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今朝の電車は特に混んでいた。侑里に密着して立つのが精一杯で、電車に乗れただけでもいいくらいだ。痴漢が近づけるとは思えない。
日本人は、混んだ電車に無理をしてでも乗って通勤通学する。台風や大雪でも休まない。勤勉すぎると思いながらも、私も決められたレールから下りられない。
混んでいても首ぐらいは動かせた。車内を見回し、不審人物がいないか一応確認する。誰もおかしな人はいないように見えた。
「そんなに会いたかったんだ」
耳元で囁かれた。すぐ近くにいる。同じ痴漢だと体中の細胞が言う。体が震え出した。侑里から見ても異常だったのだろう。大丈夫か聞かれたが、痴漢が耳をそばだてていると思うと怖くて言えない。
露出狂騒ぎで電車の痴漢を忘れていた。昨日痴漢に遭わなかったので、痴漢はいなくなったのだと決めてかかっていた。周囲を確認しても体裁だけ整えたのと同じである。大失敗だ。既に痴漢は背後にいる。知らなかったとはいえ、敵に領土を差し出してしまった。侑里の声も耳に入らない。とにかく背後に意識を集中させた。痴漢の手が背中に張り付く。背筋に沿って下へおりてきた。どうしたら良いのか見当がつかない。手は腰の辺りで止まり、上へと上がっていく。侑里が何かを話していたが、背中の手が気になって内容は聞こえなかった。
侑里のジャンパースカートについている、校章が目に入った。身長差があるので校章の位置は私の目の高さとほぼ同じである。お姉ちゃんの言葉を思い出した。校章には安全ピンと同じ針がある。手が震えていてうまく外せず、自分の指を何度も刺してしまった。指の腹に血がにじんで痛い。痴漢の手は腰で止まらず、下へとおりていた。校章を手に持ったが次はどうすべきかわからない。背後を見もしないで刺せないだろう。後ろを向いて刺したら良いのか。痴漢の手が私のお尻をおもちをこねるかのように、つまんだりはなしたりしている。指の感触が気持ち悪さを増長させている。動けないでいる間に、スカートが少しずつ持ち上げられ、痴漢の手がスカートの中に入り込んだ。ぎょっとして校章を落とした。校章はどこに落ちたか見えず、拾うこともできない。痴漢は私が何もできないことをいいことに股の間に手を入れてきた。痴漢の腕の上に跨がるような状態になる。背中に痴漢の頭が当たっていた。屈んで低い姿勢になっていたのか。背中をぐいぐいと押された。腕を前後に動かすものだから、あちらこちらが当たってこすれる。気持ち悪くて泣きそうだった。侑里の手をやっと掴んで、痴漢と呟く。侑里は私の後方を睨んだ。痴漢の動きは止まらない。
「もっと早くに言いなさいよ」
運が良いのか悪いのか、電車がホームに到着した。到着の衝撃で車内は大きく揺れ、痴漢の手が私から離れる。同時にドアが開き、一斉に人が動き出した。砂時計の砂のように出口へと吸い込まれていく。私も侑里も人に押され、電車を下りようとする。侑里が先で次が私の番だ。再び痴漢の手が伸びてきた。下りる瞬間の足を広げた無防備な状態で、股間を強く握られる。気を失うかと思った。ホームで待っていた侑里が、私の後ろから下りた男の腕を掴む。
私は痴漢の顔を見ていなかった。真後ろに立っていないと触れないだろうから、侑里が捕まえた男で間違いない。体に握られた感触が残っていた。絶対許せない。
「駅員に引き渡してやるから覚悟しなさい」
侑里のヒーロー然とした声は、駅舎に響き渡る。学校の生徒が大勢いるホームだ。侑里と痴漢の後からついて歩きながらも、皆の視線が痛い。正しいことをしているはずなのに決まり悪かった。前を歩く侑里の背中は誇らし気に見える。痴漢を捕まえたのだ。充分自慢できる。私ときたら、痴漢と対峙するのも怖いし、警察に会うのも怖かった。侑里とは全く違う。侑里の背中が自信を持てと言ってくる。侑里が一緒なのだ。何も怖がることはない。二人で駅員室に痴漢を連れて行った。
駅員は侑里の話を静かに聞いている。全て終わるのだと安心していたら、侑里が私の肩を軽く叩いてきた。日直だから先に行くと片手をあげて、涼やかに立ち去る。止められなかった。興味本位の視線を投げかけてくる駅員と、痴漢と共に残された。痴漢を直視できない。痴漢を捕まえたことは正解だったのだろうか。仕返しをされるかもしれないし、裁判のように厄介なことになるかもしれない。不安が雨雲のように大きくなった。少なくとも、明日から痴漢に遭うことはなくなるだろう。正解だと言い聞かせた。
警察官が来るまで、痴漢とは別室で待たされた。奥の個室に閉じ込められている痴漢と異なり私は駅員が出入りする事務室にいる。駅員が通るたびに私を見てくる。裸で座らされているような気分だ。視線にいたたまれず、到着した警察官に頼んで帰らせてもらった。もちろん名前と学校名は書かされたけれど、痴漢が逃げることもなく落ち着いていた為、詳細は後日で良いことになった。
授業が始まっていたので、校門は閉まっていた。学校に異常者が入り込むのを防ぐため、始業と同時に閉まる。門にはインターフォンがついていた。ベルを鳴らすと用務員のおじさんが出てくる。学年とクラス、名前を告げた。耳障りな機械音と共に門が開く。
一限目は既に始まっている。痴漢を捕まえた代わりに授業には間に合わなかった。登校しても気が晴れるどころか、痴漢の感触や他人の視線を思い出し、足取りは重い。ローファーの引きずり音が、静かな校庭に響いている。休めばよかった。お腹痛くなったと嘘をついて今からでも休めないだろうか。
下駄箱で、生活指導のぬらりひょんに呼び止められた。英語の先生なのだが、頭部が大きく発達しており、毛が一本もない。火星人かぬらりひょんと呼ばれている。ぬらりひょんは妖怪で、どこからともなく家にやってきては家主のように振る舞うという。校長でも教頭でもないのに、偉そうに指導する姿はまさにぬらりひょんだ。今では生活指導教員に収まっている。
ぬらりひょんから、面談室に入るように言われた。指導を受ける時に必ず入れられる謎の小部屋だ。私は未だ一度も入ったことはない。入り口から中を覗いた。窓のない小さな部屋には、机と二つの椅子しかない。刑事ドラマで見る取調室に似ている。
「面談室に入らなければならない理由が、わかっていますか」
痴漢が後ろに立ったような気がして、振り返った。ぬらりひょんが真後ろにいた。
「中へ入りなさい」
渋々入り、わかりませんと答える。ぬらりひょんがドアを閉めたので、密室で二人きりだ。何かあっても誰も助けてくれないという不安に押しつぶされそうである。
「奥津さんは今日学校に遅刻しました」
遅刻のことで指導を受けるらしい。理由がわかって多少安心した。駅でのことを説明しようとすると手で制された。
「聞いています」
警察がもう連絡したのか。行動の早さに驚いた。ぬらりひょんが痴漢事件を知っているのなら何の為に呼んだのだろう。大変だったと労い、帰宅するよう勧めてくれるのだろうか。よく捕まえたと褒めてくれるのかもしれない。
「何故痴漢に遭ったと嘘をついたのですか」
ぬらりひょんが言ったことは、私が想像したこととは全く異なっていた。どうして痴漢に遭ったと、嘘をついたことになっているのだろう。本当に私は痴漢に遭ったのだ。
「嘘なんてついていません」
「おかしいですね。先程学校に苦情がありました。性犯罪の濡れ衣を着せられた、学校を訴えると」
おかしい。何かの間違いではないだろうか。
「奥津さんですよね、電車で痴漢にあい、駅員に申し立てたのは」
痴漢が無罪だと主張したのだろうか。現行犯なのに、逃げられるわけがない。
「その方は右手でつり革を持ち、左手でかばんを持っておられたそうです。両手塞がっていて、どうやって触れますか」
右手でつり革を持って、左手でかばんを持っているはずがない。お尻を触りながらスカートをめくったのだ。両手は空いていたはずだ。本当に触られたとぬらりひょんに訴えた。
「証拠はありますか」
取り調べを受けているみたいだ。証拠と言われても、痴漢の被害者に証拠があるわけがない。ぬらりひょんは生徒の味方だと今まで思っていたのに、がっかりだ。授業はとても面白いし、ぬらりひょんのおかげで、英語の成績も良くなった。裏切られた気分だ。
「証拠はありません。でも友達が見てました」
「田中さんですね」
「はい。彼女と一緒に、駅員さんに渡しました。疑うなら彼女にも聞いてください」
侑里が私を弁護してくれる。心友だから裏切るはずない。ぬらりひょんが大きく頷いた。
「彼女にも聞きました。見ていないそうです」
世界が歪んだ気がした。中学からずっと手を繋いできた侑里から突然、手を離された気分だ。
「触られているのは見ていなかった、と証言しています」
あり得ない。侑里は一緒にいた。侑里が痴漢を捕まえたのだ。
「本当に触られていたのですか。間違いではありませんか」
間違いだなんて絶対にない。
「触られました」
触られたのは事実だ。侑里が痴漢を間違えて捕まえた可能性はある。私は顔を見ていないが、佇まいは確かに痴漢した人で間違いなかった。見ていなくても何となくわかる。
「では、どんな風に」
ぬらりひょんが私に近づいてきた。音もなく近づく姿は妖怪そのものだ。
「ここでやってみましょう。どこを触られましたか。臀部を触られたとか。こうですか」
ぬらりひょんの手が、私のお尻を上から撫で下した。ひっと声が漏れる。ぬらりひょんから飛び退いた。
「それともこうでしたか」
ぬらりひょんは更に近づいて、私のお尻を下からなで上げる。まるきり痴漢じゃないか。
「何するんですか。やめてください」
ぬらりひょんが楽しんで触っている、と思っていたけれども、にこりともせず無表情だった。笑っているよりももっと怖い。
「この程度で触られたと言えるでしょうか。かばんの当たった時と同じでしょう」
かばんの当たった感触くらいわかる。かばんくらいで痴漢なんて騒ぐはずがない。見えていなくても、手で触られたかどうかくらいわかる。
「いいえ、絶対痴漢でした」
「ではもっと触られたのですか」
また触られるのかと思い、ぬらりひょんから離れた。スカートをめくられないように手で押さえる。ぬらりひょんは近づかなかった。
「どこをどんな風に触られましたか。言えないのは嘘だからではありませんか」
被害届を出したくない人の気持ちが、わかったような気がした。どこをどう触られたのか詳細に言わせることで、二度目の痴漢被害になる。だいたい男の先生に向かって言えるわけがない。絶望的だ。
「最近、痴漢えん罪が多いのです。我が校でも時々あります。詳しく報告できないのなら、ないも同然です。偽証ですよ。犯罪者として訴えられる前に、あなた自身の訴えを取り下げなさい」
二人以外に誰もいない密室で、主張し続けることは苦しい。証拠もなく具体的にされたことを言えない。信じてももらえない。弁護士が必要だがお姉ちゃんはいない。誰も助けてはくれないのだ。
嘘をつきましたとしか言えない。ぬらりひょんはよく告白しましたね、と褒めてくれた。
「痴漢と間違えられた方も、反省するなら水に流して校章を返して下さるそうですから」
痴漢された時のことを思い返す。痴漢が体を低くして触ってきた時に、校章を拾っていたのか。痴漢の手を思い出して体が震えた。
「奥津さんが落としたのを、拾ってくださっていたそうです。奥津さん、校章の針で他人を傷つけるような行為はもっての外ですよ。謝罪すれば、被害届は出さないで下さるそうです」
痴漢されたのに、偽証と傷害で訴えられている。心臓が止まるほど驚いた。私が校章の針で痴漢を撃退しようとしていたことは、その場にいた人にしかわからない。校章を外すのを見ていた侑里が、告げ口をしたのだろうか。ぬらりひょんから二度と嘘をつかないとの誓約書を書かされた。