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月の犬  作者: 松本あおい
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 ぬらりひょんから解放されて、侑里を探した。心友を嘘つきにするとは思えない。侑里なりの理由があると思った。トイレの前で、手を拭いている侑里と会えた。ハンカチは誕生日に贈ったものだ。イニシャルを自分で刺繍した。使ってくれていることが嬉しい。侑里は目が合うなり遅かったねと笑った。遅くなったのは侑里のせいなのに、と頭に血が上る。嬉しかった気持ちが吹き飛んだ。侑里が見ていないと言ったばかりに、ぬらりひょんから、セクハラな尋問を受けることになった。夫の嘘を見抜いた妻みたいに声がうわずる。


「どうして見てないなんて、嘘言ったの」


 言葉は思った以上にきつく感じた。言い過ぎかもしれないと少し後悔する。心友とは真友を経て信友になりたい。仲違いをしたいわけではないのだ。侑里はぬらりひょんに聞いたのかとあっさりしている。


「だって見てないもの」


 一緒に居たよねと食い下がってみたが、見てないの一点張りだ。らちがあかない。


「じゃなんで痴漢だなんて言ったの」

「美月が言ったんだよ、痴漢だって」


 確かに私が侑里に痴漢だと言った。侑里は私の言葉を信じただけだと言うのか。


「見てないんだから、見てたなんて言わないで。まるで私が嘘つきみたいじゃない」

「見ていないのになんで校章の話をしたの」

「私は校章を外すのを見たと言っただけ」


 ぬらりひょんは、傷つけるような行為と言ったのだ。校章の針で刺そうとしていたと言ったとしか思えない。


「変なことをしようとしていた、美月が問題なんじゃないの。本当に、痴漢に遭ったの?美月の方が自意識過剰だったんじゃないの」


 ひどい。侑里までが嘘をついたと言うなんて思わなかった。


「侑里だって、痴漢を間違えて捕まえたのかもしれないじゃない」

「美月のために捕まえたのに、私が間違えたって言うの。信じらんない。美月の後ろにはあの男しかいなかったんだから、間違えようがないでしょう」


 完全に水掛け論だ。


「私が間違えて捕まえたと言うなら、もういい。今後一切声かけないで。もう心友じゃないからね」


 けんか別れになった。信友になれない。

 侑里がハンカチをゴミ箱に捨てた。最悪だ。



 私が落ち込んでいたからか、母が一緒に買い物に行こうと誘ってくれた。小学生の頃はお姉ちゃんにいじめられて泣くたび、母がスーパーに連れ出してくれた。明々とした店内は誰もが笑顔で、品物すらも微笑んでいるように見えた。美月はスーパーが好きよねと笑う母の顔も明るい。母もスーパーが好きなのだ。父と喧嘩したりすると行っていたのを知っている。母子共々お世話になっている。

 スーパーは我が家から、十五分程の距離にある。駅へ向かう道とは反対で、ライカの散歩道とほぼ同じだ。お姉ちゃんと彼氏がデートしていた公園の横を通った。夕方の時間なのでお姉ちゃんはもちろんいない。わかってはいても気になって中を覗いてしまう。抱き合っているカップルを発見して、慌てて目をそらした。母がみっともないわねと怒っている。お姉ちゃんが公園でキスしていたなんて知ったらどのくらい怒るのだろうか。絶対内緒だ。母とお姉ちゃんの両方から叱られてしまう。間違って口からこぼれ出さないよう、しっかり唇を結ぶ。

 スーパーの野菜コーナーを素通りして、まずお肉コーナーに向かう。昨日はお刺身を食べたので今日はお肉の番だ。


「美月、何食べようか」


 ひき肉が安くなっている。母もひき肉を見ていた。ひき肉料理を考えているに違いない。ひき肉と言えば、お姉ちゃんの好きな麻婆豆腐だ。


「お姉ちゃんが、ニンニク使わないものにしてくれって」


 ニンニクが好物なのにどうしてだろう。


「デートかしらね。近々彼氏を紹介するって言ってたんだけどねえ」


 お姉ちゃんと、キスしていた彼氏の姿が浮かんだ。顔は見えなかったけれども背は高かったような気がする。こないだ見た人かと呟いた。慌てて口を押さえたけれど既に遅い。母は聞き逃してくれなかった。朝から酷い目に遭いすぎて、全体的に緩んでいるようだ。母がえさを待つ犬のような目で、私を見ている。余計なことを口走ってお姉ちゃんに叱られたら、目も当てられない結果になる。母を視界に入れないよう、店内に目をやった。

 私の前を、小学校低学年くらいの女の子が通った。脇目も振らず歩いていく。親が一緒にいるようには見えなかった。母の気をそらす話を考えつつ、女の子を目で追う。お菓子の陳列棚に向かっているようだ。

 小学校二年生の頃、私も一人でスーパーに来たことがある。十歳違うお姉ちゃんは高校生だった。お姉ちゃんにお菓子を食べられて腹を立てた私は自分で買いにきた。お金のシステムがまだわかっていなくて、そのままポケットに入れる。スーパーを出ようとして捕まった。私にとって幸運だったのは捕まえたのが、お姉ちゃんだったことだ。お姉ちゃんは、私が怒って家を出た時から予測していたらしい。万引きがいかに悪いことかこっぴどく叱られた。警察に突き出されなかったから、犯罪者にはならなかったけれども、お姉ちゃんからは私を検事にさせないつもりか、と絞られた。結局お姉ちゃんは私に関係なく弁護士になった。

 いずれにせよ万引き経験者として、女の子からは危険な匂いがしていた。お菓子の陳列棚を覗いてみた。女の子はお菓子の棚の前で左右を確認している。えさをかすめ取ろうとする小動物にしか見えない。女の子が背伸びをした。上の棚を覗いていると見せかけ、スカートの陰から、下の棚のチョコレートをさっと取った。チョコレートの箱の鳥の絵に見覚えがある。ナッツをチョコレートでコーティングしている、小さな箱入りのお菓子だ。蓋を何枚か集めて送ると、おもちゃ箱が当たる。私も何度か送ったが当たったことはない。

 女の子はポケットに入れると、何事もなかったように歩き出した。やはり万引きだ。胸がドキドキした。周りの大人は誰も気にしていない。今目の前で犯罪が行われたというのに平和で落ち着いたものだ。拍子抜けした。私の痴漢と何ら変わらない。私も見なかったことにできる。普通に母の質問をはぐらかしながら買い物を続けて家に帰っていいのだ。誰も気づいていないのなら、目を瞑ってしまおう。痴漢に遭っても、誰も助けてくれない世の中だ。唯一助けてくれた侑里だって助けになるどころか怒られて仲違いだ。

 黙って女の子の後ろ姿を見送った。頼りなさそうに見える背中が、私の小学生の頃と重なる。私には叱ってくれるお姉ちゃんがいたおかげで、今犯罪者になっていない。大人として迷える子羊を救うのは、義務ではないだろうか。正義感が顔を出し始めた。ブツブツうるさい母に言った。


「よく見えなかったから。それよりちょっと電話してくる」


 急げば間に合うかもしれない。女の子の後を追う。スーパーの中だから走るわけにはいかない。早足だ。確か積んであるトマト缶の横を通ったはずだ。今日は安売りで通常価格より十円安い。トマト煮込みハンバーグのお夕飯なら、お姉ちゃんも満足だろうと考えつつ横をすり抜けた。

 女の子の姿を発見したのは、スーパーの出入り口だった。声をかける間もなく女の子は自動ドアから出て行く。私も止まれない。後を追い、スーパーの外へ出た。

 女の子がお父さんと言って、男の人に抱きついた。お父さんが外で待っていたことに、少なからずショックを受けた。お父さんを待たせておいて万引きをしたのか。あるいはお父さんから指示を受けて万引きしたのか。いずれにせよ怪しい親子である。

 話した方が良いのか、逆に話して、お父さんから口出しするなと叱られても困る。迷っているとお父さんと目が合った。見覚えのある顔だ。知り合いだろうか。近視のせいかはっきり見えない。穴があくほど見つめる。母の知り合いなら挨拶しなければならない。脳をフル回転させた。どこで出会った人なのか。男の人と出会うのは、スーパー、学校の行き帰り、ライカの散歩、痴漢。思い出した。

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