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いつもの露出狂だ。
思ってもみなかった事態に凍りつく。同じくお父さんも気づいたようだ。無言の丁々発止が始まる。露出していたよねと私が口をパクパクさせると、お父さんが首を振る。痴漢でしょと目に力を込めると、お父さんはまた首を振る。言いつけるからねときびすを返そうとすると、お父さんはいきなり女の子を小脇に抱え、猛ダッシュで去った。
私はまた痴漢をみすみす逃した。露出狂なのに子供がいる。しかも女の子だ。きっと奥さんもいる。家庭があるのに、何故女子高生に裸を見せるのか。ストレスで脱ぐ人もいると聞いたことがある。家庭内がうまくいっていないからストレスがあるのかもしれない。娘が万引きするくらいだ。問題を抱えているに違いない。同情してしまいそうだ。二人の痴漢にいいように振り回されていないか。人の良い自分に落ち込む。一つだけ良いことがあると気づいた。露出狂は娘がいることを私に知られてしまった。少なくとも私を狙うことはなくなるだろう。不幸中の幸いだ。納得はいかないが安堵した。
夜は夢も見ずに泥のように眠った。
出勤するお姉ちゃんと廊下ですれ違う。早く帰ってくるようにと念を押された。母に寄ると、いよいよお姉ちゃんの彼氏のお披露目らしい。母は天にも昇りそうなほど興奮している。お姉ちゃんのキスを思い出しそうになったので、ぶんぶん振って頭から追い出した。
ホームに侑里はいなかった。心友ではなくなったからだろうか。かばんにつけたままのキーホルダーを弄ぶ。まだ外す気にはなれなかった。
電車の中は空いていた。いやに空いている。痴漢どころか私の周りには誰もいない。隣の車両は混んでいるようだった。不思議だ。混んでいない電車はとても快適である。息が出来るし、自由だ。幸せだと思うと胸が弾んだ。
学校の最寄り駅に着いた。学校がある日のホームは学生で埋めつくされる。同じ制服の波にのって歩くのは嫌いじゃない。むしろ好きだ。皆同じように頑張っているんだと思えて力が湧く。電車を降りた。
ホームは同じ学校の子たちで一杯だ。最後尾に並んで一緒に歩き出す。前を歩いていた女の子が横にずれて私の前が空いた。私が前に進むと更に前の子たちが道を開ける。改札まで一本の道になる。モーゼのようだと思ったのも束の間、容赦ない視線が刺さって痛い。蜂の羽音が聞こえるような気がした。音の方を見るとぴたりと止む。何かの噂話をしているとしか思えない。底知れぬ怖さを感じた。
学校までの道も正門を入っても、蜂の羽音は続き、大きくなっているようだった。全校生徒が私を白い目で見て陰口を叩いている。踏み出す一歩一歩が地獄に繋がっていた。
校舎の入り口に、ブスと書かれた紙が貼ってある。私の下駄箱には嘘つきの紙が貼ってあった。歩く先々の廊下に張り紙が増えていく。
『嘘つき。犯罪者。きもい。牝狐。薄汚い。痴漢してください。私をおかして下さい』
一枚一枚の言葉が蜂の針のように刺さる。誰が何を言ったのだろう。私は被害者なのに何故糾弾されるのか。私がどういう人間か知っているクラスメートなら、分かってくれるに違いない。廊下に皆の楽し気な声が漏れている。おはようと努めて明るく挨拶した。クラスメート全員が押し黙った。私のおはようはいつまでも所在なく漂う。席につくと黒板が目に入った。『痴漢したと男を罠にはめた嘘つきブス』と書いてある。誰の顔も見られなかった。きっと皆薄笑いを浮かべて、私を見ているに違いない。
ぬらりひょんが入ってきた。ぬらりひょんの顔を見ると、昨日触られたことから痴漢の手つきまで次々に思い出してしまう。ぬらりひょんと目が合いびくりとした。
「授業やります。席についてください」
誰かが担任はどうしたのかと聞いた。
「このクラスには、問題を起こした生徒がいます。しばらくは生活指導の私が担当して指導していくことになりました」
誰彼ともなく話し始め、中には私を指す生徒もいる。侑里がどんな顔をしているのか、私の席からは確認できない。空気が薄い気がして胸が苦しい。ぬらりひょんが私の席まで歩いてきた。
「嘘つきさん、このままでは授業できませんから、ご自分で片付けて下さい」
いいですねと念を押された。嘘つきさんと馬鹿にされたけれど、命令に従うしかない。ぬらりひょんに触られたことを思い出して、気分が悪くて仕方がなかった。のろのろと黒板を消す。消しても消しても黒板は一向に綺麗にならない。頬を拭った。ぬらりひょんとクラスメートが笑っている。頭の後ろに目がなくても分かった。
「学校全部に張り紙してありましたから、この時間内に全て撤去するように。それが終わったら、反省文を書いてください」
黒板を消し終わるや否や廊下に出され、扉を閉められた。
放課後、反省文を書かされた。
「学生の本分は勉強です。他人を陥れることではありません。クラスメートにも多大な迷惑をかけました。社会に出て一度でも嘘をつけば信用を失い、人生の階段を踏み外してしまうのです。あなたの一言で誰かの人生が狂うこともあります。軽率な行動は慎みなさい」
ぬらりひょんの言葉に、頭を下げるしかなかった。掃除と反省文でくたくたである。膝が笑っていた。五駅でも、立って帰ることはできそうにない。外はすっかり暗くなっていた。電車は通勤ラッシュの時間帯だ。座って帰れない。落胆した。座れないということは、また痴漢に遭う可能性がでてくる。捕まえた痴漢は本物だったのか偽物だったのか。今となってはわからない。偽物なら本物の痴漢は放置されているし、本物なら捕まったことへの仕返しがあるかもしれない。不安が頭をよぎった。ネガティブな思いはネガティブな結果を呼ぶ、とお姉ちゃんが言っていた。痴漢は捕まえてもういない。大丈夫だと気持ちを落ち着けた。
普段の朝の電車よりも混んでいる。乗るのをためらうくらいだ。すみませんと頭を下げながら乗り込む。電車に乗っているのは疲れて不機嫌そうなサラリーマンばかりだ。一様にスマホを触っているか、つり革を掴んでいる。痴漢する余裕のある人はいなさそうだ。安心して窓の外を流れる夜景を見ていた。不意にお尻を強く掴まれる。ハッとして体が堅くなった。かばんが当たったのでも手が当たったのでもない。間違いなく痴漢だ。手はお尻を掴んだまま揉み始める。捕まえた痴漢が本物なら二度と来ない。侑里が捕まえた痴漢は偽物だったのだ。恐ろしいと同時に腹も立った。すり抜けて痴漢し続けるなんて女の敵だ。今度こそ成敗してやる。
やめてくださいとはっきり言ってやった。
「やめないよ」
明るい声だった。自分のしていることに全く反省していない。心臓がばくばくと鳴った。子連れの露出狂に出逢ったときよりも、怖かった。窓ガラスに痴漢が映った。笑っている。
「先日は捕まえてくれてありがとう」
侑里が捕まえた痴漢だ。捕まえたのは本物の痴漢で、仕返しに来たのだ。
「まるで犬だな。オレの前で尻尾振って」
痴漢は私のお尻をもっと強く握ってきた。
「おかげさまで、痴漢えん罪被害者になれたよ。知ってるか、一事不再理って」
息をするのも忘れて痴漢を凝視した。窓ガラスの中の痴漢は微笑みを浮かべたままだ。
「一度無罪になったら、同じ罪では問われないんだよ。つまり、この関係なら、君が嘘をついたのだから、オレは無罪放免。今触っても、オレは無罪で、君の嘘ということになる」
オオカミ少年、いやオオカミ女子高生かと笑う。転んでもただでは起きない人だ。周りを見ても、皆見て見ぬふりだ。どうしたらいいのだろう。校章は落としたままで返ってきていない。お姉ちゃんが言うように安全ピンをつけておけばよかった。学生かばんの中を急いで探る。何もない。かばんを抱きしめた時キーホルダーを思い出した。侑里とお揃いの心友の印だった、ミニ油性ペンのキーホルダー。外さずにおいてよかった。油性ペンを外すと痴漢の手をめがけて動かす。痴漢の手はひっこまない。とにかく手に油性ペンを押し付け続けた。電車がホームに入った衝撃で、痴漢の手と油性ペンが離れる。ドアが開くと同時に人を押しのけ、電車を下りた。後ろから誰かの苦情が聞こえてきたが、かまわなかった。改札まで走る。お姉ちゃんを発見した。嬉しくて、決壊したダムのように涙が止まらない。
「何泣いてんの。バカね、みっともない」
お姉ちゃんの感じ悪い言い方も、優しい慰めに聞こえる。バカという言葉にすら愛を感じた。迎えにきてくれてありがとうと礼を言う。お姉ちゃんは、心外だという表情で首を振った。
「早く帰るように言ったでしょ。あ、来た」
階段を降りてくる男の人に、手を振っている。邪魔しないようにと念を押された。お姉ちゃんの彼氏が来ると、母が興奮していたことを思い出した。色々あったから忘れていた。急いで後ろを向いてハンカチで頬を拭う。侑里に贈った、ハンカチと同じものであることに気づいて、ちょっと落ち込んだ。
「妹さん、可愛いね。信志です。よろしく」
よろしくお願いしますと頭を下げて、お姉ちゃんの彼氏の手が赤いことに気づいた。赤い油性ペンで、めちゃくちゃに書いたみたいだ。
「ちょっとどうしたのよ、それ」
「仕事中にペン持ったまま寝ちゃって」
悪びれる様子もない。油性ペン持ったまま寝ても、手の甲が汚れることはないだろう。痴漢に書いたものと似ていると思う。声だって痴漢とそっくりだ。お姉ちゃんの彼氏の顔を見るのが怖い。とても現実を受け入れられそうにない。お姉ちゃんの彼氏が痴漢だと決まったわけではないのだ。逃げてばかりではいられない。確かめる必要がある。思い切ってお姉ちゃんの彼氏の顔を盗み見た。驚きのあまり声も出ない。残念だけどやはり例の痴漢だ。同じ顔で間違いない。お姉ちゃんは知らないのだろうか。お姉ちゃんの彼氏は自分が痴漢した女子高生が私だと、気づかないのだろうか。二人の表情を伺っていたが、とても仲の良いカップルにしか見えなかった。二人が何を考えているのかわからない。家まで黙って二人の後ろをついて行くしかない。駅から家までの距離が、今日ほど長く感じたことはなかった。