夜明けまで
「アロイスさまの人間の妻の地位に、大きな意味はないわ。
他の格上の貴族から、お気に入りの人間を横取りされないようにするだけの価値しかないもの。
教会は、貴族が人間の妻を複数持つことを許しているし。
専属の提供者から妻になったからと言って、アロイスさまを独占できるなんて思わないことね」
ルイーズは私を引っ張って、テラスが見える位置に移動する。
貴族と人間の結婚について、教義も含め……あまり考えないようにして来たつけを、ここで払わされることになるなんて。
ヴィーザル村では一夫一婦制で、貞節が重んじられていた。
だからきっと、アロイスも同じ価値観のはずだと思っていた。
「その証拠に、アロイスさまの騎士たちは、ソフィに忠誠を誓ったりはしなかったでしょう?
つまりそういうこと。アロイスさまは貴族で、あなたは私と同じ人間なの」
忠誠どころか、この宴で貴族から話しかけられることすらなかった。
「ほら、見て。あそこで何が行われているか」
植木の物陰で、騎士が提供者の少女を抱きしめ、肩に顔を埋めていた。
「私は何度もアロイスさまに、テラスや庭に誘われたわ。私の血は美味しいって言って下さった。
これからだって同じよ。アロイスさまは、ソフィの血だけでは足りないんだから」
――わかっている。わかっているけど、胸が痛い……。
「ソフィ、どうした? 顔色が悪い」
いつの間にかアロイスが、隣に立っていた。
「僕は君の気持ちが伝わる。血を交換したから。……この女が、ソフィに何か言ったのか?」
アロイスは私の手を取ると、ぞっとするような冷たい眼差しで、ルイーズを見た。
「何でもないのよ。少し、疲れたみたい」
私は首を横に振った。アロイスに手を握られると、直接、思考が届くようになる。
余計な事は何も考えないようにと、聞こえて来る音楽に耳を傾けた。
「……失せろ」
ルイ―ズはアロイスの逆鱗に触れたことを知り、ガタガタと震えながらその場を去った。
「もう僕たちは、部屋に行こう」
「いいの?」
「当たり前だよ。新婚初夜だって分かってる?」
耳元で言われると、カッと頬が熱くなった。
アロイスは私をエスコートして、大広間から退出した。
「あの女、始末するか?」
廊下を歩きながら、アロイスが恐ろしいことを言い出す。
「だって……私を嫌いな人を、全員殺すわけにはいかないでしょう?」
冗談めかして引きつった笑みを浮かべると、アロイスは眉をしかめ、数秒間を置いてから答えた。
「そうしてもいいよ。長く生きている貴族を殺るのは難しいけど」
「……それは、公平じゃないわね」
「ああ。世界は不公平だ」
アロイスの居室に入ると、女官長たちが待っていた。
「ソフィさまは、こちらへ」
女官長の有無を言わせぬ様子に、アロイスはやれやれ、と肩を竦めた。
彼女たちに連れられて控えの間に行くとドレスを脱がされ、準備されていた湯で身体中を洗われた。
そして手足の爪を短く切りながら、アロイスと夜を共にすることについての様々な注意や心得を聞かされた。
私はそれを、他人ごとのように聞き流す。
不死者が、人間の男女のような行為をするとは思えなかったから。
――だって、生物学的に考えて……必要ないでしょう?
アロイスとの間に子供を成せないということを考えると、やはり寂しかった。
すべすべの肌、ミルクの匂い、温かな小さい身体の私の赤ちゃんをこの腕に抱く日は永遠に来ない。
柔らかなモスリンの夜着に着替えた私は、アロイスの寝室の扉を開けた。
寝室と言っても表向きで、彼が昼間本当に眠るのはもっと完全に陽の射さない安全な場所のはず……。
中に入ってパタンと扉を閉めると部屋の中は薄暗く、天蓋ベッドの枕もとに置いてある小型の魔道ランプの灯りがついているだけだった。
「……ソフィ」
いきなり後ろから、アロイスに抱きしめられる。
「――っ! びっくりした。気配を消さないで」
「ごめん」
私を包む彼の身体は温かく、銀髪は少し湿っていた。
「アロイスもお風呂に入ったの?」
「ああ。冷たい身体でソフィを抱きたくなかったから」
アロイスは私を横向きに抱えると、そのままベッドまで運んでそっと横たえた。
「ずっと、こうしたかった」
彼も素早くベッドに上がり、私の隣に来てぎゅっと抱きしめた。
――君を抱きしめたまま、夜明けまでゆっくりと、少しずつ血を吸いたいと思っていた。
直接心の中に語りかけられると血の絆のせいなのか、彼の情熱に煽られ身体が熱くなる。
「……待って。あなたは後でゆっくり話し合おう、と言ったわ。説明して」
私はなんとかアロイスと目を合わせ、真面目な表情を作ろうとした。
本能では、このまま彼に身をゆだねたいと訴えていたのだけれど。
「わかった」
アロイスは一度固く目をつぶってから、私の身体に回されていた腕の力を抜き、起き上がった。
「できれば、ソフィには僕の庇護のもとで、これまで通りに生活させたいと思っていたんだ。
だが、あの巡察官――ユー・シュエンが君に目を付けてしまった。
あいつらは王の代理人として、大きな権限を持っている。
もし適当な理由をつけて、君を王都に連れて行くと言われたら、断るのは難しい。でも、僕の妻となれば話は別だ」
「そんな……でも、なぜ私を?」
私たちは、ベッドボードにもたれるようにして並んで座った。
「君を、というより僕たちを、かな。このノワール地方は色の薄い髪、金髪の人間が多い。
ヴィーザルの民の混血が多いからかもしれない」
「村の人たちの?」
「そう。ずっと昔、ヴィーザル村の人たちは、全員が金髪緑眼だったそうだ。そしてその色合いの人間は貴族から、極上の味がすると言われている」
「まさか!」
私は一つの考えが頭に浮かび、小さく叫んだ。
村が壊滅したのは魔獣のせいではなく、もしかして貴族が魔獣にかこつけて村人を襲ったのではないかと想像してしまったのだ。
「いや、そうじゃない。村が全滅したのは、魔獣のせいだ。僕も領主になってから、調べた。
それにあの時、サシャ王は、僕たちのことについてほとんど知らなかった」
「でも……村が魔獣に襲われたのは、異端審問官が訪れた後だった。貴族が魔獣を使って私たちの村を襲わせたと、考えたことはない?」
「魔獣の襲撃は昼中だった。君も知っているように、僕たちは、昼中は活動できない。
ただ、……そうだね。あの日の魔獣の襲撃がなくても村は、いずれどうなっていたか分からない。貴族に逆らって生きていく道など、人間にはないのだから。
そして、ユー・シュエンが君を王都に連れて行こうと考えたのは、おそらく王に君という極上の血を献上するためだと思う」
「ひどい話ね!」
ぞわっと怖気が立つのと同時に、ひどく腹立たしかった。
でも、本当にそれだけだろうか。
ユー・シュエンが私を見る目は、美味しそうな食べ物というよりもなにか懐疑的な眼差しだった。
「まあ、僕も君の血を飲んでいるんだけど、ね」
アロイスは複雑な表情を浮かべ、自嘲した。
「だけどあいつらよりは、ずっと僕の方がましだ。それは、分かって欲しい」
「……ましだ、なんて。アロイスは私たちのことを考えてくれているのは、分かっている」
私はアロイスの肩に腕をまわし、冷えてしまった彼の頬に自分の温かな頬をすり寄せた。
血の絆を通じて彼から感情が流れ込んでくる。傷心と自己嫌悪、飢えと渇望が。
「私の血を……飲んで」
小声で告げると、アロイスは私の唇に自分のそれを重ね、ゆっくりとベッドの上に押し倒した。
彼のさらりとした銀髪が、私の頬に掛かる。
「不死者に抱かれるのは、嫌?」
薄明りの中で、真紅の瞳に見つめられる。
「――いいえ」
かすれた声で答えると、次の瞬間、息が止まるほど強く抱きしめられ、首筋に鋭い牙が埋められた。
歓喜の悲鳴を上げている私の声が、どこか遠くの方から聞こえてくる。
暖かなランプの光に浮かび上がる、彼の均整の取れた骨格に沿ってついたしなやかな筋肉、長い手足。煌めく銀色の髪。
アロイスの二の腕の傷跡は子供の頃、森の中で罠で傷ついた一角兎に襲いかかられた時、私を庇って怪我をしたものだ。
温度のないアロイスに私のぬくもりが、移っていく。
――ソフィ、愛している。
――アロイス、私も。
私たちは夜が明けるまでは、一緒に過ごせる……。