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月の犬  作者: 松本あおい
8/8

「子供が生まれるの。父なし子にはできない」


「子供なんて降ろせばいいじゃん」


 子供だって、痴漢の子供に生まれたくないと思う。正論だ。次の瞬間、私は床の上に座り込んでいた。頭に強烈な痛みがあったので殴られたんだと思う。痛みで定かではない。


「バカなの。この子はお腹で育っているの。殺せるわけないじゃない」


 片方の耳が聞こえない。聞こえている方の耳がお姉ちゃんの声を拾っていた。


「それに、信志言ってた、誘ったのはあんたの方だって」


 ぬらりひょんのことを思い出した。真実が歪んでいく。


「真実なんてどうでもいい。この子には父親が必要だった。だから学校にも駅にも警察にも悪いのはあんたの方だって言ったの。気づかないあんたの方が負け」


 全てはお姉ちゃんの入れ知恵なんだ。衝撃を受けたのは私だ。お姉ちゃんは母という名の女王なのか。


「例の相談料、まだ貸しのままだよね。今、払ってもらう。結婚の邪魔はしないで。ちゃんと指輪を持って歩いてよね」


 諦めた時が負けだ。理解している。耳も頭も心も皆痛い。諦めるしかなかった。お姉ちゃんの背中には黒い羽根が生えている。



 黒天使のお姉ちゃんが式を挙げるのは、天使の教会とも呼ばれている、フレンチレストランに併設されたチャペルだ。あちらこちらに天使がいるデザインの内装は、キャンドルに照らされ、厳かな空気を纏っている。母に聞いたところ、ヨーロッパの小さな教会を移築したそうだ。雰囲気で決めたのかと思ったら、妊婦へのサービスが充実していたことが、決め手になったそうだ。お姉ちゃんらしい。聖歌が流れる中、式が始まった。肝心な時にいない父も、今日はお姉ちゃんの隣で緊張している。お姉ちゃんも法廷に赴く時のように凛々しいのだろう。式前の一件で気まずくてお姉ちゃんを直視出来ない。

 ヴァージンロードから見る招待客たちは、一様に張り付いた笑顔だ。皆心の中では何を考えているのかわからない。大人になるということは、呼吸するように嘘をつくことなのかもしれない。人形のような客たちの顔の中に心が暖かくなる柔らかな顔を見つけた。露出狂を捕まえてくれた警察官だ。彼も私に気づいたらしい。大股になってしまい、ベールを踏んでお姉ちゃんから睨みつけられる。

 式は滞りなく進んだ。映画みたいに牧師さんが、この結婚に反対の者は、と聞くこともない。厳かな空気の中二人は誓いのキスを交わした。私が公園で見たのとは全く異なる神聖なキスだ。居合わせた皆が祝福している。お姉ちゃんは結婚してしまった。全て終わり。女王の前にひれ伏したのだ。

 チャペルと、披露宴が行われるレストランの間には中庭がある。アイビーが伝うチャペルは中庭での写真撮影が人気らしい。写真を撮る為にライカも連れて来られた。中庭の大きな木に繋がれている。おとなしく座って待っていると思っていたら独りじゃなかった。傍らに例の警察官がいる。ライカが私に気づいて吠えた。ライカと声をかけると警察官が振り向いた。彼にだけ光が当たっている。白い歯がこぼれるなんて映画みたいだ。


「ライカって言うのか。ライカって、宇宙に初めて行った犬の名前だよね」


 良く知っている。初めて宇宙で閉じ込められて、初めて宇宙で死んだ、人類の大事な友達だ。


「お姉ちゃんがつけてくれたんです」

「先日はご協力ありがとうございました」


 律儀に頭を下げる姿もまた素敵だ。


「本人も反省していますし、何件も被害届が出ていまして。無事に立件できそうです」


 いいなと思えた人と、結婚式で再会するなんて縁がある。神様の思し召しかなにかなのだろうか。心が踊る。ライカがまた吠えた。応援してくれていると思えた。思い切って名乗る。


「私、美月といいます、新婦の妹です」

「僕は武志」


 チャペルの扉が開いて、腕を組んだお姉ちゃんたちが現れた。あちらこちらからおめでとうとフラッシュの嵐だ。皆に笑顔を振りまき、私に近づいてくる。新郎新婦の満面の笑みに背筋が寒くなる。私は痴漢してきた男をこの先ずっと、お義兄さんと呼ばなくてはならない。恐ろしいことだ。なるべく関わりたくない。ライカが武志さんとじゃれている。心が和んだと同時に、誰にも邪魔されたくないと思った。お姉ちゃんの気持ちと同じかもしれない。幸せは何かの犠牲の上に立つ。


「もう仲良くなったの」


 全てを見抜いたかのような笑顔だ。


「武志くん、妹をよろしくね」

「こちらこそよろしくお願いします、お義姉さん」


 状況を把握していない私に、新郎が近づいてきた。思わず離れる。


「武志、やることが早いな」


 新郎が武志さんを小突いた。信志と武志。似ている。


「美月ちゃん、兄は頼りになるから安心して」 


 兄弟なのか。何故気づかなかったのだろう。新郎がにやけている。痴漢の弟が警察官だなんて信じられない。兄の犯罪を知っているのかいないのか。新郎がライカに手を出して吠えられ、お姉ちゃんがライカを叱った。


「大丈夫。犬の扱いには慣れている」


 新郎は私を見て舌を出した。蛇だ。蛇夫婦だ。きっとお姉ちゃんは私が武志さんを気に入ることに気づいていたのだ。好きになったら、痴漢のことなんて言い出さなくなると思ったに違いない。

 私たちは中庭に並ばされた。お姉ちゃんがライカを呼んで一緒に並んだ。私はカメラマンに言われて仕方なく、新郎の隣に並ぶ。新郎が勝ち誇ったような笑みで、弟共々よろしくと言って、私のお尻を叩いた。


「これから楽しみだなあ」


 皆見ているのに誰もが笑っているだけだ。兄と妹の、微笑ましいスキンシップだと思っているのだろう。虫酸が走る。新郎が私にだけ聞こえるように言った。


「険しい顔するなよ。笑え。笑顔は幸せを呼ぶから」


 新郎が私の背中に手を回してくる。背中から大事なものが吸い取られていく気がした。お姉ちゃんの幸せを守るための、生け贄じゃないか。痴漢だと報告しても駄目。警察も弁護士も駄目。救えない。ライカが吠えた。カメラマンに犬をおさえるよう言われる。ライカは気に入らないのか、ずっと唸りっぱなしだ。カメラマンがライカをなだめようとしている姿に皆が笑う。武志さんも私の横で微笑んだ。武志さんは夏の太陽のように眩しい。新郎と武志さんに挟まれて苦しかった。月が恋しい。

 今晩は新月だ。漆黒の闇だ。道しるべとなる明かりはない。弟が警察官であっても痴漢をするなんて信じられなかった。武志さんに相談したところで、お姉ちゃんはあらゆる手を使ってもみ消すだろう。死ぬと分かっていて送り出された宇宙犬ライカのようだ。

 宇宙犬ライカは、小さな宇宙船に閉じ込められて、地球から無理矢理はなされた時、どう思ったのだろう。どんどん遠ざかる地球をどう眺めたのだろう。真っ暗な宇宙の中で、たった独りで何を思ったのだろう。人間の友達になったことを後悔したのだろうか。宇宙犬ライカは、独りで宇宙船に載せられることを知っていた。納得はしていない。最後まで反抗したはずだ。騙されたと嘆き悲しんだだろう。我が家のライカも同じだ。写真のためだけに連れて来られ、中庭に繋がれる。納得はいかないだろう。

 カメラマンが諦めてカメラに戻った。撮りますよと合図する。納得いかないまま、宇宙に飛び出したくない。断固抵抗する。今度こそ痴漢を撃退すると決めた。

 私は、お尻にコバンザメのように付いている、新郎の手を掴んで挙手した。


「この人、電車の中で私に痴漢しました」


 お姉ちゃんの舌打ちが、カメラのシャッター音に消された。

 ライカが空に向かって吠えた。



                       完

最後まで読んでくださって、ありがとうございます。

貴重なお時間をありがとうございます。


この話は、少しだけ、現実が混ざっています。

辛い現実はいくつもありますが、全て必要なタネで、いつかは花が咲くと、私は信じています。


お気に召していただけたなら幸いです。

もしお時間がありましたら、感想などいただけると、励みになります。

また執筆致しますので、是非また遊びに来てください。


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