薬草園
「今日は、モカル草を短く刈ってしまうわ」
私とアンヌ、ヨハンは汚れてもよい綿の服にエプロンを掛けて、城の西館の庭にある薬草園の一画、小さな白い花をつけた新緑のモカル草の茂みの前に来ていた。
「はい、ソフィさま、これを全部ですね」
薬草園の作業は侍女と従僕の正式な仕事ではないけれど、ふたりはこうしてよく私に手を貸してくれる。
モカル草は風通しの良さを好むので、そろそろ刈り込んでやらなくちゃと思っていた。
茂みの前にしゃがみ、柔らかな茎を、鎌でザクザクと刈って横に積んでいく。
辺りにはモカル草の爽やかな甘い、林檎のような香りが漂った。
去年は雨が続いた時に枯らしてしまったけど、今年は上手くいったと、顔がほころぶ。
「この薬草は、今度入浴の時に使いますか?」
アンヌもモカル草の香りが気に入ったようた。
「モカルは薬草茶やポプリ、洗髪後のリンスにもできる。きれいな金色の香りのよい薬草茶は飲みやすくて、おいしいし。薬効としては、鎮痛、発汗、消炎、殺菌、安眠……」
故郷の村で薬師の母から学んだことを、同郷の二人に伝えるのは私の自己満足かもしれない。
ふたりが薬草に興味を持っているのかどうかもあやしいし。
でもこうして一緒に、薬草を育てたり収穫するのは楽しかった。
「――あとは小川でさっと洗って束にして、薬草小屋に干したら休憩にしましょう」
薬草園には小さな泉から流れる小川が引いてある。そして薬草園の傍らには、作業と薬の調合をできる小屋が建てられていた。
そうして収穫したモカル草を入れた籠を持って、立ち上がろうとした時だった。
「ソフィさま、あそこに誰かいます」
ヨハンが指をさしたのは、薬草園の中央に植えられた樹の根元に寝ている若い男の姿だった。
大きな帽子を顔の上に乗せ、仰向けになって足を組んでいる。側に洋梨を半分に切ったような形状の弦楽器が置かれていた。
「どこから入って来たんだろう。追い出して来ます」
「いいの、悪い人じゃないみたいだし。そのまま寝かせて置いてあげましょう」
若者のいる方へ足を踏み出したヨハンを引き止め、私たちは小川に移動した。
モカル草を洗い終え、再び薬草園に戻ると、ルイーズたちがこちらに歩いて来るのが見えた。
散策をするにしても、薬草園は庭師の整えた庭園とは違い、私が趣味や実益を兼ねて好きにさせてもらっている場所だ。薬草というと聞こえはいいが、見た目は野の花、雑草みたいなものである。
彼女たちがここに来るようなことは、今までなかったと思う。
いったい、どうしたのだろうと、怪訝に思っていると、ルイーズはつかつかと近づいて来て、私に指を突きつけた。
「ねえ、どういうこと? ソフィ、あなたいったい、どんな汚い手を使ったの」
「何のことだか、ちゃんと説明してもらわないと、分からないわ」
感情的になっている彼女を落ち着かせようと思い、ゆっくりとしゃべる。
「ふん、惚けるつもりなのね。わたくしたち、女官長から突然言われたの。今月いっぱいで契約を終了って。でも順番からしたら、あなたが先に城を出て行くべきでしょう? おかしいわ」
アロイスや他の貴族のために真紅の薔薇城に集められた領地内の若者たちは、『提供者』として期間中、貴族にその血を提供する。
そうすることによって貴族は必要な糧を得て、他の人間を襲ったりはしないことになっていた。
『提供者』は、大抵一、ニ年もすれば契約を終了して城を出て行く。
稀に契約期間を延長する者もいるけれど……私がそうだ。
ようするに貴族たちの気持ち一つ、気まぐれで変わる。
「ここはあなた方が居るべき場所じゃない。早く城を出た方がいいわ」
貴族に血を提供することが、この先どんな影響を与えるのか分からないから――というつもりだったのだけれど、彼女たちは違う意味に取ったようだ。
「何よ、偉そうに――!」
「あなた、この間の夜のこと、告げ口したの?」
「本当のこと言いなさいよ!」
あの夜、びしょ濡れで部屋にもどった私たち。
ヨハンから詳細を聞いたアンヌは、アロイスに話すべきだと言った。
でもそんなことをしたら、アロイスがルイーズたちにどんな罰を与えるか分からない。
ふたりには固く口留めをしてある。
私のためにアロイスが報復するだろうと、うぬぼれているからではなくて。
アロイスは人間が決まりを破ると、情け容赦なく厳しく罰するのを知っているからだ。
それに、忙しいアロイスを些細な揉め事で煩わせたくなかった。
「告げ口なんかしてない。でも、私の言い方が気に障ったのなら、ごめんなさい」
原因はともかく、ルイーズたちとこれ以上言い争うのも億劫で、なんとか穏便に引き取ってもらいたかった。
「適当に謝ればいいってものじゃないわ」
そんな私の態度が、余計に彼女たちの怒りに火をつけてしまったようだ。
「あなただけが、アロイスさまの専属って訳じゃない。わたくしだって、指名されたの。それなのに契約終了なんて」
ルイーズが背筋を伸ばして、きっと睨んだ。
貴族は気に入った提供者を、自分の専属に指名することがある。
私たちは血を吸われ過ぎると、身体が弱って死に至る。そうならないために、貴族は複数の『提供者』から少しずつ、血を飲んでいる。
『提供者』が専属になれば、他の貴族は手を出さず独占できるから、より多くの血を飲むことができる、ということらしい。
「ソフィだけ二人も使用人がついて、特別扱いされているのは分かってる。でも」
アンヌとヨハンは、私が薬草園や治療院の奉仕活動を手助けするために、アロイスが側につけてくれた。それが町の人々の福祉に役に立つからと、評価されて。
彼女たちからしてみれば、それが特別扱いに見えてしまうのかもしれない。
他の少女たちだって、日中は届けを出せば町に行くことも可能で、城の女官たちを通じて行儀作法や機織り、裁縫、料理などの手に職をつける訓練をすることもできた。
また、契約期間中は報酬も支払われることから、貧しい家の少女たちが大勢応募していると聞いている。
不意にルイーズのうるんだ瞳に気づいてしまった。
では、彼女は本当にアロイスのことが好きなのだ。
でも――彼は人間じゃない。いくらアロイスを好きになったとしても、報われることはないのに。
そう思うと、ルイーズたちが可哀想にも思えた。
「馬鹿にしないで!!」
パン!
振り上げられたルイーズの手が、私の頬を打った。乾いた音と共に痛みが走り、ジンジンと熱を帯びて来る。
「ソフィさま」
アンヌがよろけた私を支え、ヨハンが前に出て私とルイーズの間に入った。ルイーズの取り巻きの娘達も、彼女を守るように囲い込んだ。
「衛兵さ――んっ、こっちです! 喧嘩だぁ、乱闘だよぅ。はやくはやく! あそこに、怖い女の人たちが居ますよ――」
突然、鈴のように響く声が聞こえた。あの若木の側で寝ていた若者が立ち上がって、城の方に手を振り衛兵を呼んでいる。
「なっ、何よ、あの子! 乱闘なんて、うそばっかり。――もう行くわよ!」
ルイーズたちは慌てて薬草園から出て行った。
「大丈夫ですか? 血が」
アンヌに言われてから気づく。口の端が少し切れたようだ。
「ええ、大丈夫。それより、衛兵が来ても、何もなかったことにして」
やっぱり大事にしたくなくなかった。彼女たちの為というより私が、なるべく波風を立てず平穏に過ごしたかったから。
「――衛兵は来ないから、平気だよ」
弦楽器を背中に担いだ若者がこちらにやって来て、にっこりと笑った。
「ちょっとお芝居をしたの。お姉さんが困っているみたいだったから」