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ライカの散歩に行こうとして、帰宅したお姉ちゃんと玄関で鉢合わせした。キス覗き見以来、お姉ちゃんに会うのは初めてだ。今日のお姉ちゃんの唇は赤ではない。ベージュだ。デートではなかったのだろう。お姉ちゃんは家族の自慢である。高校も大学も優秀な成績で卒業した。今では弁護士として活躍中、らしい。詳しいことは知らないけれど、仕事が忙しいようだ。荒れたお肌からも推測できる。
「何よ、何見てるのよ」
寝不足なのかお腹がすいているのか、機嫌悪そうだ。関わるのは止めてライカと散歩に行こう。お姉ちゃんから目をそらし、首輪にリードを取り付けた。お姉ちゃんのスーツは制服と比べると柔らかそうで光沢があった。出来る弁護士然としている。弁護士なら犯罪には詳しい。きっと痴漢の対処法も知っているに違いない。まじまじと見るとお姉ちゃんは顔を歪めた。
「話があるなら簡潔にして。あんた話が長いから。ないならさっさと散歩に行きなさいよ」
お姉ちゃんの剣幕に怖じ気着く。ライカが抗議するように吠えた。最近のライカは日本語を理解しているように思える。頼もしい。
お姉ちゃんの眼光は鋭い。検事の前に立った被疑者の気分だ。無罪を主張しても一刀両断で有罪にされそうだ。罪を犯してもいないのに雰囲気にのまれすぎている。気を取り直し、痴漢に遭った時にはどうしたらいいか聞いた。お姉ちゃんは、私を頭のてっぺんから足の先まで蛇のような目で見ている。
「あんた、痴漢に遭ったの」
痴漢に遭うはずがない、とでも言っているみたいだ。もしかして痴漢に遭ったことがないのだろうか。まさかお姉ちゃんに限ってあるまい。友達の話だと言うと、お姉ちゃんは面白がった。
「相談で『友達の話だけど』から始まる話の九割は相談者の話よね」
お姉ちゃんは、犯罪者に自白させるかのように詰め寄ってくる。弁護士というより検事だ。私を値踏みするように見ている。
「相談料、高いよ」
妹の相談にお金をとるとはハイエナか。諦めて散歩に行こうとリードを引っ張る。座って待っていたライカが立ち上がった。
「安全ピン」
お姉ちゃんが脱いだ靴を振り回している。とても履いて歩けなさそうなピンヒールだ。ヒールで踏んだら間違いなく、踏まれた側は怪我をする。凶器だ。お姉ちゃんは毎日凶器を履いて社会に出掛けているのか。玄関に置いてある私のローファーを見下ろした。太く低いヒールは決して凶器にはならない。お姉ちゃんはちゃんと対策をとっていたんだ。さすがはお姉ちゃんである。
「お友達ってあの美人でしょ。教えてあげたらいい。おすすめは安全ピンね。ハサミとかナイフとか、凶器は電車に持ち込み不可でしょ。安全ピンなら洋服につけられるじゃん」
触ってきた手を安全ピンで刺す。合理的でかつ簡単そうだ。
「触ってくるようなヤツって、考えが甘いから、痛い思いさせてやれば大抵は逃げ出す」
考えてみれば罪を犯す人間の大半は『魔が差して』と言う。驚かせるもしくは痛みで目を覚まさせて止めさせる。確かに有効な案かもしれない。痛い思いをさせるだけなら、校章で良いのではないかと思った。ピンバッジタイプだし、安全ピンと異なり、毎日制服に付けている。怪我をするほど深く刺す必要はないのだ。蜂に刺されたくらい軽く刺せばいい。目の前が明るくなった気がした。
「お触りは撃退できても、露出狂には安全ピンは効かないからね。触られてるんでしょ」
露出狂も痴漢か。露出狂の場合はどうするのだろう。
「あの人たちは、大きさを気にしての行動だから、見て反応してもらえるだけで嬉しいわけ。見て小さいと言うか無視するかの二択ね」
経験値の少ない学生を狙うのは、理由があったんだ。さすが分析が優れている。
「相談料は貸しにしとく」
お姉ちゃんは転んでもただでは起きない。鼻歌を口にしながら部屋に入っていく、お姉ちゃんを見送り、高くつかないことを願った。
月は欠け始めていたが、まだ満月と変わりなく見えた。ライカが月に向かって吠えている。どんな気持ちで吠えているのだろう。不安なのか興奮しているのか。吠えることに意味を見出そうとする方が、間違いなのかもしれない。ライカは吠えたい時に吠える。自由に生きているだけなのだ。
お姉ちゃんが密会していた公園の横に、赤い軽自動車が一台止まっている。アイドル四人組が宣伝していた車種と同じだったので、目に留まった。彼女たちは同年代なので意識している。コマーシャルで流れている歌が特にお気に入りだ。何度も見ながら歌っているうちに車も覚えた。車体が赤なのに屋根は白い。可愛いなあと見ていたら、窓が開いた。
「すみません」
男の人が顔を出した。
「ちょっと道が分からなくて」
時折道を聞かれることがある。冷静に考えれば単純な道なのに、一度わからないと思うと、頭の中で迷子になり、行くべき道がわからなくなる。きっと駅への抜け道だと思って住宅地に入り込んだのだろう。どこに行くのか聞いてみた。
「さっきから見ているんだけど、わからなくて。地図を見ながら教えてもらえますか」
男の人が地図を振っている。車に近づこうとしたが、何故かライカが踏ん張って動こうとしない。何が気に入らないのか。なだめすかしてもライカが動かない。前に進みたくないのか帰りたいのかどちらなのだろう。行く行かないを繰り返しながら引っ張り続け、やっとの思いで車の中を覗いた。
地図が男の人の膝の上に見当たらず、ライカより長い毛だらけの太ももが見えていた。短パンなのかと目線をあげる。見慣れない茶色いものを握っている手が見えた。それは、ワイシャツの間からにょっきり出ている。にやついた男の人と目が合った。しまった。露出狂だ。何テンポもずれて気づいた。ごめんさいと叫んで走る。ライカも一緒に走る。走りながら、何故私が謝るのだろうと考えていた。見たことに対してなのか、逃げたことに対してなのか。露出狂の罠に引っかかってしまった、自分に対してなのかもしれない。私を守れるのは私しかいないのだ。ライカが吠えたのは、露出狂のことを意図していたのだろう。ライカにごめんねと心の中で謝る。頭の中の映像が薄れるまでライカと走った。
露出狂に遭ったのは、お姉ちゃんと話をしたからかもしれない。今まで遭ったことがなかったからきっと引き寄せたのだろう。良いことならいいのに、悪いことなんて引き寄せたくなかった。
朝が来ても、昨夜の衝撃が頭の中に残っている。気分が悪くて仕方ない。腹も立つ。お姉ちゃんが、露出狂には安全ピンは使えないと言っていたけれど、使ってみればよかった。安全ピンで、太ももや大事なところを刺してみるのも良かったのかもしれない。一方で窓の外から手を入れれば、引きずり込まれる可能性もあった。やらなくてよかったのだ。やはり、お姉ちゃんの言う通りで正しかったのだろう。電車の痴漢は絶対逃さずに撃退してやる。準備万端、気合い満タンだ。
制服を着て鏡の前に立つ。チェックのジャンパースカートがお気に入りだ。ミニ丈で可愛い。ブラウスのボタンとボタンの間が少し広い。噂では動きによって下着が見えると言われている。鏡で見ても私からはわからない。
校章が、ジャンパースカートについているかを確認してから駅に向かう。待ち合わせていた侑里とホームで会った。鼻息が荒くなる。痴漢を捕まえようとしているのに、痴漢みたいな自分がおかしかった。校章を握りながら待つ。痴漢は現れなかった。不戦勝ってこんな気分なのだろうか。お姉ちゃんなら、遭わなくてよかったじゃんと言うだろう。私は遭って対決したかった。私にだって出来るところを、お姉ちゃんに見せたかった。
月はだいぶ欠けているが、ライカの表情が見えるくらい明るい。散歩していても怖くはなかった。今後は知らない人の車の中は覗かないと心に決めている。次に遭ったら通報して警察に突き出すのだと思うと、武者震いがきた。ライカが何ごとかと見上げてくる。心配しなくても大丈夫と声をかけた。
サラリーマンが自転車で、私たちを追い越す。コートの背中が過ぎていく。ライカが自転車に向かって乱暴に吠えた。自転車やバイクの人は、吠えられたことで驚いてバランスを崩すことがある。ライカを座らせ、厳しく叱った。犬のしつけはすぐに叱る。時間が経つと、犬が何をしたのか忘れてしまう。お姉ちゃんは犯罪も同じだと言っていた。再犯させないためにはどうしたら良いか。法に携わる人間として常に考えているそうだ。結局人間もペットも同じなのかもしれない。
ライカは大人しく聞いている。散歩の続きを始める前に自転車が戻ってきた。向かってくる自転車に不安になる。吠えられたことについて、苦情を言いに戻ってきたのかもしれない。苦情からの暴力もあると聞くし、逃げた方がいいのではないか。走るかどうか、束の間迷った。何か忘れ物をしたとか単純なことかもしれない。一先ず目を合わさずやり過ごそうと下を向いた。自転車は止まることなく私たちを通りすぎる。苦情を言いに来たのではなかったようだ。安心した。神経が過敏になりすぎているのだろう。ホッとしたのと同時に疑問が湧いた。何が気になるのか考えていると、背後からまた自転車の音がしてくる。サラリーマンが戻ってきたと感じた。忘れ物を取ってきたのではないだろう。時間が短すぎる。不安よりも怖さが強い。自転車で三回も通るなんて異常である。暴力を振るわれたらどうしよう。自転車はスピードをあげて私たちを追い越し、少し先で止まった。私とライカが追いつくのを待っている。吠えられたことを怒っているだけかもしれない。
「ごめんなさい、この子、いつもは吠えないんですけど。気に障ったのならごめんなさい」
深々と頭を下げて謝りながら、思い当たった。今は初夏で雨も降っていない。夜でも、コートを着る必要もないくらい良い陽気だ。何故コートを着ているのか。自転車ではなく歩いていたら瞬時に気づいたはずだ。恐る恐る顔を上げる。サラリーマンの顔に見覚えがある気がしたが、すぐには思い出せない。サラリーマンがにやついている。コウモリが羽を広げるようにコートを開いた。陽に焼けていない肌が目に入る。全裸だ。もっと早くに露出狂だと気づくべきだった。嫌だと叫びながらライカと二人で走って逃げる。
ライカは自転車に遭った時に吠えた。車の中の露出狂と今の自転車の露出狂が、同一人物であることに気づいていて、教えてくれたのだ。動物の勘は鋭い。私は痴漢に翻弄されすぎている。