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月の犬  作者: 松本あおい
6/8

 母は、お姉ちゃんの好きな麻婆豆腐を作って待っていた。棒を投げてもらった犬みたいに尻尾を振っている。どこまでも走っていくに違いない。母にとってお姉ちゃんは一番だ。次女の私は二の次というか、台所の手伝いくらいにしか思っていないと思う。何かことが起きると必ずお姉ちゃんに相談する。私に相談してくれるのは夕食の献立くらいだ。仕方がないと思っている。お姉ちゃんは弁護士だから私だってお姉ちゃんに相談したい。私がもう少し頭が良くて、器量が良ければ違ったかもしれない。

 弁護士と痴漢と被害者と、尻尾を振る人の四人で麻婆豆腐を囲む。駄目な家族の見本のようだ。私の落胆を他所に三人は和気あいあいに話している。素敵な人じゃないと母が言えば、ミスター完璧なのよと答える。痴漢する人のどこら辺が素敵なのか。完璧なのは逃げ方なのではないか。遣り切れない。顔にも出ていたようだ。母にもお姉ちゃんにも叱られる。お姉ちゃんの彼氏は不敵に微笑んだままだ。何か企んでいそうだ。


「東大を出てらっしゃるって、三月子ミカコから聞いたわ。すごいわ」

「一番になることが好きなのよね」

「それは逆にストレス溜りそうね。ストレス発散はどうしてらっしゃるの。スポーツとか」

「電車に乗ることかな」


 照れ笑いしている。乗り鉄なのよねとお姉ちゃんも口添えする。痴漢が目的なのに乗り鉄とは呆れた。自分の彼氏のことを全くわかっていないお姉ちゃんも、しれっとしている彼氏もバカだ。電車で痴漢してストレス発散しているんだよ。女子高生にストレスをぶつけているんだよ。自分の彼女の妹を怖がらせて喜んでいるんだよ。全部ぶちまけてやりたかった。皆嘘ばかりだ。


「鉄道オタクなら、お父さんと気が合いそう」


 父が、お姉ちゃんの彼氏の本当の姿を知ったらきっと怒る。反対する。大事な時に限って出張するんだから困る。居ない時に呼んだお姉ちゃんは確信犯だ。

 痴漢が私の家でご飯を食べながら、平然と笑っていることに慣れない。お姉ちゃんは普段ぐいぐいとビールを飲むが、今日は気取っているのか、注いでばかりだ。お姉ちゃんは結婚するのだろうか。痴漢が義理のお兄さんになるなんて恐ろしすぎる。痴漢だと知らないから付き合えるのだ。知ったら別れるだろう。お姉ちゃんに教えてあげるべきだ。頭でわかっていても、楽しそうな三人を見ると輪を壊そうとしている、自分が正しく思えなくなる。黙っているしか選択肢がない気がした。



 駅まで送っていった、お姉ちゃんは帰るなり、わざわざ私の部屋にきた。


「痴漢に遭ったって作り話したんだってね」


 耳を疑った。どうしてお姉ちゃんが作り話のことを知っているのだろう。まさかお姉ちゃんの彼氏が痴漢に間違えられたと、報告したのか。いや、それはないだろう。お姉ちゃんの彼氏が犯人なのだから。


「駅に、痴漢えん罪注意喚起の張り紙があった。名前はなかったけれど、あんたとすぐ分かる書き方だった」


 お姉ちゃんの顔が歪んで見えた。駅員も犯罪者扱いするなんてひどい。男は男の味方をするのか。書いてあったことは嘘で本当に痴漢に遭ったと言おうとした。


「あんたが痴漢に遭おうが遭うまいが、私には関係ない。私の言う通りに安全ピンで撃退すれば良かったのに、校章使ったでしょう。校章を痴漢が持っていたそうじゃない」


 校章を拾われたことまで知っているのか。


「私が痴漢に遭ったことがないと思って、バカにして言う通りにしなかったんでしょ。痴漢にくらい何度も遭ったから」


 口を尖らせているお姉ちゃんを見て、痴漢に遭ったことがないのだと気づいた。


「私は結婚して出て行く。残ったあんたはこの家で好き勝手にやれば」

「お姉ちゃん、あの人と結婚するの」

「そう、結婚するの。結婚して幸せになるの」


 子供を産んで母になる、と勝ち誇ったように言った。駄目だ、お姉ちゃん。幸せになんかなれないよ。止めないと、大好きなお姉ちゃんだけでなく家族全員が不幸になる。


「お姉ちゃん、あの人は良くないよ。結婚しても幸せになれないよ」


 言葉をさえぎるように、お姉ちゃんが思い切り扉を叩いた。強い音で耳鳴りがした。


「私の幸せの邪魔をしたいってわけね。あんたって本当にバカよね」


 お姉ちゃんは誤解してると思ったが、伝わらない。お姉ちゃんの目に涙が浮かんでいた。


「やっかんだ妹に、結婚を反対されるとは思わなかった。あんたが次女として生まれたことが気に入らないのはわかる。お古はいやだ、新しいカーテンが欲しいとか、ずっとお母さんを困らせてたよね。でも生まれる順番なんて私のせいじゃない。これでもずっと可愛がってきたつもりよ。それなのに姉の幸せを邪魔したりして、一体何が気に入らないのよ」


 まるっきり私が悪者だ。泣きたいのは私の方だ。お姉ちゃんの彼氏が痴漢なの。言いたかったけれど、言えなかった。お姉ちゃんに信用されていないのだ。言っても信じてもらえない。ぬらりひょんの時とまるで同じだ。


「絶交だから、嘘つきさん」


 家でも嘘つきになった。




「学校から、美月が嘘をついて混乱させたと連絡がきたわ。何をやったの」


 母を真っすぐに見られず、母のエプロンについた汚ればかり見ていた。


「お姉ちゃん、結婚するんだから、迷惑かけないようにね」


 迷惑をかけるのはどっちだろう。母からライカの散歩に行くよう、リードを渡された。

 夜の町は静かだった。ライカの爪がアスファルトに当たる音が妙に大きく感じる。心に入り込む風すらない、ぼんやりとした夜だ。

誰からも信用されず、絶交されてばかりだ。

ライカが鳴いた。自分がいるよと主張しているようだ。頭を撫でると激しく吠えた。吠え過ぎだとたしなめても止めない。何故止めないのか。しつけることすらできていない。

 ライカが勝手に歩き出した。リードを強く引っ張られ、一緒に走る。コートを着た男が見えるとライカが止まった。コートに見覚えがある。嫌だなと思ったらライカが走り出した。リードが手から離れてしまう。


「ライカ」


 止める間もなく、ライカが男に飛びかかりお尻に噛み付いた。悲鳴を上げて男が振り向く。コートがはだけて裸があらわになった。思った通りいつもの露出狂だ。


「君、飼い主なら離れるように言って」


 半泣きで何度も後ろを振り返る姿は、尻尾を追いかけ、回る犬のようだ。露出狂のくせにとやり場のなかった怒りが沸き上がる。


「痛いんだ、早くしてくれよ」


 情けない態度を装ってきた。怒りは収まるどころか大きくなり、ついに爆発する。


「子供いるのに痴漢するなんて最低だ。なんで痴漢なんてするの。痴漢して何が楽しいの」


 お姉ちゃんの彼氏に言ってやりたかった。痴漢するなんて最低だと。お姉ちゃんにも言いたかった。痴漢と結婚するなんてバカだと。


「痴漢痴漢言うな。こっそり触るような卑劣なヤツじゃない。自分自身をさらしただけだ」

「露出狂も痴漢だ。自分自身だろうとなんだろうと私は見たくない。見たくないものを見せるのは暴力だ」

「暴力はどっちだ。早くバカ犬を離させろ」


 ライカが歯を見せて唸っている。犬であっても本気で食いついていたら、お尻もライカも血だらけだ。ちょっと笑った。ライカは賢い。怪我をさせても何の解決にもならないことを知っているのだ。今怒りにまかせて露出狂を非難しても暴力でしかない。痴漢と変わらない暴力だ。冷静になろう。


「答えたら離してもいい」


 露出狂とライカが動きを止めた。


「何故裸なの。何故女子高生に見せるの」


 答えない露出狂にライカが唸る。


「仕事が大変だったんだ。家に帰っても娘がいるからリラックスできなくて」


 気の毒になるくらいしょんぼりしている。ライカが唸ったので、同情しそうになる自分を取り戻せた。


「一度妻と喧嘩して、下着の上にコートを羽織っただけで外に出されたことがあって。パンツの中に、風が入るのが気持ちいいんだよね。それから時々コートにパンツでうろついていたんだけど、だんだんエスカレートしてきて、裸になった」


 露出狂がくしゃみをした。さすがに露出しすぎたようである。ばかばかしくなってきた。


「ライカ、おいで」


 露出狂のお尻を離すと、一喝して私の横に戻った。今のライカと私は一心同体である。侑里となれなかった信友だ。悲しいほどはっきりしている。露出狂はコートの前を閉じた。


「最初は偶然コートが風でめくれて、女に見られてしまったんだけど、きゃーと言って逃げられた時に、胸がきゅっとしめつけられたんだよね」


 言っていることがよくわからなかった。露出狂は想像しているのか、あらぬ方をうっとりと見ている。


「ああこれだって思ったんだ。足りなかったのはこれだと。平凡な毎日がバラ色になった。風が通っても裸でも本来の自由に戻るだけ。女の悲鳴を聞いて初めて、秘密が露見するというワクワクと、生きている実感が湧いたんだ。必要だったのは観客だと気づいたんだ」


 変態だ。万引き小学生も万引きのスリルで生きている喜びを感じているなら、変態だ。


「犯罪者の子は結局犯罪者。娘さん、スーパーで万引きしてた」


 変態親子なんだから、仕返ししてやるという気持ちで、スーパーでの万引きを事細かく説明した。露出狂の目が鼠のように怯え、右往左往していた。知らなかったのだろう。親子がどうなるのかわからない。気が晴れるかと思っていたのに、責任を負ってしまったような、重たいものに包まれてしまった。ライカが空気を破るように吠える。

 革靴の音と共に、どうしましたかと声がした。若い警察官だ。モデルと言っても通用しそう。心臓が急に跳ねてまばたきが止まらない。ワクワクして生きている実感が湧いた。露出狂とは似ているけど違う。私の感情は変態のそれではなく、恋のたまごのようなものだ。急に風が吹いてちょうど良く露出狂のコートがはだけ、下半身が見えた。若い警察官はすぐに取り押さえてくれた。一挙手一投足が格好いい。娘の万引きを聞いて以来茫然自失状態の露出狂は抵抗する様子もない。私が警察に、万引きの話をすると思っているようだ。娘が捕まるくらいなら自分が捕まろうと考えたに違いない。あっけなく一件落着した。もう露出狂は出ないだろう。ホッとしたと同時にポッとした。大丈夫でしたかと聞かれたが緊張して首を振るくらいしかできない。世界が色彩を取り戻した。


「何もなかったなら良かった。襲われることもありますから、無理して捕まえないように」


 若い警察官は最後まで紳士だった。

 ライカとスキップしながら帰った。

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