の三女、ターニャと申します。本日、こうして直接お言葉を交わせますこと、光栄に存じます」

「そんなにかしこまらなくていいよ、ターニャ嬢。君の噂を聞いているよ」


 “噂”という響きに、一瞬ターニャの指が震える。

 けれど、ラウルはそれに気づかず、穏やかに微笑んだ。


「その境遇に屈せず、いつも周囲を立て、決して前に出ようとせず、礼儀と礼節を身に着けた慎ましく優しい方だとか」


 (え? それって……どういう意味?)


 殿下の口にした内容だと、殿下まで噂を耳にし信じているように聞こえる。


「……光栄なお言葉です。私の姉たちはとても優秀ですから。自然と私は支える側に回ることが多いだけですわ」

「そうか……けれど、時に“支える側”ばかりでは、息が詰まることもあるだろう?」


(……何を心配しているの、この方は)


「……殿下は、とてもお優しいのですね。ですが、ご心配には及びませんわ。私、とても幸せなんです」


 そう告げたターニャの瞳は真っ直ぐで、嘘がひとつもなかった。

 そうか。と殿下は一言つぶやくと、ふっと視線をそらし、なにかを考える素振りを見せた。


「君の笑顔が嘘ではないことを祈っているよ」


 殿下はターニャにふっと笑みを見せた。軽やかに背を向けたかと思うと、気づけばもう人々の輪の中へと溶けていっていた。


 ーー夜会の後、ターニャは馬車の窓に映る自分の顔を見つめていた。少しだけ疲れた笑顔。今日の夜会での出来事を思い返す。ラウル殿下との会話も。

 馬車の車輪の音に重なって、ターニャの心が静かに軋む。


(あの人たちは、知らない。どれだけお姉様たちがわたしの事を気にかけてくれたか。夜遅くまで勉強に付き合ってくれたことも……泣いてしまったとき、そっとハンカチをくれたことも)


 色々な人が噂を耳にし、信じている事は知っていたが。だけど、まさか殿下にまで。

 ターニャの胸の奥に、小さな苛立ちが増え続けていた。




 そして、数日後。


 “純粋な娘を救うべきだ”という、歪んだ正義が形を取り始める。


 ターニャの知らぬところで、静かに“断罪”の夜が準備されていた。


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