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平民出の令嬢は継母と義姉にいじめられる……って全部誤解ですから!  作者: 紗幸


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5/13

5 噂の始まり


 暖かな陽射しがベルナルディ邸の庭園をやわらかく包む。噴水の水が光を散らし、色とりどりの花が風に揺れていた。


 その真ん中で、ターニャは背筋を伸ばして立っていた。頭の上には一冊の分厚い本。両手にはティーカップを持ち、ひとつも傾けないように息を止めている。


「肘が下がっているわ、ターニャ。貴族の令嬢は、何より姿勢が命よ」


 アナスタシアの声が鋭く響く。その美しい顔立ちには、少しも妥協を許さない気品が漂っていた。


「ひぃ〜また出たわ、アナスタシア姉様のスパルタ講座!」


 セレスティーヌが苦笑混じりに言う。金の巻き髪が陽にきらめき、淡い桃色のドレスが軽やかに揺れた。


「セレスティーヌ、あなたも昔はこうして練習したのよ。忘れたの?」

「いやぁ〜、忘れたい記憶だわ!」


 ふたりの姉が掛け合うように話す中で、ターニャは必死に姿勢を保っていた。本が少し傾くたび、心臓がどきりと跳ねる。


(お姉様たちは……本気でわたしを鍛えてくれてる)


 そう思いながら、ターニャは言われた通りに何度もやり直した。庭に流れる春の風の中で、彼女の努力だけが小さく光っていた。



 その庭を、偶然、通りかかる人々がいた。

 上流貴族の夫人たちだ。エリザベート夫人の知人であり、今日は午後のお茶会の誘いで屋敷を訪れていたのだ。


「まぁ……あの子が例の庶子なのね?」

「ええ、聞いたわ。亡くなった平民の娘の子ですって」

「叱られて震えてない?」

「なんてこと……あの厳しい指導、見ていられないわ」


 夫人たちは、庭の隅でひそひそと囁き合う。遠くから聞こえるアナスタシアの声は、冷たく響く金属の音のように聞こえた。


「背中が曲がっているわ! 体幹を意識してやり直し!」

「は、はいっ……!」


 その光景を見た夫人たちは、口元を覆ってため息を漏らした。


「やっぱり……引き取ったといっても、あの子を本当の娘と思ってはいないみたいね」

「かわいそうに。あんな扱い、いつまで耐えられるものかしら」


 ――その小さな誤解が、王都の社交界に波紋のように広がるまで、そう時間はかからなかった。


「ベルナルディ伯爵家では、庶子を虐げているらしい」

「エリザベート夫人は、実子以外には冷酷だそうよ」

 そんな言葉が、色々な昼食会やお茶会の場でささやかれ続けた。


 エリザベート夫人の耳にも、もちろんその噂は届いていた。だが彼女は何も言わず、ただ静かに微笑むだけだった。


ーーそして、その噂はやがてターニャの耳にも届いた。

  


 春の陽射しが、王都の大通りを金色に染めていた。石畳を照らす光がきらきらと反射し、どの店も開け放たれた扉から甘い花の香りを漂わせている。

 ベルナルディ伯爵家の馬車がその通りを進み、三人の娘が降り立った。


 アナスタシアは薄青のドレスに日傘を差し、完璧な姿勢で歩いている。

 セレスティーヌは白いフリルのワンピースにレモン色のリボンを揺らし、周囲の視線を軽やかに受け止めていた。

 そして、その少し後ろを緊張気味に歩くのがターニャだった。


 黄色のシンプルなドレスに身を包み、髪にはエリザベート夫人が結ってくれたリボン。街の喧騒の中でも、心臓の鼓動だけがやけに大きく聞こえる。


(こんな素敵な場所に……私がいるなんて、まだ夢みたい)


 今日は、ドレス用の布地や香水を見に来る日。姉たちが、ターニャの息抜きのために街歩きを提案してくれたのだ。庶民の暮らししか知らなかったターニャにとって、それはほとんどは冒険に近かった。


「ターニャ、こっちよ」

 アナスタシアが涼やかに振り返る。

「布地を見に行くからあまり離れないように」

「は、はいっ」


 しばらく三人で店を巡っていたが、セレスティーヌが香水店に興味を示して別の通りへと入っていった。

 アナスタシアは仕立て屋で店主と話し込み、ターニャは少しだけその場を離れた。

 向かった先は、通りの端にある小さな露店。手刺繍のハンカチが並んでいて、ふと母のことを思い出したのだ。


 ――そのときだった。


「ねぇ、聞いた? ベルナルディ伯爵家の庶子の子の話」

「ええ。あの、平民出身の娘でしょう? 最近引き取られたっていう」

「そうそう。あの家で相当酷い扱いを受けてるらしいわよ」


 背中の方から、夫人たちの声が聞こえた。ターニャの手からハンカチがすべり落ちる。


「毎日厳しく叱られてばかりで、泣いてるんだって」

「継母と令嬢たちは、まるで意地悪な監督官みたいなんですってよ」

「まぁ……可哀想に。庶子というだけでそんな扱いなんて」


(……え?それって私…のこと?)


 息が止まった。視界がぼやけて、喧騒が遠のいていく。言葉を失ったまま露店を離れ、ゆっくりと大通りへ戻る。


「ターニャ! どこ行ってたのよ!」


 セレスティーヌが声を上げた。彼女の後ろでアナスタシアも心配そうに眉を寄せている。


「顔色が真っ青よ。どうしたの?」

「……なんでも、ない……」

「なんでもなくはないでしょう?」 


 アナスタシアがそっと手を取ると、ターニャの手が冷たいことに気づいた。

 そのまま近くのカフェに入り、席につく。香り立つ紅茶が運ばれてきても、ターニャはカップに手を伸ばせない。

 そして、俯いたまま小さくつぶやいた。


「お姉様たち……さっき、噂を聞いたの。……私がお屋敷でいじめられてるって」


 その瞬間、二人の姉は顔を見合わせた。だが、姉たちに浮かんだ表情は驚きではなく“呆れ”に近かった。


「またその手のくだらない話ね」

「えぇ〜、また出たの? 前は“実の娘たちに掃除をさせられてる”とか言われてたのに」

「次は“虐げられてる”? 創作意欲旺盛な人たちだこと」


 セレスティーヌがあきれ顔で扇子を開く。

 アナスタシアはコロコロと笑いながら、静かにターニャの前に紅茶を置いた。


「そんな噂、気にする必要はないわ。人は、見たいようにしか物事を見ないものよ」

「で、でも……お姉様たちが悪く言われて……」

「別に構わないわ」


 アナスタシアの声は落ち着いていた。


「人の噂なんて、いつか消える。私たちがあなたをどう思ってるか。それが一番大事でしょ?」


 セレスティーヌも頷き、笑った。


「そうよ。私たち、可愛い妹ができて嬉しいんだから。その噂のおかげで“悪役姉妹”なんて言われちゃって……ちょっと格好いいんじゃない?」

「ちょ、ちょっとお姉様!」


 ターニャが慌てて顔を上げると、セレスティーヌは楽しそうに肩をすくめた。


「ね、笑い話にしちゃえばいいの。泣いたりしたら、噂の思うツボよ」


 アナスタシアはその横で、少し柔らかく微笑んでいた。


「あなたは何も悪くないの。だから胸を張ってなさい、ターニャ」


 帰りの馬車の中。窓の外に沈む夕日が、三人の横顔を橙に染める。

 ターニャは静かに息を吐いた。


(お姉様たち……ほんとに強いな)


 あの二人の揺るぎない姿が、ターニャはとても眩しく見えた。



 だけど屋敷に戻っても、胸の痛みは消えなかった。勉強の合間も、刺繍をしていても、あの言葉が頭の中をぐるぐると回っていた。


(違うのに。お姉様たちは、そんな人じゃないのに)

(みんな、ちゃんと優しいのに……)


 夜、机に向かって文字を書こうとしても、涙で滲んできて読めなかった。ふと、母の遺した針箱を抱きしめる。小さな金属音が、かすかに鳴った。


「……おかあさん、私どうしたらいいの……」


 声に出した瞬間、涙が頬を伝った。


(わたしが、ちゃんとできないから……みんなが悪く言われてるんだ)


 そう思うと、胸が締めつけられるように痛かった。アナスタシア姉様の指導も、セレスティーヌ姉様の励ましも、私のために一生懸命になってくれている。それなのに、それがお姉様たちの立場を悪くするものに繋がるなんて。


 母の針箱を抱きしめ、声を押し殺して泣いたその時――

 静かに扉がノックされた。


「ターニャ?」


 入ってきたのは、エリザベート夫人だった。

 薄桃色の寝衣姿で、金の髪を緩く結んでいる。いつもの華やかさとは違い、今はどこか静かな月のような雰囲気をまとっていた。


「もう遅いのに、勉強していたの?」

「は……はい。もっと上手にならないと、皆さんに迷惑をかけちゃうから」

「迷惑を、かける?」


 エリザベートは一歩近づき、机の上に置かれたターニャのノートを静かに閉じた。


「ねえ、ターニャ。人があなたをどう思うかなんて、気にしなくていいの」

「でも、噂が出てるって……。お母様やお姉様たちが悪く言われてるって。それって私のせいで……」

「違うわ」


 夫人はターニャの肩にそっと手を置いた。

 その手は、信じられないほど暖かかった。


「あなたが頑張っていること、私はちゃんと見ているの。アナスタシアも、セレスティーヌもね。……あの子たち、不器用なのよ。優しさを、すぐに出せないだけ」


 ターニャは顔を上げる。エリザベートの瞳は月明かりを映して、どこか切なげに揺れていた。


「わたしもね、最初はあなたをどう扱えばいいかわからなかった。でも、あなたを見ていると、昔の自分を思い出すの。強くなろうとするのに、泣いてしまう……そんな自分をね」


 言葉の一つひとつが、ターニャの胸の奥に静かに染みこんでいく。エリザベートはターニャの髪をそっと撫で、微笑んだ。


「だから、泣いてもいいのよ。泣いて、笑って、また頑張りなさい。その繰り返しで、いろいろなことを学び、立派な人間にになるのよ」


 ターニャの頬に残る涙を、夫人の指がそっと拭った。

 その手の温もりに、ターニャは初めて――

 “母”の匂いを感じた。



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