無名の狩人
薄曇りの朝、小柴村の東端にある古い神社へと続く細道――そよ風が稲穂を揺らし、遠くから子供たちの声が微かに響いてくる。しかし狩人――名を語らぬ二十五歳の彼には、まだ声は届かない。村長の頼みで、昨夜から消息を絶った娘・紗衣を捜すため、森の奥深くへ足を踏み入れていた。
腰に携えたのは、風属性を宿す細剣《颶風の葉裂》と、火属性の魔弾を放つ魔弓。剣は細身だが鋭く、弓は魔石の輝きを帯びて重厚な威力を秘めている。彼は草鞋の足取りに合わせ、獣の気配を探るように周囲を窺いつつ、滲む魔力を静かに整えた。
やがて、沼地の畔で見つけた爪痕――幅広い三本の跡が、土に深く刻まれている。狩人は息を吐き、弓を構えた。火の矢を放てば、一瞬で闇を焼き尽くす。その先に待つのは、村を震撼させた魔獣、《熔炎翼竜》。古代竜の末裔と恐れられる大型の翼竜である。
眼前の沼から、重々しい呻き声が響いた。灰色の鱗は煤を含み、背中には炎のように赤く裂けた紋様が浮かんでいる。狩人は矢を軽く燻してから放った。炎の矢は翼竜の肩を撃ち抜き、痛みに怒り狂うその巨体が唸りを上げる。
細剣を抜き、狩人は素早く踏み込んだ。風の刃が狂暴な爪撃をいなし、次々に斬撃を刻む。翼竜は咆哮とともに火息を吹きかけるが、彼は炎の矢を空へ向けて誘爆させ、煙幕のように煙を巻き起こしつつ反撃を継続した。
激闘の果て――最後の一撃は、颶風の刃が竜の左胸鱗を穿つ。轟音と共に肩を崩した翼竜の翼が垂れ、焦熱と裂ける風が洞窟の外へ吹き出す。狩人は冷静に弓を背に納め、剣を鞘へ戻した。その背に、紗衣の声が届いた。
「狩人様!本当に…本当に、ありがとうございます!」
声の主は村長の一人娘、紗衣。昨夜、洞窟に迷い込んだところを翼竜に襲われ、かろうじて隠れていたのだった。狩人は振り向かず、包帯と秘薬を用意するよう少女に言った。彼女の震える手で傷を癒されながら、狩人の頬に淡い陽炎のような思いが交錯する。
「名前は?」紗衣の瞳は真剣だった。
狩人は夜露に濡れた草鞋を踏みしめながら、視線を天へ向けた。雲間から漏れる光を受け、風が頬を撫でる――。
「名など不要だ。必要なのは、また困った時に呼んでくれることだけ」
少女は小さく笑い、深く一礼した。
夕暮れ、小柴村は再び安らぎを取り戻し、村人たちの笑い声が軒を揺らした。魔獣の脅威が去ったあとに、紗衣は狩人の背姿を追う。胸の奥で、新しい感情が静かに炎を灯していた。
無名の狩人は、名を持たぬゆえに自由だった。だが彼の戦いは、人々の笑顔と、ひとりの少女の心に刻まれている。――その足跡が、いつの日か伝説となることを、彼自身はまだ知らない。