10 エスコート
王城に通う日々は、静かにターニャの心に新しい彩りを落としていった。
アランとは、打ち合わせや廊下ですれ違うたびに短い会話を交わす。その一つひとつが、彼女の日常に光を灯すようだった。
笑うときの彼は普段の無骨な印象とは違い、驚くほど柔らかかった。アランはいつも穏やかで、丁寧で、それでいて冗談を交わすことを忘れない。会うたびに、彼の笑みに心がかすかにざわつく。
そして気づけば、彼の足音を探していた。
彼と交わす何気ない言葉、彼の低い声もふとした微笑みも、ターニャの心を安らげてくれるものになっていた。
数週間後。
王妃陛下への献上品――金糸をあしらったテーブルクロスがついに完成した。
光に透かすと、布地の上を花々が咲き誇り、まるで春がそのまま縫い留められたようだった。
王妃陛下は感嘆の息を漏らした。
「まあ……この繊細さ。ターニャ・ベルナルディ嬢、あなたの指先はまるで魔法のようね」
「も、もったいないお言葉でございます……!」
王妃の微笑みに深く頭を下げながらも、ターニャの胸は静かに満たされていた。
けれど帰り際、王城の長い廊下を歩きながら、ターニャはふと立ち止まる。
(もう、ここに来ることも……少なくなるのかな)
アランに会うことも、もうほとんど無いだろう。そう思うと胸が少しだけ痛んだ。
それは、仕事の終わりの寂しさだけではなかった。
それから数日後。
伯爵家に届けられた一通の封書が、静かな午後を変えた。
封蝋には鷲の紋章、差出人は――アラン・フェルディナン。
「ターニャ。あなたに『次の王城で開催される夜会において、ターニャ・ベルナルディ嬢を正式にエスコートしたい』との申し出がきているわ」
エリザベート夫人が読み上げた内容にターニャの指先が震えた。
姉のアナスタシアが母が読み上げた封書を覗き込み、ニヤリと口角を上げる。
「まあ……素敵じゃない」
「ま、まって姉様! これはきっと深い意味では――!」
「顔が真っ赤よ、ターニャ」
セレスティーヌが横から微笑む。
「騎士団副隊長が正式な書面で申し出るなんて、ただのエスコートでは無さそうね」
「ち、違いますったら!」
ターニャが慌てれば慌てるほど、その声を姉達が笑い声が包み込んだ。胸の奥では、何だか温かいものが膨らんでいく。
アランの真面目な顔が頭に浮かび、なかなか離れてくれなかった。
◇
ーー夜会の夜。
夜の王城は、まるで星空そのものが降りてきたかのように輝いていた。
伯爵家の馬車がゆっくりと停まり、扉が開く。
先に降りたアナスタシアとセレスティーヌが、妹に笑みを向けた。
「ターニャ、緊張してる?」
「……すこしだけ」
手袋をはめた手が小刻みに震えているのを、セレスティーヌが優しく握る。
「大丈夫。あの方が待っているでしょう?」
――あの方。
その一言で、胸の奥がくすぐったく熱を帯びた。
そして、馬車の外に立っていた人物へと視線を向けた。
夜会用の礼服に身を包んだアランは、普段の騎士としての厳格な姿からは想像できないほど洗練されていた。深い紺の上着に金糸の刺繍が走り、その立ち姿は夜空を背にした一筋の光のようだった。
「……こんばんは、ターニャ嬢」
低く、落ち着いた声。
その声を聞いただけで、心臓が跳ね上がる。
「アラン様……その……今夜は、いつもと雰囲気が違って……」
ターニャは言葉を探しながらも、つい目を逸らしてしまった。
そんな彼女を見て、アランが小さく口角を上げる。
「そうかな、私はいつも通りだよ。ただ、君があまりにも美し過ぎて見惚れてしまったからかもしれないな」
「っ……」
耳の奥まで赤くなる。
「アラン様、からかわないでください……」
「からかってなんかいない。事実を述べただけだ」
その言葉に、アナスタシアが後ろでくすくす笑う。
「うちの妹、照れ屋だからほどほどにしてあげてくださいね、アラン様」
「心得ております」
アランが軽く一礼してから、ターニャへ手を差し出した。
「では、行きましょう」
アランから差し出された手を取った瞬間、心臓が跳ねた。
白い手袋越しでも感じる、確かな体温。ターニャは深呼吸をひとつして、アランに導かれながら会場の扉の前へと進む。
大広間の扉がゆっくりと開かれた瞬間、シャンデリアの金色の光が波のように押し寄せた。
ざわめきが広がり、視線が二人へと集まる。
――あの夜。
冷たい視線と噂が降り注いだ、あの夜と同じ場所。
ターニャの喉が小さく鳴った。だが、その手を引くアランの掌が、軽く力をこめる。
「大丈夫。誰も、君を傷つけたりはしない。私が隣にいる」
その一言に、胸の奥の緊張が少しずつほどけていく。彼の横顔はまっすぐに前を見据え、まるで彼女を導く灯火のようだった。
「……ありがとうございます、アラン様」
「礼を言うなら、ダンスのあとにしてくれ」
音楽が流れる。アランがターニャの腰に手を添え、もう片方の手でそっと彼女の指を取った。
ターニャの頬は熱く、鼓動が速い。こんなに人が見ている中で踊るのは初めてだった。アランと目が合うと、世界が静まり返ったように感じた。
「緊張してる?」
「……はい。きっと顔が真っ赤です」
「確かに少し赤いかな。……だが、君はそのままでいい」
彼が差し出した手を取ると、音楽が流れ始めた。ゆるやかなワルツの調べの中、二人は踊り出した。
リズムに合わせてくるくると舞うたび、ドレスの裾が花びらのように広がり、ターニャの髪が光を反射する。
アランの掌が背中を支える。その温度が、安心と同時に心臓を早く打たせた。踊りながら、視線が絡む。音楽が、まるで二人の呼吸に合わせるように緩やかに流れていく。
「殿下の夜会で、あのとき毅然と立っていた君を覚えているよ」
「あの時は、家族を悪く言われたことが悲しくて……必死でした」
「そんな風に誰かを守れる人は、そう多くはいないさ」
「……アラン様」
声が震える。けれどその震えは、もう恐れではなかった。
舞曲が終わり、アランが小さく息を吐いた。
「少し、外に出ないか」
ターニャは頷いた。
二人は静かに庭園へと向かう。夜風が頬を撫でる。月光に照らされた庭園は、銀の霧をまとったように幻想的だった。遠くで音楽の余韻が聞こえ、二人の間に静かな空気が流れる。
アランがゆっくりと口を開いた。
「……初めて会った日のことを、よく覚えている。君が声を上げた日。君の瞳は真剣で、でもどこか無防備で……誰よりも誠実で、誰よりも勇敢だった」
ターニャは小さく目を伏せ、指先を握る。
「皆さん、驚きましたよね……」
「そうだな。貴女の“強さ”を見せられたものは皆驚いただろう。だが、私にはそれがとても美しく見えた」
ターニャは息を詰めた。
「そんなふうに思われていたなんて……」
「そして、会うたびに知った。君がどれほど優しく、強く、そして誠実な方かを。私はその笑顔もすべてを大切にしたい」
ターニャの頬を、夜風が撫でた。本当なら冷たいはずなのに、アランの言葉の温かさに、胸がいっぱいになる。
「……アラン様」
声はかすかに震えていた。
「私も……あなたに出会ってから、たくさんのことを知りました。人の優しさも、努力の尊さも」
ターニャの言葉にアランは微かに目を細めた。そして微笑みながら、ターニャの手を取った。
触れた指先が震え、心臓が暴れるように脈を打つ。
「ターニャ。……俺はあなたと共に生きたい」
「……っ」
「もし、許されるなら、あなたの人生を一緒に歩ませてください」
彼の言葉の一つひとつが、心に深く突き刺さる。あまりにも真っ直ぐな言葉に、ターニャの目に涙が滲んだ。
少しの沈黙のあと、ターニャは微笑んだ。
「はい、アラン様。私も、あなたと一緒に……生きていきたいです」
アランの瞳がほんの少し揺れ、彼女の手をそっと握りしめる。手のぬくもりが、夜の冷たさをすべて溶かしていく。
ターニャは涙をぬぐって、少し笑いを含んだ声で言った。
「……アラン様。私はまた、噂を呼ぶ事があるかもしれません。でも、その時は私が口でアラン様を守って差し上げます!」
「君が、私を?」
「はい。あの夜のように」
アランは一瞬きょとんとした顔をし、それから堪えきれないように笑いだした。
「ははっ……それは頼もしいな。でもその時は、私の剣で君を守ろう」
その言葉に、ターニャの胸がぎゅっと締めつけられた。
「……ずるいです、アラン様。また、ドキドキさせられました」
「それなら、少しはおあいこだ」
ターニャの頬が、再び熱く染まる。アランの笑顔が眩し過ぎて、胸が高鳴って息が苦しいほどだった。けれど、その高鳴りがなぜか愛おしい。
夜の風がふたりの間を通り抜け、薔薇の香りが夜空に舞い上がる。
アランがそっとターニャの手を取り、持ち上げた。その指先に彼の唇が少しだけ触れた。その瞬間ターニャはもう、世界の音を忘れていた。
夜空の下、ただ二人の心臓の音だけが、静かに響いていた。




