3 新しい暮らし
ターニャに用意された部屋は、まるで絵本の世界のようだった。
天蓋付きのベッドには白いレースのカーテン、窓には刺繍入りの厚いカーテンが揺れている。
木製の家具には繊細な彫刻が施され、壁には花の絵が飾られていた。
(きれい……でも、なんか落ち着かない)
小さな頃から母と二人、六畳にも満たない部屋で暮らしていたターニャには、この広さが少し怖かった。
声を出しても、誰も返してくれない。母の針の音も、もう聞こえない。
胸が締めつけられるように痛くなって、ひたすら枕を抱きしめながら眠れない夜を過ごした。
翌朝。
侍女が用意してくれたドレスは淡いクリーム色で、胸元に長めのリボンがついていた。慣れない長さのスカートに戸惑っていると、指が絡んでリボンが解けてしまった。
鏡の前でリボンを結び直そうと戸惑っていると、ドアが勢いよく開いた。
「まだ着替えてないの? 遅いわね」
アナスタシアが入ってくる。今日も完璧に整った髪に、瑠璃色のドレス。まるで肖像画の中から抜け出してきたみたいだった。
「ご、ごめんなさい……紐が、ちょっと……」
「まったく……。貸しなさい」
アナスタシアは黙って正面に立つと、手早く紐を結んでくれた。指先の動きは慣れていて、思いのほか優しい。
「……はい、終わり。少し姿勢を伸ばして。背筋が曲がると、貧相に見えるわ」
「……すみません」
「謝らないで。忠告よ」
言い方は冷たくても、口調の奥にどこか“教える人”の響きがあった。
けれどターニャは、その微妙な優しさをまだ拾えない。
「貧相に見える」
その言葉だけが胸に刺さり、心がしぼんでいく。
昼下がり。
広い食堂の長いテーブルに並ぶ料理。銀の食器が光り、絵画のようなランチの時間。
ターニャは緊張して、フォークを手に取るのもぎこちなかった。隣に座ったアナスタシアが、苦笑まじりに声をかける。
「朝も思ったけど、そんなに小さく食べてどうするの。もっと姿勢良く口を開けなさい。食べる姿が猫みたいじゃない」
「えっ……」
「そうよ、ちゃんと食べなさいよ。栄養つけなきゃ、あなたがドレスを着てもドレスが映えないでしょ?」
どこか楽しげに言うセレスティーヌ。
だがターニャは、“猫みたい”の部分でまた胸がチクリと痛んだ。
(猫みたい……か)
より緊張が酷くなり、慣れないフォークの先が震える。思わず俯いたターニャの手元に、そっとナプキンが差し出された。
顔を上げると、エリザベート夫人がターニャを静かに見つめていた。
「俯かないで堂々としなさい。あなたはもう、ベルナルディ家の娘なのだから」
その声は、氷のように冷たく響くのに、どこか不思議な温度を持っていた。
その言葉にターニャが思わず頷くと「あら、今日は泣いてないのね」とエリザベート夫人は目を細めた。
わずかな彼女たちの“温度”の変化を理解するには、ターニャはまだ幼すぎた。
――その夜。
大きなベッドの上で、ターニャは小さな母の針箱を抱きしめていた。
静まり返った屋敷の中で、涙が頬を伝う。
(おかあさん……あたし、ここでやっていけるかな……)
金の灯りが滲む天蓋の向こう、窓の外には満月が浮かんでいる。その光が、針箱の上の古い糸巻きをそっと照らしていた。




