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東の空に赤い満月が座っている。
巷では、恋が叶うストロベリームーンと言うらしい。苺のような食欲をそそる色でもなければ幻想的な色でもない。私には、不穏で禍々しく見えた。人類滅亡や世界の終わりを想像してしまう。好きな人と一緒に見て結ばれたいなんて思えない。満月は大きな目玉だと思う。赤い満月なんて怒った天狗の目にしか見えない。何をやっているのか見ているぞと脅しているんだ。甘えなど一切許さず、鋭い眼光で、貫くのだ。考えただけで震えがくる。悪いことはしていないのに、隠さなければという不安に襲われる。気持ちが伝わったのか傍らのライカがすり寄ってきた。
「ねえライカ、月、大きいね」
我が家の一員であるライカは雑種犬だ。お姉ちゃんが拾ってきた。名前もお姉ちゃんがつけたが、散歩は私の役割である。仕方がない。お姉ちゃんは仕事をしていて、私は学生なのだ。
ライカが円を描きながら、匂いを嗅いでいる。何か気になる匂いでも残っているのだろうか。
「なんで赤いんだろうね」
ライカは急いで座り、ずっと前から話を聞いていましたよと装う。ちょっと小狡いけれども愛おしい。母の命令にはきっちりと応えるが、私の言うことは大抵いい加減だ。
ライカの荒い息が痴漢を連想させる。止めさせようとライカの鼻を小突くと、足の上に座って動かなかった。抗議しているのだろう。ライカとは言葉がなくても会話できている。言葉にしなくては伝わらないことも、たくさんあるはずだ。
「ライカが話せれば、何にもいらないんだけど。ちょっとしゃべってみて」
赤い満月の夜だ。人にはわからない不思議な力が働くかもしれない。
「ほら、簡単だよ、こんばんは」
ライカの口を手でひっぱったりしてみる。
「口をこう開けてさ、こ・ん・ば・ん」
「わん」
合わせたようにライカが吠えた。あまりにタイミングが良くて、本当に話ができるようになったのかと目を疑う。ライカは公園の藪の中を凝視していた。何かがいるのか。鼠か爬虫類かもしれないとは思ったが、口元に指を当てて、ライカに静かにするよう指示した。舌を出していたライカが口を閉じる。藪の中は暗くてよく見えない。ライカの勘違いではと思い、ライカを目で叱った。犬が吠えたと女の人の声がして、慌てて、嬉しそうにするライカの口を塞ぐ。
体の向きを変えてやっと、街灯の下に男の人と女の人がいるのが見えた。ライカは正しかった。撫でて褒めて上げたら、お礼に手を舐められた。ざらりとした感触がぬるっと暖かい。
二人の顔はよく見えない。女の人においては完全に後ろ姿で、肩までの巻き髪が見えるだけだ。女の人の後ろ姿に見覚えがある気がする。髪の巻き具合とかなで肩のラインとか、パンツの上からでもわかる、引き締まったお尻の形とか。男の人の手が女の人のお尻に触れて女の人が怒る。
「ダメよ、ここはもう家の近くだから」
「大丈夫だよ」
「何が大丈夫よ、ダメったらダメ」
「すぐ帰るからさ」とお決まりの男女の会話が続いた。
ライカが鼻で私をつつく。私の考えで正解だよと言われているみたいだ。私はといえば、思い浮かべた人で合っているか決めかねていつまでもぐずぐずしている。見ているうちに、男の人が女の人の唇を口で塞いだ。女の人の真っ赤に色づいた唇が、ぬらぬらと光っている。ちらりちらりと見え隠れする舌に目を奪われた。傾いた女の人の左目の下に泣きぼくろを発見する。間違いない。
「お姉ちゃん」
ライカが隣で唸った。慌てて自分の口を手で塞ぐ。やばい。お姉ちゃんに見つかる。ライカと二人で一目散に逃げ出した。私とライカの影が長く伸びている。影が増えていないことを確認しつつ走った。息が切れても走る。
背後で玄関の扉が音を立てて閉まり、ようやく安堵した。走って満足したのかライカが嬉しそうに舐めてくる。ライカの頭を撫でてやっていると体が震え始めた。人は初めての体験をすると、衝撃を昇華するまで立っていられない。ライカの横に座り込んだ。初めての覗き体験は私を熱くする。お姉ちゃんのキス。お姉ちゃんの彼氏。彼氏がお姉ちゃんのお尻を触っている、手つき。
赤い満月は、私が願うのとは違う世界へと連れ出した。
変な夢を見た。噴水から赤い液体が飛び出していて、誰かが噴火だと叫んでいる。皆我先にと逃げ出していて、私もついていこうとするも足が重くて前に進めない。泥沼にはまったみたいだ。進めば進む程、足がはまって動けなくなる。後ろを振り返れば火の手はすぐそこだ。蛇の舌のように細かった噴火は太く大きく育っている。熱くて死にそうだ。熱さで死ぬか噴火に呑まれるか。どちらかを選ぶしかない。絶対選ぶ前に死ぬ。私は死ぬのだと思った途端目が覚めた。
白い漆喰の天井が私を見下ろしていた。壁も駄々をこねて買ってもらった、ピンクのカーテンも私の部屋のものに変わりない。
無事帰還したのだ。胸を撫で下ろして起き上がると足の上でライカが寝ていた。ライカの重みで足が動かなかったらしい。まさに幽霊の正体みたり枯れ尾花だ。動けなくなる夢を見ても当然じゃないか。引きずり降ろすと、ライカはわんと唸り、体を震わせた後また眠りに戻っていった。寝言には笑えたが、足はすっかり痺れてしまっていた。ベッドから降りてもふらつく。夢見の悪さからか気分も優れない。蛇の舌のような噴火は、お姉ちゃんのキスを盗み見たせいだろう。昨晩はお姉ちゃんに会っていない。どんな顔で会えばいいのかわからなくて、すぐに布団に入ってしまった。家の近くでキスなんかしないで欲しい。お姉ちゃんの真っ赤にてかった唇から、舌が見えていた。獲物を狙う蛇みたいな顔だった。女の人はキスする時、蛇になるのだろうか。ライカのように体が震えた。
早く学校に行こう。
県立高校に行った、優秀なお姉ちゃんと違い、私はまあまあの私立の女子高に通っている。普通電車で五駅なので、急行で三十分も乗る県立高校よりも近い。選んだ理由は近さもあるけれど、一番は心友と同じ高校だと言うことだ。
中学から仲良しの侑里とは、互いに心友と呼び合っている。親友の上の心友だ。印として、お揃いのストラップを学生かばんに付けている。ミニサイズの赤い油性ペンだ。中学の修学旅行でお揃いで買った。心を許す友だけではなく、真実の友、真友だと思っている。真友になるとペアのリングを互いに身につけ、最上級の信友になると、物を超えた二人行動をする。一緒の大学に行けたらリングを買って、就職したら一緒に暮らす。私と侑里の夢だ。今はまだ学校の行き帰りが一緒なだけである。
通学で乗る電車は、通勤通学のラッシュタイムにぶつかる。殺人的な混み具合だ。先週から何故か、痴漢に遭うようになってしまった。初めはかばんが当たっただけだろうと思っていた。翌日も何かが当たってくる。おかしいと思った。おかしいけれど確信は持てない。決定的になったのはお尻を掴まれた時だ。かばんと間違えたのではない。女子高生のお尻だと認識して掴んでいる。怖かった。黙っていれば、エスカレートしていくかもしれない。黙っているのは肯定と同じだ。どうぞ痴漢して下さいと言っているみたいなものだ。
痴漢ですと訴えるのも怖い。間違った相手なら大変なことになる。痴漢を捕まえても報復されるかもしれない。どちらもできないのなら逃げるべきだ。通学電車を変えた方が良い。問題は心友だ。
朝が苦手な侑里は、早い電車には乗らない。一本後の電車だと走らなければ遅刻する。侑里との関係を大切に育てていきたい今、簡単には変えられない。
結局今日もまた侑里と同じ電車に乗った。車内は、サラリーマンのおじさんの匂いに満ちていた。学校に行くのをやめたくなる。白い歯を見せて豪快に笑う侑里は屈託なく、一点の曇りもない青空そのものだ。痴漢に遭わないのだろうか。失敗しない外科医や、黒い悪女役で人気の女優さんに似ている侑里は、私よりはるかにいい女だ。痴漢に遭ったことがないとは思えない。もしかすると良い痴漢撃退法を心得ているのかもしれない。撃退法ってなんだか害虫みたいだ。痴漢が害虫なら蚊やごきぶりのように、発見したと同時に叩き潰さないとなめられ大量にやってくる。
不意に背後の嫌な気配を感じた。誰かに見られている。獲物として狙われているかのように背中の筋肉が緊張した。おそらく痴漢だろう。餌食にならないよう向きを変えた方が良い。体を動かそうとしたが、ちょうど侑里が邪魔になって向きが変えられなかった。
「何もぞもぞしてるの。どこか痒いの。もしかして、あれ」
生理ではないと説明しようとした時、痴漢の手が背中にやってきた。小さな虫が這うような違和感に鳥肌が立つ。侑里は気づかず、宿題の話をしていた。適当に相づちを打って、痴漢から逃れようと体をずらす。逆に体を近づける羽目になった。学校まであと一駅だ。背中を触られるぐらいなら我慢できる。がんばれ。本当に電車を変えたい。
侑里に、痴漢の相談がしづらい理由の一つとして、女子特有のマウンティングがある。自分より上の状態を認めないのだ。例えばどんな男であっても、好意をもたれている女子は、誰からも好かれていない女子より優位になれる。痴漢に遭ったことがないのは女として見られていないとも言えるのだ。痴漢に遭ったことのない女子は、必要以上に被害者を責める。自慢して優位に立とうとしていると思っているのだ。服装から立ち居振る舞いまで女から誘ったと決めつける。あの程度で痴漢に遭ったなんて嘘じゃないか、と言われることもある。心友なら酷いことはしないと信じている。侑里が痴漢に遭ったことがないなら話は別だ。大事な友情に、ひびが入ってしまったらと思うと怖い。慎重に行動しないと、心友だけでなく全てを失いかねない。