4 冷たい手の温もり
ベルナルディ邸に来てから、ひと月が経った。
ターニャの生活は、まるで息をつく暇もないほどに変わっていた。
朝は夜明け前に起き、礼儀作法の稽古。食事の際の姿勢、言葉遣い、ナイフとフォークの角度まで様々なことを厳しく指導される。
午後は読書室で歴史や貴族法を学び、夜にはダンスの練習。ほんの少しでも間違えると、すぐに姉たちの冷たい声が飛ぶ。
「背筋を伸ばしなさい、ターニャ」
「その手の角度、下品に見えるわ。……まるで平民のままね」
「歩くときにスカートを上品につまみなさい、音を立てないように歩くのよ」
アナスタシアの青い瞳は、いつも真っ直ぐで、逃げ道を許してくれなかった。
セレスティーヌは明るい笑顔のまま、やけに細かい注文をつける。
「もうちょっと優雅に笑って!」
「口角を上げて、目線ははこうよ! そうそう……違う! 何でできないの!?」
姉たちから冷たい言葉がかけられる度に、ターニャは顔を真っ赤にして俯いた。胸の中では、言葉にならない感情が渦巻いていた。
(どうして……こんなに怒られるの?)
(わたし、なにか悪いことした……?)
ある日、昼の稽古のあと、ターニャは中庭のベンチに座っていた。
指先には赤いインクの跡がついている。午前のテーブルマナーの練習で、カトラリーの持ち方を何度も間違えた。その時、アナスタシアに「もう一度やり直し」と言われた時にインクを付けられた結果だ。
太陽の光が花壇の上に降り注いでいる。庭師が手入れする香り高い薔薇たちが風に揺れていて、本当なら心地いいはずの空気。だけど、今のターニャには何も届かなかった。
「……おかあさん。もう疲れたよ」
ターニャは小さく呟く。針仕事のときみたいに、やさしく褒めてくれる人はもういない。
――その時だった。
「ターニャ?」
声に顔を上げると、セレスティーヌがこちらを覗いていた。彼女はいつものように明るい笑みを浮かべていたが、ターニャの赤い手を見て、すぐに表情を変えた。
「……それ、どうしたの?」
「え、あっちょっと、練習で」
「はぁ………アナスタシア姉様ね」
小さく溜め息をつくと、セレスティーヌはターニャの手を取り、自分のハンカチで拭き始めた。
「ほんと、あの人ったら容赦ないんだから。……でもね、貴女に本気になってるからなのよ」
「え?」
「私の小さな頃なんてもっとお姉様は厳しかったわ。ねぇ知ってる? あなたが寝たあとに、お姉様ったらどうすればターニャはもっと覚えやすいかしらってノートにまとめてるのよ」
ターニャは目を見開いた。自分のために?あの冷たい口調のアナスタシア姉様が?
信じられない。けれど、胸の奥がほんのり熱くなった。
「セレスティーヌ姉様は……なんでそんなに優しいんですか」
赤いインクを一生懸命落とそうと拭き続けてくれているセレスティーヌに、ターニャはおずおずと尋ねた。
「優しい? わたしが? あらやだ、そんな言葉私には似合わないわ」
くすくすと笑いながら、セレスティーヌは金の髪を風に揺らす。
「だってね、あなたが泣いてたら家の空気が暗くなるじゃない。明るい妹がいたほうが楽しいもの」
「……優しい理由なんですね」
「うふふ、私の素敵さに気づいちゃった?」
おどける様にセレスティーヌは言うが、その瞳は優しくターニャを見つめていた。
そのとき、遠くからアナスタシアの声が響いた。
「セレスティーヌ! 午後のレッスンの時間よ!」
「はーい! まったく、お姉様は真面目なんだから」
セレスティーヌは立ち上がり、去り際にターニャの髪をそっと撫でた。
「焦らなくていいわよ。少しずつでいいの」
その一瞬の手の温もりが、ターニャの胸に深く残った。
その夜。
ターニャはベッドの上で、昼間のことを思い返していた。
アナスタシアの冷たい視線。
セレスティーヌのきつい言葉。
エリザベート夫人の無表情な指導。
(もしかして……私はずっと叱られてたんじゃなくて、しっかりと教えられてたのかな)
そう考えると、全部が少しずつ違って見えてくる。
母は以前よく言っていた。
「人はね、優しさを隠すことがあるの。恥ずかしいからって顔してね」
ターニャは小さく笑って、針箱を胸に抱いた。
「……おかあさん。みんな、ほんとは優しいのかもしれないよ」
カーテンの隙間から、月の光が静かに部屋を照らしていた。その光は、ターニャのことを少しだけ温かく包んでいた。




